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  • 2011.05.14 Saturday
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いつ、なぜ?ストーンヘンジの謎を解く発掘調査を開始

本当に、知れば知るほど、摩訶不思議な巨石ですねえ、この英国のストーンヘンジってやつは・・

でも、古今東西を問わず、巨石・・(まあ、大きな石、岩ちゅうことですけど。。)信仰ってのは、世界各国で見られますよね。

太平洋に浮かぶイースター島の巨石文化も超有名ですし、ある意味、日本の、天照大神が、ご機嫌を損ねて、大きな岩(というか洞窟ですか・・)の陰に

御隠れになってしまったのも、そうした感性の表れかもしれません。

大きなもの、容易には動かぬもの、永遠性を感じさせるものには、人類は普遍的に、神なるもの、宇宙の根源のような何かを無意識的、普遍的に感じていたのかもしれません。

ストーンヘンジの、なぞが解き明かされて欲しいような、永遠の謎であって欲しいような、複雑な気持ちになりますけど

ロマンチストなサムライとしては・・・

ストーンヘンジ

ストーンヘンジ(stonehenge)は、ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石のこと。

現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在していた。

ストーンヘンジは北緯51度10分43.9秒西経1度49分6秒に所在する。

1.概要

円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。

考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。

馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。

夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線状に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。

また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある。

遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。

この遺跡とその周辺は、1986年にユネスコの世界遺産に加えられた。また、登録古代モニュメントとして法的に保護されている。

ストーンヘンジ自体は英国の国家遺産として保有・管理されている。周辺はナショナル・トラストが保有している。

2.語源

クリストファー・チッペンデールの Stonehenge Complete によると、ストーンヘンジの語源は古英語で石を意味する “sta-n” と、蝶番を意味する “hencg”(横石が縦石に蝶番のように積んであるから)

もしくは絞首台または拷問具を意味する “hen(c)en” から来ているとされる。

中世の絞首台は、今日見られるような逆L字型ではなく、二本の柱とそれに乗った横木で出来ていて、ストーンヘンジの構造に似ていた。

「ヘンジ」の部分はヘンジとして知られるモニュメントの一群を指す名前になった。考古学者は、内側に堀を持つ円形の土塁をヘンジと定義する。

考古学の用語でしばしば起こる通り、これは古美術収集家の用語からの転用であるが、実際にはストーンヘンジは土塁が堀の内側にあるので、ヘンジには分類されない。本当の新石器時代のヘンジやストーンサークルと同時代であるにも拘らず、多くの点で非典型的である。

例えば、トリリトンは他では見られない。ストーンヘンジは、ブロドガーのリングのようなブリテン島にある他のストーンサークルとは全く異なる。

3.ストーンヘンジの発展

ストーンヘンジの複合体は2000年間に渡る数段階に分けて建設されたが、その前と後の期間にも活動があった証拠もある。

ストーンヘンジで行われた活動の各段階の時代や内容を特定するのは、単純ではない。初期の発掘記録はほとんど残っておらず、正確な科学的時代計測は驚くほど少ないうえ、天然の白亜質による周氷河効果や動物の巣穴で妨げられ、複雑なことになっているのだ。

今日の段階で考古学者が最も広く支持している説を以下に詳述する。テキストで述べる箇所には番号が振ってあり、図中の番号と対応している。図は2004年現在のストーンヘンジを示している。

分かり易いよう、図からはトリリトンの横石は省略している。既に石が現存しない(または始めから入っていなかった)穴は白抜きの囲み、今日確認できる石は色付きで示してある。

4.遺跡建設以前

考古学者は、現代の観光客用駐車場の下から、紀元前8000年頃に遡る4つの中石器時代の大きな柱穴を発見した(天然木に由来するかもしれない一つを含めて5つかもしれない)。

これらは直径0.75メートルの松の柱を立てたものである。柱はその場で朽ちた。柱のうち3本(もしかしたら4本)は東西方向に並んでおり、儀礼場としての重要性を持っていたと思われる。

ブリテンではこれに並ぶものは無いが、類似の遺跡がスカンジナビアで見つかっている。当時、ソールズベリー平原は森に覆われていたが、4000年後の新石器時代にはカーサスの遺跡が600m北に建てられた。

最初の農業によって森を開拓し始め、土地の利用が始まった。この他の新石器時代初期の遺跡である、ロビンフッド・ボールの土手道が付いた囲いや長い墳墓はこの周辺に建てられた。

4.1ストーンヘンジ1

最初の遺跡は円形の土塁と堀の囲い (7, 8) でできていた。直径110mで北東に大きい入り口があり、南に小さい入り口 (14) がある。

それはわずかに傾斜しているがしかし特に目立たない開けた草地に建てられた。作業者は鹿と牛の骨、そして加工した火打ち石の工具を堀の底に置いた。

その骨は堀を掘るために用いた角のつるはしよりも相当に古いもので、それを埋めた人はそれを埋める前にその動物の世話をしていた。

堀そのものは連続的だが、より古い土手道で作った囲いの堀のように、いくつかの部分に分けて掘られた。

堀から掘り出した白亜は積み上げて土塁を作るのに使われた。この第一段階は紀元前3100年頃であるが、その後堀は自然に埋まっていき、作業者は堀を埋めた泥を取り除くことはしなかった。

囲まれた区域の内側には、それぞれ直径約1mの56個の竪穴 (13) が円環状に掘られた。この穴は、これらを初めて発見したと考えられている17世紀の古美術商ジョン・オーブリーにちなんでオーブリーホールと呼ばれている。

この竪穴は、柱の円陣を作る丸太の柱を立てるためのものと考えられるが、その証拠は発掘されていない。堀の外側にある小さい土塁も、この時期のものと考えられる。

4.2ストーンヘンジ2

第二段階の証拠は、もはや目で見ることはできない。

この時期に作られた柱穴の数から、紀元前第三千年期の初期にある種の木造の建造物が囲いの内側に作られたと考えられる。

さらに多くの数の丸太が北東の入り口に立てられ、南の入り口から内側に向かって平行の柱の列が並んでいた。

柱穴はオーブリーホールよりも小さく直径約0.4mで、間隔はオーブリーホールよりもやや不規則であった。

土塁は意図的に高さを削られ、堀は埋められた。少なくとも25のオーブリーホールが、貫入岩やその遺構の開設から2世紀後頃の火葬死体を入れられたことが知られている。

その穴の本来の機能が何であれ、第二段階には埋葬のための穴に変わっていたらしい。

このほかにも30個の火葬死体が堀の囲いの内側の、遺構の反対側である主に東半分に安置された。

したがって、ストーンヘンジは、この時点で環濠墓地として機能していたと解釈される。

これがブリテン島で最初の火葬墓地である。燃やされていない人骨の破片も、堀の中から見つかっている。

後期新石器時代の溝のある土器が発見され、この段階の特徴により時期を特定する証拠となった。

4.3ストーンヘンジ3i

考古学的発掘によると、紀元前2600年頃、石のほうを好んだため木の柱は放棄され、同心円状の三日月型の穴(Qホール、Rホールと呼ばれている)が遺跡の中央に掘られたことが分かった。

やはりこの段階でも時代を特定する証拠はほとんど無い。穴は80個の起立したブルーストーン(図では青で示した)が、250km離れた今日ウェールズのペンブロークシャーにあるプレセリの丘から運ばれてきた。

この石は約4トンあるのだが、ほぼまだら模様のある粗粒玄武岩から成っており、流紋岩、凝灰岩、および火山灰と石灰質の灰を含んでいる。

それぞれ高さ2m、幅1m〜1.5m、厚さ0.8mである。ブルーストーンの2倍の高さがあり重量6トンの緑色の雲母質の砂岩である祭壇石 (Alter Stone) として知られるもの (1) もまた、プレセリの近くのウェールズの海岸から運ばれたもので、単独のモノリスとして立てられたと考えられる。

北東の入り口(入り口を示す2つの石がある)もこの段階で拡張され、当時の夏至の日の出と冬至の日没の方角に正確に合致するようになった。

この段階の遺跡は未完成のまま放棄されたが、ブルーストーンは明らかに取り除かれ、QホールとRホールは意図的に埋め戻された。

それでも、この遺跡はこの段階の終わりごろかけては、エイブベリーをしのぐ重要度を持っていた。

2002年に5km南で発見されたアムズベリーの射手は、この段階の遺跡を見ていたかもしれない。

ヒールストーン (5) もまた、この段階に北東の入り口の外に立てられたが、その時代は特定できず、第3段階のいずれかの時点で立てられたようだ。今はもう見ることが出来ないが、最初は二番目の石もあった。

北東の入り口のすぐ内側に二つ(もしかしたら三つかもしれない)の門の石が立てられたが、今では、長さ4.9mのスローターストーン (4) が倒れた状態で残っているのみである。

概ね第3段階のものとされるその他のものに、盛り土の上に2つ立っているステーションストーン (6) がある。

この盛り土は古墳という呼び名で知られているが、遺体は埋まっていない。エイボン川まで3kmに渡り平行に走る2本の堀と土塁であるアベニュー(10)もまた、第3段階で加えられた。

後に、ステーションストーンとヒールストーンを囲む形で堀が掘られたが、その時点ではヒールストーンは一つだけになっていた。

4.4ストーンヘンジ3ii

紀元前第三千年紀の末に起こったその次の大きな活動段階には、およそ40km北にあるマルボロー・ダウンズの石切り場から運ばれた、30もの巨大な大砂岩が現れる(図中では灰色で示した)。

この石はほぞ穴とほぞの継ぎを加工されてから、30個が直径33mの円陣状に立てられ、上に30個の横石が載せられた。

横石自身も、さね継ぎという木工の手法で互いに接続された。それぞれの縦石はおよそ高さ4.1m、幅2.1m、重さ約25トンである。

それぞれ明らかに最終的な効果を意識して加工されている。すなわち、直立した石は上の方がやや幅広くなっており、遠近法によって上下が同じ幅に見えるようにしてある。

また、横石はわずかに湾曲しており、遺跡全体で円に見えるように作ってある。石の円陣の内側に面している側面は、外側に面した側面よりも滑らか、かつ精密に加工されている。これらの石の平均厚みは1.1mで、それぞれの間隔は平均1mである。

円陣を完成させるのには合計で74個の石が必要であり、それらの大砂岩の一部が持ち去られたのでない限り、この円陣は最後まで未完成のままだったと考えられる。

横石については、それぞれおよそ長さ3.2m、幅1m、厚さ0.8mである。横石の上端は地表面から4.9mの高さにある。

この円陣の内側に、加工された大砂岩でできた5個のトリリトンが、さし渡し13.7mの北東側の空いた馬蹄形に並べられて立っている。

これらの巨岩は、10個が縦石、5個が横石なのだが、それぞれ重さが50トンに及び、複雑な接続構造で積まれている。

いずれも左右対称に整形されていて、もっとも小さいものは高さ約6m、その隣には南西の隅にある少し高いところにある最大のもので、高さ7.3mである。

この大トリリトンのうち、現在立っているのは一つだけであるが、地上部分の高さだけで6.7m、さらに地下に2.4m埋まっている。

ストーン53として知られるひとつの大砂岩の表面に、短剣と14個の斧の刃の絵が刻まれている。

このほか、斧の刃の絵が3番、4番、および5番の石にも刻まれているのが見られる。

これらの年代を特定するのは難しいが、形状は青銅器時代後期の武器に似ている。最新のレーザースキャンによりこの解釈が裏付けられた。

この野心的な時期は、炭素年代測定法により紀元前2440年から2100年の間とされる。

4.5ストーンヘンジ3iii

青銅器時代の後期にブルーストーンが再び立てられたらしいが、この時期の詳細はまだ分かっていない。

ブルーストーンは大砂岩の円陣の外側に置かれ、この時期にはある種の方法で整形されたようだ。

いくつかの石には、大砂岩と同様に、丸太を加工する手法によるカットが加えられている。

これは、この時期にそれらが横石と接続され、より大きな構造の一部となっていたことを示唆する。

4.6ストーンヘンジ3iv

この時期には、ブルーストーンはさらに再編成され、二組の大砂岩の間の円陣の中と、円陣の中央の楕円の中に置かれた。

一部の考古学者は、この時期の一部のブルーストーンがウェールズ産の別のグループを構成していると主張している。

全ての石がストーンヘンジ3iiiで取り入れられた横石とつながることなく、正しく一定の間隔で立てられた。

アルターストーンが楕円から取り除かれて垂直に立てられたかもしれない。

もっとも印象的な建設段階に見えるかもしれないが、ストーンヘンジ3ivはどちらかというと、直前の段階よりもみすぼらしい造りで、新しく据えつけられたブルーストーンは全てが適切に設置されたわけでもなく、次々と倒れた。

とはいえ、この段階以降には小規模な再構築しか行われなかった。ストーンヘンジ3ivは紀元前 2280年から1930年までの間である。

4.7ストーンヘンジ3v

その直後、3iv段階のブルーストーンの円陣の北東部分が取り除かれ、馬蹄形の配置になった。これをブルーストーン馬蹄という。

これは中央にある大砂岩のトリリトンの配置を真似たもので、紀元前2270年から1930年までの時期である。この段階は有名なノーフォークのシーヘンジと同時代に当たる。

4.8ストーンヘンジ3vi

一番外側の大砂岩の円陣のさらに外側に、竪穴の円陣が二つ掘られた。これはYホール、Zホール(11,12)と呼ばれる。

Zホールは大砂岩の円陣より2m外側、Yホールはさらに5m外側にある。これらはそれぞれ30の竪穴から成り、それぞれの穴は砂岩の円陣にある石と対応しているように見える。

これらの穴には石は入れられなかったが、続く数世紀の間に自然に埋まっていった。穴を埋めた土の上のほうは鉄器時代とローマ時代の物質を含む。

ストーンヘンジに立っている遺構は紀元前1600年ごろに放棄されたと考えられる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



ツタンカーメン王の素顔、世界初公開

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ツタンカーメンの素顔
・・・って言っても、これじゃあただの骸骨だし。。

まあ、でも、骨からみても、素人見、結構な美男子だったんだろうな〜〜とは

想像つくね・・

でも、やっぱ、ツタンカーメンと言えば、黄金マスクの

↓これでしょ!!↓


ツタンカーメンの黄金マスクツタンカーメンの黄金マスク。





ツタンカーメンの黄金のマスク







■ツタンカーメンとは

ツタンカーメンの ヒエログリフ表記ツタンカーメン(紀元前1342年頃 - 紀元前1324年頃、在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)は、
古代エジプト第18王朝のファラオ(王)。より厳密な表記ではトゥトアンクアメン(Tut-ankh-amen)という。


目次

1 人物

2 ツタンカーメンの墓

3 ツタンカーメンのミイラ

4 ツタンカーメン他殺説
4.1 容疑者
4.2 頭部打撃説
4.3 骨折からの感染症説
4.4 政略的暗殺説

5 文献

6 外部リンク



[1] 人物

生まれについては、はっきりしておらず、アメンホテプ3世の子、スメンクカーラーの子と諸説あるが、アメンホテプ4世(アクエンアテン)と
側室キヤの間の子という説が有力である。

アクエンアテンの生存中、唯一神アトン信仰が説かれていたためにトゥトアンクアテン(アトン神の生ける似姿)と名乗っていた。

アクエンアテンの死後、即位すると伝統的な神であるアモン=ラーの信仰を復活させ、トゥトアンクアメン(アモン神の生ける似姿)と改名した。

また、首都をアマルナからテーベに戻した。在位中、王妃アンケセナーメンとの夫婦仲は良かったといわれている。

その後若くして死に、王家の谷に葬られた。ツタンカーメンの死後、王位は王家の血を引かない大臣や将軍たちによって引き継がれてゆくことになる。


ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったことがわかっており、

アメン信仰復活やその死について様々な推測が語られ、歴史のミステリーとされている。2005年1月に、ミイラの調査が行われた。


[2] ツタンカーメンの墓

王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は、1922年11月26日にイギリスのカーナヴォン卿の支援を受けた考古学者ハワード・カーターにより発見、
発掘された。

ツタンカーメンは王墓としてはきわめて珍しいことに3000年以上の歴史を経てほとんど盗掘を受けなかった
(実際には宝石の一部などが抜き取られていたが、副葬品自体は無事だった)、

王のミイラにかぶせられた黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品がほぼ完全な形で出土した。


その発掘は世界を大いに驚かせた。発掘のスポンサーとなったカーナヴォン卿が墓の公開直後に急死するなど、発掘関係者が次々と不遇の死を

遂げたとされ、ファラオの呪いの伝説が広まっている。

だが、実際に不遇に死んだ関係者は少数であり、更にその多くがこじつけといえるようなものであったため、呪いの話はロンドン・タイムズに

報道を独占させたカーナヴォン卿に恨みを抱いたマスコミの創作に過ぎないとされている。


また、ファラオのミイラに大きな外傷があったことから暗殺説を裏付けるものと注目されたが、いくつかの傷は20世紀前半当時のミイラを文化財と

して大事にしない風潮のために発掘時につけられたものであったことが明らかになっている。


ツタンカーメンのミイラと、黄金のマスクをはじめとする数々の副葬品はエジプトに残された。

そして、黄金のマスクや純金製の第3人型棺をはじめとする副葬品の大半は現在はカイロにあるエジプト考古学博物館に収蔵されて観光客に
公開されている。


[3] ツタンカーメンのミイラ

ツタンカーメンのミイラは現在、王家の谷のツタンカーメン王墓内で眠りについている。防腐処理の際の樹脂が化学反応によって変質したため、

ミイラの保存状態はかなり劣悪であった。


しかも、発見後、ミイラの包帯が解かれてしまった事も保存状態の悪化に拍車をかけることとなった。

包帯を解く際にも、多くの外傷がミイラに付けられ、さらには脊椎が切断され性器までもが消失した。

2007年11月、初めてミイラが一般公開された。王墓内の黄金の石棺から、同じく王墓内に設けられた気温や湿度を厳重に調整できる

プレクシグラス(軽く透明な合成樹脂)製の展示ケースの中に移され、保存状態が比較的良い顔と足先の部分を覆っていた布は取り外された。


2005年1月、CTスキャン撮影などによってミイラの調査が行われ、棺からミイラが取り出されたが、この時の貴重なミイラの映像は国際的に
注目された。

調査により死亡推定年齢が17〜20歳であることが明らかになった。身長は165僂蚤粒覆發なりの華奢であることがわかった
(ツタンカーメンの身長は古代エジプトの成人男性の平均身長とほぼ同じであった)。

しかし、死因については死につながる傷が発見及び特定されたものの、事故死説か他殺説かの論争に決着をつける事まではできなかった。


[4.1] ツタンカーメン他殺説

ツタンカーメンの死因は詳しくわかってはいない。有力な証拠は無いが他殺説も有り、その場合に3個の説があって容疑者も3名に絞られている。また、前述の調査によって事故死説も有力になっている。本来副葬されているはずであるパピルスの巻物(死者の書)が紛失していることも謎に拍車をかけている。


[4.2] 容疑者

アンケセナーメン(ツタンカーメンの王妃。アクエンアテンとネフェルティティとの間の娘。後、アイの即位のときにその妻となる。)

アイ(ツタンカーメンの死後、即位。)

ホルエムヘブ(アイの死後、即位。古代エジプト第18王朝最後のファラオ。)

[4.3] 頭部打撃説

後頭部に強い打撃を受けて、命を落としたというのが一番有名な説。上から何か落ちてきたための事故ともいわれているが、暗殺ともいわれている。

また、最近ツタンカーメンのミイラをCTスキャンしたことによって作られたツタンカーメンの模型には、後頭部を殴られた形跡がないため、
信憑性に欠ける。


[4.4] 骨折からの感染症説

CTスキャンによって浮上した新たな説が病死。ツタンカーメンが死ぬ一日ほど前、皮膚を突き破ってしまうほどの骨折をし、その結果、

傷口から何らかの細菌に感染し、命を落としたといわれている。

しかし、一日で感染病にかかり命を落とすまでに至るというのも考えにくい。ツタンカーメンは華奢な体躯でありながらも健康体だったと見られるところから、
その説も少し信憑性に欠ける。

また、この場合には暗殺ということには結び付けにくく、事故の線が強くなる。


[5] 政略的暗殺説

最後のひとつは毒殺説、すなわち暗殺。ツタンカーメンは白ワインを好んで飲んでいたといわれているが、そのワインに毒を盛られ、

次の日には息を引き取ったといわれている。

ワインは当時ファラオのみが飲む事が出来るものであり、これは、完全に政略的な暗殺と言える。

この説を否定する事柄は見つからないが、この事実を裏付ける証拠もないため、現在のところあまり有力な説はといえない。


[6] 文献

ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記』

[7] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ツタンカーメンに関連するマルチメディアがあります。ファラオの呪い
(ツタンカーメンの王墓発掘に関する呪い伝説の真相)



先代:
スメンクカーラー ファラオ
前1333年 - 前1324年 次代:
ケプルケプルゥラー (アイ)

この「ツタンカーメン」は、歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
JUGEMテーマ:びっくりニュ-ス



プラド美術館の増築工事が終了、一般公開へ

プラウド美術館・・なんて、あんまり親しみなかったけど、Wikiってみると

結構すごい美術館なんだ!!

なんたって、1819年に「王立美術館」として、スペインは、マドリードに開館したちゅうやから
歴史があるよね。

で、ベラスケス、ゴヤ、ボス、やら、かつては、ピカソのゲルニカも展示されてたらしいぞよ。

ふ〜〜ん、元は、修道院だったんだ。。

で、そのプラウド美術館の修復が完了して、公開されたちゅううわけでんねん。

何だか、スペイン旅行にかわゆい芸術的な子と、行きたくなってきちゃったです・・
(また、オヤジの盲想です・・・ハイ、、失礼しました。。)




▽プラド美術館って、どんな美術館??▽

プラド美術館 (Museo del Prado) は、スペインのマドリードにある、世界でも有数の規模と内容をもつ美術館である。

15世紀以来の歴代のスペイン王家のコレクションを展示する美術館である。1819年に「王立美術館」として開館。

1868年の革命後「プラド美術館」と改称された。現在文化省所管の国立美術館。ベラスケス、ゴヤなどのスペイン絵画が質量ともに充実している

ことは言うまでもないが、フランドル、イタリアなどの外国絵画も充実している。


補足:スペイン王室のコレクションにフランドル絵画が多数加えられた16世紀から17世紀にかけて、フランドルはスペイン王室の領土
(ブルゴーニュ公爵領)であった。ルーベンスが仕えたのもハプスブルグ家のフランドル総督である。


[1] 主な収蔵品

ベラスケス - 『女官たち(ラス・メニーナス)』(1656)

ベラスケス - 『ブレダの開城』(1634−35)

ベラスケス - 『マルガリータ王女』(1660)

ゴヤ - 『裸のマハ』(1797−1800)

ゴヤ - 『着衣のマハ』(1797−1803)

ボス - 『快楽の園』(1503−04)

デューラー - 『アダムとイヴ』(1507)

エル・グレコ - 多数

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ - 多数


[2] その他

ソフィア王妃芸術センター かつてプラド美術館別館に収蔵されていたピカソのゲルニカなどが展示されている。プラド美術館から徒歩圏内。

[3] 外部リンク
Museo del Prado スペイン語・英語
プラド美術館 スペイン政府観光局オフィシャルサイト(日本語)

ウィキメディア・コモンズには、プラド美術館に関連するマルチメディアがあります。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%89%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8" より作成

カテゴリ: スペインの美術館 | マドリード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中世キリスト教史上の謎「テンプル騎士団」の異端審問記録、700年を経て公開


テンプル騎士団
ねえ〜〜

薄学な、サムライは、正直、初めて聞いた名前でございます。

テンプル騎士団、、Wikiって、にわかお勉強すれば、なるほど、十字軍の時代に

できた、修道士=戦士の戦闘集団で、異教徒から、キリスト教徒を守るための騎士団だったのね。。

まあ、でも、フィリップ4世ですか、フランスの・・私利私欲の塊みたいな奴ですね・・

自分と、自分の子孫の権力を永続させたいがために、何癖つけて、テンプル騎士団を悪者にしたて

上げちゃうなんて、、

そこで、フィリップス4世が使ったのが、この「異端審問方式」・・・みたいですね。。

でも、復元版で、1部100万円近くするってことは、オリジナルは、一体おいくらになるの??


↓騎士団と言えば、ハリーポッターでしょ・・↓



style="float:left;" class="pict" />テンプル騎士団の紋章  二人の騎士は清貧の精神および騎士にして修道士という二重性をあらわしている。




テンプル騎士団




テンプル騎士団は中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストの貧しき騎士にして、エルサレムなるテンプル騎士修道会」

(ラテン語:Paupers commilitones Christi Templique Solomonici)であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。


十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団は

その中でももっとも有名なものである。


創設は1096年の第1回十字軍の終了後であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。

テンプル騎士団の最大の特徴は、構成員が修道士であると同時に戦士であったということにある。

同騎士団の団員たちは数次にわたって行われた十字軍活動の中で大きな役割を果たした。

さらに特筆すべきは、テンプル騎士団が王族や貴族たちの財産を預かる中で独自の金融システムを発達させ、

国際銀行の元祖ともいうべき役割を果たしていたことである。

ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、

1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の陰謀によって壊滅させられ、禁止となった。



目 次

1 組織構造

2 歴史
2.1 創設と初期の活動
2.2 巨大金融機関としての発達
2.3 聖地の喪失
2.4 騎士団の壊滅
2.5 名誉回復

3 テンプル騎士団の伝説

4 テンプル騎士団歴代総長(1118年〜1314年)

5 騎士団ゆかりの土地

6 参考文献

7 テンプル騎士団を扱った作品一覧

8 関連項目


[1] 組織構造

テンプル騎士団はれっきとした修道会であったため、会憲と会則を保持していた。会の発足時には改革シトー会の創立者で当時の欧州キリスト教界

で強い影響力を持っていたクレルヴォーのベルナルドゥスの支援を受け、ベルナルドゥス自身が会憲の執筆を行ったことで知られる。


テンプル騎士団は各国に管区長(マスター)とよばれる地区責任者がおり、騎士団全体を統括するのが「総長(グランド・マスター)」であった。

総長の任期は終身で、東方における軍事活動と西方における会の資産管理のどちらにも責任を負っていた。


テンプル騎士団は四つのグループから構成されていた。

それは騎士(重装備、貴族出身者)、従士(軽装備、庶民の出身者)、修道士(資産管理)、そして司祭(霊的指導)であった。

通常、一人の騎士には十人ほどの従士がついていた。 さらに一部の修道士は資産管理業務を専門としていた。

テンプル騎士団は十字軍従軍者の資産を預かる業務も行っていたが、あくまで主目的は戦闘にあった。


テンプル騎士団は入会者や各地の信徒から寄進を受けることで資産を増やしたが、その資産を用いて聖地や中東地域に多くの要塞を配置し、

武装した騎士団を常駐させた。



テンプル騎士団のユニフォームは白い長衣の上に赤い十字架のマークをつけたもので、テンプル騎士団を描いた絵でもよく見られる。


騎士団の入会儀式では、入会への意志の固さが問われ、秘密儀式が行われていた。入会式の全容が秘密とされたことが後に騎士団を異端として

告発するにあたって利用された。

しかし秘密儀式といっても、実際には通常の騎士団のような誓いや、修道会のような清貧・貞潔・従順の誓いを立てていたにすぎなかった。

上級騎士たちは決して降伏しないことを誓い、戦死こそが天国の保障であると考えていたとされる。

このような戦士としての士気の高さ、熱心に行われた鍛錬と十分な装備などがあいまって中世最強の騎士団と呼ばれるほどになった。



[2] 歴史

詳しい説明についてはテンプル騎士団の歴史参照。


[2.1] 創設と初期の活動

テンプル騎士団の歴史は第1回十字軍の派遣にさかのぼる。第1回十字軍は聖地の占領に成功したものの、中東地域におけるキリスト教徒の勢力は

依然として不安定なものであった。


そのため、聖地の守護を唱えたフランス貴族ユーグ・ド・パイヤンのもとに九人の騎士たちが集まった。

彼らは聖地への巡礼者を保護するという目的で活動を開始し、すでに活動していた聖ヨハネ騎士団修道会の例にならってアウグスティノ会の会則を

守って生活するという誓いを立てた。

エルサレム王国のボードワン2世は彼らの宿舎の用地として神殿の丘を与えた。神殿の丘にはもともとソロモン王のつくったエルサレム神殿が

あったという伝承があった。

このことから会の名称「神殿騎士団」、(テンプル騎士団)が生まれることになる。


ユーグ・ド・パイヤンは自分たちのグループもヨハネ騎士団のような騎士修道会として認可されたいと願い、当時の宗教界の大物であった

クレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを願った。


ベルナルドゥスの尽力の甲斐あって1128年1月13日、フランスのトロアで行われた教会会議において教皇ホノリウス2世はテンプル騎士団を

騎士修道会として認可した。


当時のヨーロッパ貴族の間で聖地維持のためになんらかの貢献をしたいという人々が多かったため、テンプル騎士団はフランス王はじめ

多くの王侯貴族の寄進を得、入会者も増えた。


1139年には教皇インノケンティウス2世がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務を免除される

など多くの特権を付与したことでその力が増すことになった。


テンプル騎士団は1147年の第2回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団に

パリ郊外の広大な敷地を寄贈した。


ここにテンプル騎士団の西欧における拠点が建設された。この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦のごときものであり、

教皇や外国人君主がフランスを訪れる際の宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。


1163年には教皇アレクサンデル3世が自らの選出に際し、尽力したテンプル騎士団に報いる形で回勅『Omne Datum Optium』を出して修道会と

財産の聖座による保護、司教からの独立などの特権を賦与した。


テンプル騎士団の騎士たちの強さと勇敢さは伝説的なものであった。特に1177年にモントギサールの戦いでサラディン率いるイスラム軍を撃退し、

フランスのフィリップ2世やイングランドのリチャード獅子心王とも共闘、スペインやポルトガルでも対イスラム教徒戦闘に従事して、

その勇名を不動のものとした。

しかし、数々の特権を受けて肥大化していく騎士団に対し、地域の司教たちや他の修道会から批判が行われるようになった。

それだけでなく、後述するように一切の課税を免除され、自前の艦隊まで有して商業活動や金融活動を行っていた騎士団は商人や製造業者たちの

敵意を受けるようになっていった。


[2.2] 巨大金融機関としての発達

軍事組織としての表の顔に加えて持っていた騎士団のもう一つの顔が金融機関としてのものであった。

もともとは入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。

会の活動目的が聖地守護と軍事活動であっても実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。

ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。

特筆すべきは、テンプル騎士団が巡礼者の預金証を作成し、彼らの資産を預かるサービスを編み出したことである。

このような新たなビジネスモデルの構築と、多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけて騎士団は莫大な資産をつくり、

それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。


そこへ教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。

パリにあったテンプル騎士団の支部はフランスの非公式な財務省といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する財政援助を行っている。


[2.3] 聖地の喪失

騎士団の経済的な発展とは裏腹に1187年までに中東情勢は悪化の一途をたどっていた。当時の総長ジェラール・ド・リデフォールは

宿敵サラディンとの数次にわたる戦闘に敗北するだけでなく、自らが捕虜となるという致命的な失態を演じた。


これは投降よりは死を選ぶという騎士団の勇名に泥を塗ることになった。

ジェラールは一度は解放されたが、再び捕虜となって斬首されたため、ヨーロッパにおいてテンプル騎士団への風向きが変わっていく。


1290年にアッコンが陥落すると、ヨーロッパ人は完全に聖地周辺の足がかりを失うことになった。

軍事活動がなくなっては存続できない他の騎士団が存亡をかけて新たな目標を見つけていく中で、特権と財産に守られていたテンプル騎士団には

危機感がなく、スペインでのムーア人との小競り合いを除けば、ほとんどすべての軍事活動を停止するようになっていた。


[2.4] 騎士団の壊滅

騎士団の破滅は急に訪れた。13世紀の終わり、中央集権化をすすめていたフランス王フィリップ4世(美男王)は財政面でたびたびテンプル騎士団

の援助を受けていたにもかかわらず、自らの新しいアイデアに夢中になっていた。


それは当時もっとも勢力のあった二つの騎士団、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を合併し、自らがその指導者の座について聖地を再征服する。

その後、自分の子孫にその座を継承していくことで自らの一族が世々にわたって全ヨーロッパにおよぶ強大な影響力を持てるだろうという夢

であった。しかし、現実問題としてフランスは常に財政難にあえいでいた。


フィリップ4世は腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって、1296年には教皇庁への献金を禁止し、通貨改鋳を行う。

さらに1306年にはフランス中のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出た。

こうしてまとまった資産を手にしたフィリップ4世が次に目をつけたのが富裕なテンプル騎士団であった。


一方、当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。

そのため、フィリップ4世は債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画したともいわれる。

いずれの動機であれ、まず、手始めにフィリップは聖ヨハネ騎士団との合併をテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案し、

即座に拒絶された。


そこで王はどのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討したが、そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に

持ち込むことは難しいことがわかった。


そこで(匿名の証言を採用できる)「異端審問方式」を用いることで有罪に持ち込もうと考えた。

異端審問を行うには教皇庁の認可が必要であるが、当時の教皇はフランス王の意のままに動くフランス人のクレメンス5世であり、

何の問題もなかった。


こうしてテンプル騎士団を入会儀式における男色行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴することになった。


1307年10月13日(この日が金曜日だったため、以後「13日の金曜日は不吉である」というジンクスが生まれたともいわれる。)

フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団のメンバーたちを何の前触れもなく一斉に逮捕。

異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行った。

異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりで
あった。


騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定された。
(資産を聖ヨハネ騎士団に移すという決定はあくまでも表向きのもので、フランス国内のほとんどの資産は王の手に渡った。)


さらに1312年、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いたヴィエンヌ公会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定、

フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知したが、効果はなかった。

(公会議そのものでも、フランス寄りの枢機卿以外はみなこの決定に激しく抗議したが、教皇の権威をたてに押し切った。)


たとえばポルトガルでは国王が逮捕を拒否し、「キリスト騎士団」という名前での存続が認められた。

カスティーリャとアラゴンでもテンプル騎士団に対する弾圧は一切行われなかった。


ドイツとキプロス島では裁判までは行われたが証拠不十分で無罪の判決が下された。また教皇庁と対立していたロベール王の率いるスコットランド

は、そもそも教皇の決定など意に介していなかったので同地の騎士団も弾圧を免れた。


資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために1314年、投獄されていた四人の指導者たちの処刑を指示。

ジャック・ド・モレーら最高指導者たちはシテ島の刑場で生きたまま火あぶりにされた。


[2.5] 名誉回復

テンプル騎士団については19世紀にいたるまで彼らの異端という汚名は晴らされることがなく、無批判に受け入れられていた。

しかし1813年にフランスのレイヌアールが初めてこれに疑義を呈した。

最終的に1907年にドイツの歴史学者ハインリッヒ・フィンケが「彼らの罪状は事実無根で、フィリップ4世が資産狙いで壊滅させた」ことを

明らかにした。


現代のカトリック教会の公式な見解では、テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正な

ものであったとしている。


また、ヴィエンヌ公会議で教皇がテンプル騎士団の禁止を決定したことも、当時の社会からの批判に流されたものであったと結論づけている。

2007年10月12日にバチカン法王庁は裁判資料「Processus Contra Templarios」の公開を決定し、今後の研究が待たれる。



[3] テンプル騎士団の伝説

テンプル騎士団にまつわる伝説は多い。伝説の多くはテンプル騎士団の最初の本部が置かれたエルサレム神殿とのつながりから生まれた
ものである。

たとえば彼らがエルサレム神殿の跡地から聖杯を見つけた、あるいは聖櫃を、あるいはイエスがかかった十字架を発見したなどというものである。


また、多くの団体が自らの出自をテンプル騎士団と結びつけることでその神秘性を高めようとしてきた。

代表的なものはフリーメーソンで彼らは19世紀に入ってから神殿の図が入った紋章を使い始め、自らのルーツをテンプル騎士団と結び付けよう
とした。

代表的な伝説は、テンプル騎士団がロバート・ブルース支配下のスコットランドで存続したというもので、ここからスコットランド儀礼の

フリーメーソン団やフランスを中心とするジャコバイト系フリーメーソン団、さらには種々のオカルト系フリーメーソン団が生まれた。

さらに『ダ・ヴィンチ・コード』など多くのフィクション作品において、テンプル騎士団の神秘的なイメージは利用されつづけている


[4] テンプル騎士団歴代総長(1118年〜1314年)

ユーグ・ド・パイヤン(Hughes de Payens 1118-1136)

ロベール・ド・クラオン(Robert de Craon 1136-1146)

エヴェラール・デ・バレス(Everard des Barres 1146-1149)

ベルナール・ド・トレムレ(Bernard de Tremelay  1149-1153)

アンドレ・ド・モンバール(André de Montbard  1153-1156)

ベルトラン・ド・ブランシュフォール(Bertrand de Blanchefort 1156-1169)

フィリップ・ド・ミリー(Philippe de Milly  1169-1171)

オドー・ド・サンタマン(Odo de St Amand  1171-1179)

アルノー・ド・トロージュ(Arnaud de Toroge 1179-1184)

ジェラール・ド・リドフォール(Gérard de Ridefort 1185-1189)

ロベール・ド・サブレ(Robert de Sablé 1191-1193)

ジルベール・オラル(Gilbert Horal 1193-1200)

フィリップ・ド・プレシス(Phillipe de Plessis 1201-1208)

ギヨーム・ド・シャルトル(Guillaume de Chartres 1209-1219)

ペドロ・デ・モンタギュー(Pedro de Montaigu 1219-1230)

アルマン・ド・ペリゴール(Armand de Périgord 1232-1244)

’リシャール・ド・ビュレ(Richard de Bures 1245-1247)

’ギヨーム・ド・ソナク(Guillaume de Sonnac 1247-1250)

’ルノー・ド・ヴィシエ(Renaud de Vichiers 1250-1256)

トマ・ベラール’(Thomas Bérard 1256-1273)

’ギヨーム・ド・ボージュー(Guillaume de Beaujeu 1273-1291)

’ティボー・ゴーダン(Thibaud Gaudin 1291-1292)

’ジャック・ド・モレー(Jacques de Molay 1292-1314)


[5] 騎士団ゆかりの土地

中東

岩のドームおよび神殿の丘(エルサレム)
アッコの城砦跡
アトリート城(巡礼城 ハイファ)
トルトーザ(シリア タルトゥース)
サフェド
イングランド

テンプルチャーチ、ミドルテンプル、インナーテンプル(ロンドン)
テンプルコンブ(サマーセット)
ルンディ島(デヴォン)
ウェスターデール(北ヨークシャー)
フランス

タンプル塔
スペイン・ポルトガル

コンベント・デ・クリスト、トマル城およびサンタ・マリア・ド・オリバル教会(ポルトガル)
コインブラのスール城(ポルトガル)
アラゴンの灌漑設備(スペイン)
そのほか

キプロス島のコロッシ城
ベルリンのテンペルホフ城(ドイツ)
シャステル・ブラン(シリア)




[6] 参考文献

R・ペルヌー、橋口倫介訳、『テンプル騎士団』、白水社、1977年

M・ベイジェント、R・リー、林和彦訳『テンプル騎士団とフリーメーソン』、三交社、2006年

橋口倫介、『十字軍騎士団』、講談社学術文庫、1994年

Gilles C H Nullens 、『正統と異端 第二巻:テンプル騎士団とヨハネ騎士団』、無頼出版、2007年

[7] テンプル騎士団を扱った作品一覧

モデルとしたものも含む。

フーコーの振り子 (小説)

重戦機エルガイム(日本のテレビアニメーション。作中に権力者オルドナ・ポセイダルの近衛師団としてテンプルナイツが登場。

宗教騎士団ではないが、衣装や使用するヘビーメタル(戦闘用ロボット)に白地に赤十字の意匠がみられる。)


ファイブスター物語
(上記作品を元にした宇宙叙事詩の漫画作品。ミラージュ騎士団の居住地、衣装デザインはエルガイムを原型とした騎士団となっているが、
こちらも宗教騎士団ではない)


serial experiments lain
(オリジナルアニメーション作品で、作中に宗教ではなくLisp言語を使用するハッカー集団としてこのテンプル騎士団が登場する。

普段は普通の生活をしている市民であるなど名称以外は共通点は乏しいが、主立ったメンバー4名が主人公の別人格から身元を特定され、

いわば無実の罪で白昼堂々惨殺されるという最期は共通している)


薔薇の封印

(宝塚歌劇団により2003年に上演されたミュージカル。主人公で吸血鬼のフランシスがテンプル騎士団の一員という設定になっている。)

[8] 関連項目

ヴィエンヌ公会議

騎士修道会

聖ヨハネ騎士団

キリスト騎士団

聖ラザロ騎士団

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB%E9%A8%8E%E5%A3%AB%E5%9B%A3" より作成

カテゴリ: 騎士修道会 | カペー朝 | キリスト教の歴史 | 秘密結社

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ぺトラ遺跡〜新・世界の七不思議〜って、どんなとこ?

ぺトラ遺跡??、、どこやねん、それって?



新世界の七不思議に選ばれた「ぺトラ遺跡」・・・、、薄学なサムライは、「ぺトラ遺跡」と聞いただけじゃ、ピンとこず下記、調べてみると、

「ぺトラ遺跡」のエル・カズネ(宝物殿)って、

『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』でロケに使われたんだそうな・・

なるほど、不思議で神秘的、かつ必見(?)そうな・・・


ペトラ遺跡とは



ペトラ(ヨルダン)の基本情報

エル・カズネ(宝物殿)
(英名) Petra
(仏名) Petra
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(i) (iii) (iv)
登録年 1985年

ヨルダンの首都アンマン(Amman)約200キロ南に位置する。放棄されて数百年が経つ遺跡。ユネスコの世界遺産に登録されている。見事な石造寺院と岩にくりぬかれた墓穴などが有名。

2000年以上前、この地域に住んでいたアラブの遊牧民ナバテア人の首都だった。中国、インド、アラビア半島南部とエジプト、シリア、ギリシャ、およびローマを結ぶ絹、香辛料などの交易の中継地として栄えた。

ペトラは、ヨルダンにある遺跡。死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またぺトラとは、ギリシャ語で岩を意味する。1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録。


目 次

1 概要

2 歴史

3 発掘調査

4 主な史跡

5 登録基準

6 その他

7 関連項目



[1] 概要

ペトラのある地は、自然の要害であった。また西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあった。ナバテア人(Nabataeans)の首都、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられてきた。

立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えた。ぺトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられる。

完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きであった。また雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していった。ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水システムを作り上げたことが分かっている。



[2] 歴史

紀元前1200年頃から、エドム人たちがぺトラ付近に居住していたと考えられている。エドム人たちの詳細は不明である。

立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達が居住しはじめる。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占。それにともないぺトラも古代ナバテア人の有力都市として栄えた。

紀元前64年から紀元前63年ごろ、ナバテア人はローマの将軍、ポンペイウスにより、その支配下におかれる。ローマは、ナバテアの自治は認めたものの、税を課した。また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とした。また、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。

106年には、ローマ皇帝トラヤヌスによりペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれる。

1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトが、十字軍以降、最初にヨーロッパへ紹介した。



[3] 発掘調査

ルートヴィヒ・ブルクハルトによる紹介以降、20世紀の頭から発掘調査が行われ始めた。2004年現在でも続いている。2000年の調査段階でも、未だ遺跡の1%程度しか完了していないと推定されている。



[4] 主な史跡

エル・カズネ(宝物殿)


[5] 登録基準

この世界遺産は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

(i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。
(iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。
(iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。


[6] その他

エル・カズネ(宝物殿)は、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』でのロケ地として使われた。


[7] 関連項目

世界遺産の一覧

ヨルダンの世界遺産

ウィキメディア・コモンズに、ペトラに関連するマルチメディアがあります。 ヨルダンの世界遺産
World Heritage Sites in Jordan

文化遺産
ペトラ | アムラ城 | ウム・アル=ラサス
文化遺産(※エルサレム)
エルサレムの旧市街とその城壁群
世界遺産 | アジアの世界遺産 | ヨルダンの世界遺産 | [編集]

ウィキメディア・コモンズに、ヨルダンの世界遺産に関連するマルチメディアがあります。

カテゴリ: ヨルダンの歴史 | ヨルダンの世界遺産 | 世界遺産 は行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「新世界七不思議」が決定、清水寺は惜しくも選出されず

新・世界の7不思議、決定だそうな・・・




万里の長城は、すぐそばまでは、行ったことあるのに
まだ、この目で見たことないんだな〜〜サムライは、

今年中に、行ってみよっと!!


万里の長城とは




万里の長城(中華人民共和国)

万里の長城の基本情報

(英名) The Great Wall
(仏名) La Grande Muraille
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi)
登録年 1987年
拡張年
備考
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図


万里の長城(ばんりのちょうじょう、ワンリー・チャンチョン)は中華人民共和国にある遺跡。ユネスコの世界遺産(文化遺産)。河北省山海関から、甘粛省まで至り、総延長は6,352kmに及ぶ。その大きさから「月から見える唯一の建造物」とも言われていたが、2004年12月8日に宇宙空間から肉眼で観測することはできないと中国科学院により否定された。

目 次

1 歴史

2 慣用句

3 登録基準

4 北京付近で訪問できる場所の一覧

5 関連項目



[1] 歴史

一般に長城を作ったのは秦の始皇帝だと認識されているが、写真のような、いわゆる「万里の長城」は明代に作られたものである。戦国時代から趙などは北の異民族に備えるために長城を建設していた。また北に備えるだけではなく戦国七雄の国境間にも長城が作られていた。始皇帝は中華を統一した後に中国の中にある長城は取り壊し、北に作られた長城を繋げて大長城としたのである。この時の長城は土製であり、馬や人が乗り越えられなければ良いということで、それほど高い城壁ではなかったという。また現在の物よりかなり北に位置し、その東端は朝鮮半島に及んだ。

前漢の武帝は匈奴を追って領土を拡張したので、長城は西の玉門関まで拡張された。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、北魏は南よりの現在の線に新しく長城を築いた。

しかし、後の北方民族・契丹の「遼」、女真の「金」、モンゴル人の「元」は、難なく長城を超えて侵入し、中国(華北)は3世紀もの間、北方民族の勢力下に置かれた。元を追い落として明が立てられると、元の再来に備えるために長城を強化し、ようやく現在の形になった。よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、実際は草原の中に建っている。中国人の北方民族に対する恐れと憎しみが伺えるが、モンゴル系民族は明代にも長城を超えて侵入を繰り返し、明末には満州(女真)が再び長城を超えて明は滅び、「清」の成立に至った。


現在、中華人民共和国政府は重要な歴史的文化財として保護し、世界遺産にも登録されている。世界有数の観光名所としても名高いが、地元住民が家の材料にする目的で長城のレンガを持ち去り、破壊が進んでいる。また、長城がダム工事により一部沈んだりもしている。長城周辺の甘粛省や陝西省は中華人民共和国でもっとも貧しい地域の一つで、当局は対策に頭を悩ませている。

2006年4月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告がされた。



[2] 慣用句

日本に於いて、1989年の証券取引法改正でインサイダー取引への規制が強化されたことを受け、企業の非公開情報を知り得る立場にいる引受部門と、投資家に銘柄選定のアドバイスをする営業部門の間に「情報の壁」をつくるため、両部門を異なる場所に離す、管理体制を徹底するなどの対策を施すとした証券界の自主ルールを設定。この自主規制のことを「チャイニーズウォール(万里の長城の意)」という。


[3] 登録基準

この世界遺産は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

(i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。
(ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
(iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。
(iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。
(vi) 顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの。


[4] 北京付近で訪問できる場所の一覧

八達嶺長城(もっとも有名な見学地。ツアーのほか北京市内からの路線バスも頻繁にある。)
慕田峪長城
金山嶺長城(慕田峪と司馬台の間にあり、司馬台とお互いに徒歩で行き来できる。)
司馬台長城(険しい山の上に築かれている。あえてあまり修復されていない。)
居庸関長城(八達嶺長城のすぐ北京寄りにある。近年修復・公開された。)
蟠龍山長城(あえて全く修復せずに公開された長城。崩れかかった長城の上に歩道だけを整備して公開された。)


[5] 関連項目

中華人民共和国の世界遺産
世界遺産の一覧
下川町 ミニ万里の長城がある
金盾 "Great Firewall"とも呼ばれる中国のネット検閲システム。
姚明
ウィキメディア・コモンズに、万里の長城に関連するマルチメディアがあります。 中華人民共和国の世界遺産
World Heritage Sites in the People's Republic of China

文化遺産
万里の長城 | 北京と瀋陽の明・清王朝皇宮 | 莫高窟 | 秦始皇帝陵及び兵馬俑坑 | 周口店の北京原人遺跡 | 承徳避暑山荘と外八廟 | 三孔 | 武当山古建築 | ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群 | 廬山 | 麗江古城 | 平遥古城 | 蘇州古典園林 | 頤和園 | 天壇 | 大足石刻 | 青城山と都江堰 | 安徽省南部の古代集落群-西遞と宏村 | 龍門洞窟 | 明・清王朝の皇帝墓群 | 雲岡石窟 | 高句麗前期の都城と古墳 | マカオ歴史地区 | 殷墟
自然遺産
九寨溝の渓谷の景観と歴史地区 | 黄龍風景区 | 武陵源 | 三江併流 | 四川省のジャイアントパンダ保護区
複合遺産
泰山 | 黄山 | 峨眉山と楽山大仏 | 武夷山
世界遺産 | アジアの世界遺産 | 中華人民共和国の世界遺産 | 五十音順 | [編集]

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