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  • 2011.05.14 Saturday
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【動画】 MLBヤンキース、2敗、優勝はどっちだ!

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2-1 槙原さんが松井キャンプ訪問.mpg
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松井秀喜、このワールドシリーズじゃあ、当たりまくってますけど、ヤンキース優勝出来るんでしょうか・・






WBC、日本も頑張って!原監督!

WBC、日本は、勝てるんですかね〜〜原ちゃんで・・

頑張って勝ちまくり、優勝して欲しいっすけど!!


薬用凌駕(薬用リョウガ、アランテ2)




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JUGEMテーマ:野球



井川2度目のマイナー降格

ヤンキース・井川が、ロイヤルズ戦で、またまたメッタ打ちで、マイナー落ちだそうな・・

結構メジャーでもやるんじゃないか、、って期待してたけど、実力なのかな?

それとも、まだメジャー・ベースボールに慣れてないのか、研究ちゅうか、順応力がないのか・・・

どっちにしても、本場のプロは、厳しいよね・・・


米大リーグ、ヤンキースは27日、井川慶投手(28)のマイナーリーグ降格を発表した。井川は28日に3Aスクラントンに合流する。

 26日のロイヤルズ戦で3敗目を喫した井川は、大リーグ1年目の今季、12試合で2勝3敗、防御率6・79。5月初旬から6月半ばすぎまでマイナーで調整したが、6月22日の昇格から6試合で1勝もできなかった。

 ジョー・トーリ監督は「とにかく問題は安定感。試合の中でフォームが持続することが必要」と再調整の狙いを説明した。井川は球団広報を通じて「3Aでも一生懸命頑張ります。安定した投球ができるように、もっと努力していきたい」とコメントした。 (共同)
[ 2007年07月28日 08:40 スポ日・速報記事 ]


ヤンキース・井川、ロイヤルズ戦先発で5失点3敗目



ロイヤルズ戦に先発、2回に4点を失い投手コーチ(中央)からアドバイスを受ける井川=AP 【カンザスシティー=小金沢智】米大リーグ、ヤンキースの井川は26日、ロイヤルズ戦に先発し、5回2/3を投げ、102球7安打5失点で降板し、3敗目を喫した。

 5奪三振、2四球1死球だった。

 二回、4長打に四球が絡んで4点を先制されると、六回にも連続長打で1点を失った。

 松井秀は5番左翼で先発。第2打席に7試合連続安打となる右前打を放ったが、得点圏に走者を置いた場面で2度凡退し、打点は6試合連続で途切れた。4打数1安打で打率は2割9分0厘。

 試合はヤンキースが0―7で敗れ、連勝は6で止まった。
(2007年7月27日12時42分 読売新聞)



イチロー 球宴初ランニング本塁打でMVP獲得

イチロー、まさに、天才・千両役者やの!!

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イチロー3安打2打点!MVP獲得

オールスター戦の5回、史上初のランニング本塁打を放ち、笑顔でナインに迎えられるマリナーズのイチロー
Photo By AP


 米大リーグの第78回オールスター戦は10日(日本時間11日)、当地のジャイアンツの本拠地AT&Tパークで行われ、マリナーズのイチロー外野手(33)=本名鈴木一朗=が大リーグ球宴史上初のランニング本塁打を放つなど3安打2打点でア・リーグの5―4の勝利に貢献。日本選手で初めて最優秀選手(MVP)となった。

上機嫌で臨んだ記者会見では日米のメディアを前に笑顔で「初めて楽しいオールスターになりました」と喜びを語った。

 ファン投票で選ばれ「1番・中堅」で先発したイチローは1回に右前打、3回に左前打と連続ヒット。1点を追う5回1死一塁の第3打席ではクリス・ヤング投手(パドレス)から右中間に大飛球を放ち、俊足を生かして一気に生還し、逆転本塁打となった。

球宴での本塁打、複数安打はともに日本選手で初めて。2003年以来、最多タイの日本選手3人が選出された米球宴で、ドジャースの斎藤隆投手(37)は7回に登板し1回を無安打無失点と好投。レッドソックスの岡島秀樹投手(31)は出番がなかった。

 ア・リーグは3―2の8回にマルティネス(インディアンス)の代打本塁打で5―2とし、9回はナのソリアーノ(カブス)に2ランを許して1点差に迫られたが、逃げ切った。 

大リーグ通算最多本塁打記録にあと4と迫り、ナ・リーグの「2番・左翼」で先発したボンズ外野手(ジャイアンツ)は2打数無安打だった。

 対戦成績はア・リーグが1分けを挟んでの連勝を10に伸ばし、通算36勝40敗2分けとした。

 ▼イチローの話 楽しかった。こういう舞台を用意してくれたファンに、あらためて感謝したい。7年目で、これまでと違う感覚を持ってやってこられた。これまで6年の成果が、ようやく表れてきている。そんな自分に対しても、喜びを感じられたオールスターでした。

 <両軍監督絶賛!脱帽!>両軍の監督がMVPを獲得したイチローを絶賛した。

 ナ・リーグのラルーサ監督はランニング本塁打だけでなく計3安打したイチローに「バットを持った芸術家だ。走りも守備もいいし、完成されたプレーヤー。アウトにできるボールがないよ」と脱帽した。

 一方、ア・リーグのリーランド監督は、試合前の打撃練習でイチローが柵越えを連発する姿に驚いていたという。ただ、自らが率いるタイガースが、後半戦最初に戦うのがマリナーズとあって「本当はいい知らせじゃないんだ。木曜日に対戦する相手だからね」と冗談交じりに話した。 (共同)

MLBオールスター 試合結果



ア・リーグ 5-4 ナ・リーグ 終了

※右がホーム。時刻は米国東部時間(日本時間−13時間)
※なお、試合予定は天候、球団の事情などで変わることがあります。
※情報提供:データスタジアム

2007年7月10日 オールスター AT&Tパーク 終了

      1 2 3 4 5 6 7 8 9 計
ア・リーグ 0 0 0 0 2 1 0 2 0 5
ナ・リーグ 1 0 0 0 0 1 0 0 2 4

投手
ア・リーグ D.ハーレン、J.ベケット、C.C.サバシア、J.ヴァーランダー、J.サンタナ、J.パペルボン、J.J.プッツ、F.ロドリゲス
ナ・リーグ J.ピーヴィー、B.ペニー、B.シーツ、C.ハメルズ、C.ヤング、F.コーデロ、斎藤、B.ワグナー、T.ホフマン

責任投手
【勝】 J.ベケット( 1勝 0敗 0S)
【負】 C.ヤング( 0勝 1敗 0S)
【S】 F.ロドリゲス( 0勝 0敗 1S)

本塁打
ア・リーグ イチロー1号、V.マルティネス1号、C.クロフォード1号
ナ・リーグ A.ソリアーノ1号

 <<日本人選手>>
▼イチローの打席
【第3打席】5回 右越えランニング本塁打(打点2)
【第2打席】3回 左前打
【第1打席】1回 右前打
※「1番・中堅」で先発出場。5回の守備から交代。

▼斎藤隆の投球
1回  安打0 三振0 失点0 自責点0 防御率0・00
※7回から7番手で登板
 

JUGEMテーマ:メジャーリーグ



斉藤隆 マーリンズ戦で、破れ、ドジャース3連敗・・

斉藤隆投手、 マーリンズ戦に登板し、救援に失敗



ロサンゼルス・ドジャース(Los Angeles Dodgers)斉藤 隆ピッチャーっていや〜〜
36歳で、米メジャー挑戦し、活躍、オール・スターにまで選ばれ、中年の星なのに

頑張って、欲しいもんじゃいな!!

●ロサンゼルス・ドジャース(Los Angeles Dodgers)vsフロリダ・マーリンズ(Florida Marlins)で、

●9回から登板したドジャースの6番手・斉藤隆(Takashi Saito)は、1安打1失点を喫し救援に失敗。
●試合はドジャースが延長10回の末に5-6で敗れ、3連敗。

残念、、イチローは、相変わらず、絶好調だたんだろうか?

斎藤隆 (野球)とは



斎藤 隆の基本情報

国籍  日本 
出身地 宮城県仙台市
誕生日 1970年2月14日
身長・体重 188 cm 、
88 kg
守備位置 投手(リリーフ)
打席・投球 左・右
背番号 44
年俸 $1,000,000(2007年)
デビュー年  
経歴  

斎藤 隆(さいとう たかし 1970年2月14日 - )は、ロサンゼルス・ドジャーズに所属している投手。

目 次

1 来歴・人物

2 略歴

3 球歴

4 日本での通算成績

5 36歳でのメジャーリーグ挑戦

6 メジャーリーグでの通算成績
7 タイトル・表彰・記録

8 関連項目

9 脚注

10 外部リンク



[1] 来歴・人物

横浜時代のチームメイト・佐々木主浩は東北高校・東北福祉大学・横浜ベイスターズでの先輩にあたる(ちなみに斎藤の実兄は佐々木の同級生だった)。部屋も相部屋だったという。

斎藤の実家は出身の仙台市にて工務店を営んでおり、前出の実兄も同じく勤務中。プロゴルファーの宮里藍らが卒業した東北高校の新校舎建設も手掛けていた。

みずしな孝之の四コママンガ『ササキ様に願いを』では佐々木にアゴで使われるキャラクターとして描かれているが、実際のところは逆にまるで佐々木に気を使うことがなかったらしく、むしろ佐々木の方が朝起こしたり部屋の掃除をするなどしていたという(月刊ベイスターズより斎藤本人からの証言あり。『ササキ様に願いを』のコラムでも佐々木、斎藤、みずしなが対談したときに佐々木が語っていた)。

2007年6月頃、チームの負けが込んでいた時に、悪い雰囲気をぬぐい去るため、試合後にロサンゼルスの店で侍の衣装を購入し、次の試合前に、侍の格好でロッカールームを歩き回り、ナインを笑わせた[1](その日だけでなく、その次の試合前にも侍姿で登場した。また、その侍姿には普段は滅多に笑わないジェフ・ケントさえもウケていた)。また本人のブログによると、この姿でトレーナー室に行って肩のトレーニングを始めると、相手チーム(ニューヨーク・メッツ)の選手たちが入ってきて、メッツの選手にも大ウケで和ませてしまった、と書いていた。[2]

彼の正確な苗字の表記は「斎藤」だが、本人は自身のブログで「斉藤」と書くことも多く、特に気を使ってはいないようである。
晴れてオールスターゲームに出場できるほどの実力・知名度を備えるまでになった彼だが、球団ホームページのプロフィールに載っている出身大学名はデビュー以来「Tottoku Fukushi(とっとくふくし)」のままで全く更新されていない。[1]


[2] 略歴

大学は東北福祉大学に在学。当時は野手で、大学2年に投手転向。

1991年 - ドラフト1位で横浜大洋ホエールズに入団。
1994年 - オールスターゲームに初出場。
1996年 - プロ入り初の2桁勝利。奪三振206個で最多奪三振のタイトル獲得。
1997年 - 春季キャンプ中、右ひじに遊離軟骨を発見し、手術。このシーズンを棒に振る。
1998年 - 4月5日、復活を遂げ、4月29日には583日ぶりの勝利を味わう。そして38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。日本シリーズでは優秀選手に選ばれた。
2001年 - 佐々木主浩がFAでシアトル・マリナーズに移籍したため、当時の森祇晶監督の「俺はお前と心中する」という名台詞によりストッパーに転向。この年7勝1敗27S、防御率1.67の成績を挙げ、この時に経験が後の先発、そしてメジャーでの生活に活きたと本人が述べている。
2005年 - オフに大リーグ挑戦のために自由契約に。
2006年 - ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。4月にメジャー昇格。4月18日、シカゴ・カブス戦でメジャー初勝利を挙げる。ドジャースでは当初セットアッパーとして登板していたがエリック・ガニエの故障、他投手の不調によりクローザーに昇格した。奪三振107個は、メジャー全リリーフ陣の中で最多奪三振。
2007年 - 6月26日(日本時間27日)のダイヤモンドバックス戦で日本人メジャー最高球速となる99マイル(約159キロ)をマーク。ちなみに日本での自己最速は(本人曰く)153キロである。また、同日に記録したセーブにより、デビュー以来、48救援登板で45の成功を収め、初救援機会からの救援成功率で44/48セーブのガニエを抜きメジャー新記録を樹立した。7月1日にはMLBオールスターゲームに初出場することが決定。


[3] 球歴

出身地 - 宮城県仙台市
身長/体重 - 188cm/88kg
血液型 - B型
投打 - 右投左打。但し、左投手と対戦するときに右打席に立ったこともある。
出身 - 東北高校−東北福祉大学−横浜大洋ホエールズ・横浜ベイスターズ(1992年-2005年)−ロサンゼルス・ドジャーズ(2006年-)


[4] 日本での通算成績

339試合 1,514 2/3投球回 87勝80敗48S 1,284奪三振 495与四死球 175被本塁打 639自責点 防御率3.80
年度 試合数 勝数 敗数 セーブ 投球回数 被本塁打 与四球 奪三振 自責点 防御率
1992年 6 0 2 0 16 2 10 21 15 8.44
1993年 29 8 10 0 149 15 61 125 63 3.81
1994年 28 9 12 0 181 5 69 169 63 3.13
1995年 26 8 9 0 162 13 45 132 71 3.94
1996年 28 10 10 0 196 2/3 31 63 206 72 3.29
1997年 - - - - - - - - - -
1998年 34 13 5 1 143 2/3 9 23 101 47 2.94
1999年 26 14 3 0 184 2/3 32 31 125 81 3.95
2000年 19 6 10 0 115 2/3 17 36 97 71 5.52
2001年 50 7 1 27 64 2/3 6 14 60 12 1.67
2002年 39 1 2 20 47 2/3 5 15 46 13 2.45
2003年 17 6 7 0 103 1/3 16 22 72 48 4.18
2004年 16 2 5 0 44 1/3 12 13 37 38 7.71
2005年 21 3 4 0 106 12 29 93 45 3.82
通算 339 87 80 48 1,514 2/3 175 431 1,284 639 3.80



[5] 36歳でのメジャーリーグ挑戦

2002年のオフシーズンにFA宣言をしてメジャーリーグへの移籍を模索したが、結局横浜ベイスターズと3年で総額7億3,000万円の契約を結んだ。しかしその後の3年間で僅か11勝にとどまった。2005年のオフシーズン、再度メジャーリーグへの挑戦を決めた。だが36歳で選手としては高齢であった斎藤に興味を示す球団はなかなか見つからず、所属先が決まらぬまま2006年を迎えた。1月末にロサンゼルス・ドジャースがマイナー契約で春季キャンプ受け入れを表明した。斎藤は直ちに渡米し2月7日に契約、16日に即キャンプインした。

レギュラーがほぼ確約されており、調整が主であった日本でのキャンプと違い、アメリカではマイナー契約の新人であり、キャンプで登板予定が入っていても、メジャー契約の選手の都合で機会を奪われることもあった。オープン戦で力を発揮出来なかった斎藤は、メジャーリーグへ昇格できなかった。

しかしシーズン開幕直後、ドジャースのクローザーを務めていたエリック・ガニエが故障者リスト入りし、「他に即戦力がいないから」との理由でメジャー昇格した。4月7日にチームへ合流し、9日にメジャーで初登板した。以後も厳しい場面での登板を告げられるが無失点で切り抜けた。

18日のシカゴ・カブス戦で初勝利を飾り、チームメイトから「ウェルカム・トゥ・ザ・ビッグリーグ!」と声をかけられ祝福された。

チーム監督であるクレイディ・リトルからの信頼が非常に厚い。また、ノマー・ガルシアパーラとは仲が良く、助けられる場面が多かった。ブログではよく「ノーマ」の愛称でガルシアパーラのことが書かれている。その他では、ブラッド・ペニーやSammyの名付け親であるアンドレ・イーシアーと仲が良い。

斎藤の外へ逃げるスライダーはメジャーリーグのストライクゾーンに適合していた。日本ではボールと判定されたコースもストライクになり、有利なカウントで試合を進めることができた。またリリーフとして起用されたため、投球回数が短く、鋭い球威で投げることも可能であったことや、持ち前の明るい性格によりチームへの順応が早かったことなどが繋がり、好成績をあげることができた。その結果、奪三振数(107)と被打率(.177)はリリーフ陣の中でメジャートップに輝いた。シーズン途中にはクローザーに命ぜられ、9月22日にはドジャースの新人球団記録に並ぶ21セーブ目を挙げた。9月30日対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦において自身シーズン24セーブ目を挙げチームのプレーオフ進出に貢献した。

2007年シーズンから、本拠地ドジャースタジアムでマウンドに上がる際にかけられる曲は当初一世風靡セピアの「前略、道の上より」であったが、本人が不評と感じたため数試合で止めた。現在のテーマソングは「バッド・トゥー・ザ・ボーン」で、米国では有名なロック歌手ジョージ・ソログッドのヒット曲を使っている。


[6] メジャーリーグでの通算成績

72試合 78 1/3投球回 6勝2敗24S 107奪三振 25与四死球 3被本塁打 19失点 18自責点 防御率2.07(2006年)


[7] タイトル・表彰・記録

最多奪三振 1996年
月間MVP 1996年4月
カムバック賞 1998年
オールスター戦出場 NPB4回(1994年、1996年、1999年、2001年)、MLB1回(2007年)
新人セーブ数・球団歴代1位(24セーブ・LAドジャース、2006年9月28日)
初セーブ機会からの救援成功率メジャー歴代1位(現地2007年6月26日)


[8] 関連項目

宮城県出身の有名人一覧
須藤豊
江尻亮
近藤昭仁
大矢明彦
権藤博
森祇晶
山下大輔
牛島和彦
ノマー・ガルシアパーラ
ササキ様に願いを


[9] 脚注

[ヘルプ]^ http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2007/06/13/KFullNormal20070613025_p.html
^ http://sports.yoshimoto.co.jp/t_saito/2007/06/post_a700.html


[10] 外部リンク

斎藤隆のChallenge Blog(公式)
JAPAN LITTLE LEAGUE公式サイト 僕のリトル時代
MLB.com Player Information

カテゴリ: 1970年生 | 日本の野球選手 | 東北福祉大学硬式野球部の選手 | 横浜ベイスターズ及びその前身球団の選手 | ロサンゼルス・ドジャース及びブルックリン・ドジャースの選手 | 宮城県出身の人物 | MLBの日本人選手

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


松井秀喜 第10号決勝2ランを放つ活躍

やったね、松井!!頑張れ松井 秀喜!!

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松井秀喜とは

松井 秀喜(まついひでき)の基本情報

国籍 日本
出身地 石川県能美市
誕生日 1974年6月12日(33歳)
身長・体重 188 cm 、
95 kg
守備位置 左翼手
打席・投球 左・右
背番号 55 ▽記事全文▽

松井秀喜 第10号決勝2ランを放つ活躍

【7月6日 AFP】07MLB、ニューヨーク・ヤンキース(New York Yankees)vsミネソタ・ツインズ(Minnesota Twins)。

今季初の4番・指名打者で先発出場したヤンキースの松井秀喜(Hideki Matsui)は、決勝打となる第10号2ランホームランを
放つなど2安打2打点の活躍でチームの勝利に大きく貢献した。試合はヤンキースが7-6で勝利を収めた。(c)AFP/Getty Images


(写真)打球の行方を見つめる松井。(c)AFP/Getty Images Chris McGrath

年俸 $13,000,000(2007年)
デビュー年 1993年5月1日(NPB)、2003年3月31日(MLB)
経歴 星稜高等学校→読売ジャイアンツ(1993-2002)→ニューヨーク・ヤンキース(2003-)

松井 秀喜(まつい ひでき、ローマ字表記:Hideki Matsui、1974年6月12日 - )は、日本人メジャーリーガー。
石川県能美郡根上町(現能美市)出身。 2007年現在はアメリカ・メジャーリーグ、ニューヨーク・ヤンキース所属。
右投げ左打ち。ポジションは外野手。

星稜高等学校卒業。読売ジャイアンツ(1993年 - 2002年)を経て現在はニューヨーク・ヤンキース(2003年 - )。代理人はアーン・テレム。

目 次

1 経歴
1.1 プロ入りまで
1.2 読売ジャイアンツ時代
1.3 ニューヨーク・ヤンキース時代
2 人物・エピソード
2.1 プロ入りまで
2.2 読売ジャイアンツ時代
2.3 ヤンキース時代
2.4 個人よりもチーム
3 タイトル・表彰・記録
4 年度別打撃成績
5 コマーシャル出演
6 映画
7 ラジオ
8 書籍など
8.1 本人の著作
8.2 関連書籍など
9 関連項目
10 関連エピソード
11 脚注
12 外部リンク



[1] 経歴


[1.1] プロ入りまで

1974年6月12日、石川県能美郡根上町(現能美市)に生まれる。父・昌雄と母・さえ子の次男として生まれる。兄の影響で小学5年生から本格的に野球を始める。
根上中学校を経て星稜高等学校に入学。1年生から4番打者を務める。

1990年(1年)夏の選手権では3打数0安打、チームは初戦敗退。この大会には後にメジャーに渡ることになる中村紀洋、イチローも出場したがともに初戦敗退した。秋は北信越大会で敗れ、選抜出場を逃す。

1991年(2年)、選手権3回戦の竜ヶ崎一戦で甲子園初本塁打をライトスタンドに放った。新チームでは監督山下智茂の推薦でキャプテンに指名される。

1992年(3年)のセンバツではラッキーゾーンが撤去され、本塁打の激減した阪神甲子園球場で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打の大会記録をマーク(連続試合本塁打は2001年に更新)する。

選手権は2回戦の対明徳義塾戦で敗退。この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を行うなどの社会問題にまで発展した。ちなみに、対戦相手の明徳義塾高等学校の馬淵監督は星稜の練習を見て、『高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた。』は試合後のコメントとして有名である。

高校通算打率は.450、本塁打は60本。高校通算60号は国体の対尽誠学園戦の第4打席で記録。これは松井の高校最終打席だった。

1992年11月に行われたドラフト会議で巨人、阪神、中日、ダイエーの4球団が1位指名。抽選の結果、交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2,000万円。年俸は720万円。


[1.2] 読売ジャイアンツ時代

1993年、開幕こそ二軍スタートだったが、同じ新人の伊藤智仁(ヤクルト)からHRを放つなど、12試合で.375、4本塁打の活躍で一軍に昇格。

5月1日のヤクルト戦(東京ドーム)に7番レフトでプロデビューを果たした。初打席は西村龍次からセカンドゴロ。2打席目には同じく西村から2塁打を放ち、初安打初打点を記録。翌日の5月2日には高津臣吾(ヤクルト)から内角の直球をライトスタンドに運びプロ入り初本塁打。

1軍にいたのはわずかな期間だったにも関わらず、セ・リーグ高卒新記録となる11本塁打を放った。プロ入り1年目の成績は57試合の出場で打率.223、11本塁打。

1994年、開幕戦で2本塁打。中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなど20本塁打を記録してチームの日本一に貢献。オールスターではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。

1995年、22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。8月24日の横浜戦でレギュラーシーズンでは初の4番を打った。

1996年、自身2度目のリーグ優勝を経験すると共にMVPを受賞。夏場には7月、8月と2ヶ月連続月間MVPを獲得し、巨人の逆転優勝に大きく貢献した。

リーグ最終戦まで山崎武司(中日)と本塁打王のタイトルを争っていたが、最終戦の中日戦では敬遠されてタイトルを逃した。

22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録である。この年は横浜の斎藤隆から7本塁打を放ったが、これは同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録である。この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。


1997年4月27日の広島戦で通算100本塁打を達成。ドゥエイン・ホージー(ヤクルト)との本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初の2年連続1本差でタイトルを逃すことになる。

1998年7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。左ヒザの具合が思わしくないままシーズンを過ごし、その影響でプロ生活最大のスランプに悩まされる。

開幕戦は4番を打ったものの、スランプの影響で清原和博に4番の座を奪われる。4月は打率.190、2本塁打に終わった。

しかし5月は月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻し、その後は順調に打ち続け本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。オールスターでは新記録となる4試合連続本塁打を放つ。


1999年6月5日の横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。

7月のオールスターで代打で出場した際にわき腹を痛め、連続フルイニング出場が歴代3位(当時)の574試合で止まる。

以後8月中旬までは連続試合出場のために1イニングだけ守備固めとして出場する。このケガの影響が響いてヤクルトのロベルト・ペタジーニと2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶりの快挙だった。

2000年7月12日の広島戦で通算1,000本安打を達成。本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となる。

2001年4月12日の中日戦に1,000試合目の出場で通算250本塁打を達成。5月3日の中日戦で史上5人目(当時)の1000試合連続試合出場を達成。5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。

9月には月間MVPを受賞した。また、初めて首位打者のタイトルを獲得した。シーズン中には1試合3本塁打を記録したほか、5月23日のヤクルト戦(東京ドーム)では、単打が出ればサイクルヒット達成という状況の8回第5打席でヒットを打つが、個人記録よりもチームの勝利を選び一塁ベースを蹴って二塁に進んだ。


2002年FA権獲得が目前に迫り、球団からは7年総額56億円という破格の長期大型契約の話が持ちかけられるが、これを断りプロ野球史上最高額(当時)となる年俸6億1,000万円で契約した。7月9日に通算300本塁打を達成。

同時にフリーエージェント権を取得。オールスター前までは打球が上がらず76試合で18本塁打だったが、後半戦は64試合で32本塁打という驚異のペースで打ち続け、自己最多の50本塁打を記録する。(この50本目のホームランは巨人の2002年の最終戦のヤクルト戦・東京ドーム〈後に松井の巨人での最終打席となる〉で記録。

実はこの最終打席は一度キャッチャーへのファールフライを打ったところ捕手の米野智人がこれを落球。それで次の投球を見事本塁打を放ち、最後の最後に50の大台に乗せたたという話があった)この活躍で7、8月と2ヶ月連続で月間MVPを受賞。

また、9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100得点を記録した。三冠王目前だったが、首位打者争いでは福留孝介(中日)にタイトルを譲った。それでも、本塁打、出塁率ではプロ最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得する。

2002年シーズン終了後、FA権を行使し、アメリカ・メジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースと3年2,100万ドルで契約した。

ちなみに松井在籍時の10年間巨人はリーグ優勝4回(内日本一3回)だったが松井が抜けた2003年以降優勝が1度もなく現在2年連続Bクラスという状況である。



[1.3」 ニューヨーク・ヤンキース時代

2003年

2003年、ニューヨーク・ヤンキースに入団。3月31日公式戦開幕試合トロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にレフト前へのタイムリーヒットを放ち、初打席・初安打・初打点を記録。4月8日の本拠地開幕戦ミネソタ・ツインズ戦ではジョー・メイズ投手から第1号満塁本塁打。

4月12日にはメジャー初のサヨナラヒットを放つ。オールスター出場後の後半開幕戦でもサヨナラ本塁打を放った。勝負強いバッティングでヤンキースの新人としては67年ぶりの100打点以上を記録した。


また、7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票で選出され、新人としては歴代19人目のオールスター先発出場を果たした。

日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチローに続く快挙となった。しかし、野茂やイチローに比べて特に際立った成績も残しておらず、また松井が渡米した2003年から何故か日本からの投票数が発表されなくなったこともあってか、選手紹介時に現地アメリカのファンからブーイングを浴びせられ、物を投げられたり、スター選手との交換用に日本から取り寄せた24本のバットを誰とも交換できず全て持ち帰るなどというほろ苦いオールスター戦になった。

この年の松井は新人として初めて、ヤンキースの選手として初めて、また21世紀になって大リーグで初めてシーズン163試合に出場した選手となった。通常は162試合だが、雨天引き分けによる再試合があったため。

地区シリーズではポストシーズン日本人初のホームランで先制点。ワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初ホームランとなるバックスクリーンに飛び込む先制3ランを放った。


2004年
日米通算350本塁打を達成。

2004年8月7日、対トロント・ブルージェイズ戦で2打席連続本塁打を放ち、松井にとっては大リーグ移籍後初の2打席連続本塁打となった。

2004年9月30日、対ミネソタ・ツインズ戦で日本人選手初の3試合連続本塁打を放った。
シーズン優勝を決めた試合で同点本塁打を放ち30本塁打目を記録。

2003年のシーズン終了後、体重を約10kg増やし、最終的にメジャーで自己最高となる31本塁打を記録した。

ポストシーズンでは、アメリカンリーグ優勝決定シリーズでMVP候補になるほど打ちまくるが、投手陣が最後に崩れ3勝4敗で逆転負けを喫した。


2005年

2005年、メジャーでは自己最高となる打率.305、116打点(打率はリーグ7位で打点は8位)を記録。

2005年9月8日、日米通算400本塁打を達成。
シーズンオフにヤンキースと4年5,200万ドルで契約を延長。


2006年

2006年3月に開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)について、松井は日本代表の4番として期待されていたが、「自軍ヤンキースの優勝貢献に専念したい」との理由により結局不参加となる。結果、日本のマスコミやファンなどから多くの批判を浴びる事となった。

公式戦直前の3月にWBC開催という事も有り、その時期に所属選手がケガでもしたらチームに影響が出ると言う事で、主力選手をWBCに出したくないと考えたヤンキースはWBC事務局に不参加要請リストを提出したが、リスト上に松井の名前はなかった。リストに載らなかった選手は出場を希望すれば球団は認めなければいけない規則になっているため、松井も本人が望めば出場することは可能であった。当初はイチローも出場辞退すると互いに約束した為に辞退したと言う話もあったが、それは松井の勘違いであったとの指摘もFLASH (写真週刊誌)誌上でなされている。
WBCについてヤンキース広報の広岡勲氏が、2005年12月10日付のニューヨーク・タイムズ紙で、「秀喜はWBCには出たくない。ただ彼は日本でとても人気のある選手なので、王監督や日本のメディア、さらに(1次リーグをMLBから業務委託されている)読売からプレッシャーをかけられている。もし彼が今“自分はWBCに出場しない”と言えば、裏切り者扱いされるだろう」との松井の複雑な胸中を代弁している。[3]
現地時間2006年5月11日、レッドソックス戦の1回表の守備機会の際、マーク・ロレッタ(現:ヒューストン・アストロズ)の放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際手首を故障、そのまま途中交代。これにより巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。即日の検査の結果、左手首(橈骨)骨折と診断。翌日の早朝にマンハッタンのコロンビア・プレスビタリアン病院で手術が行われ無事に成功した。懸命なリハビリの末に2006年9月12日(現地時間)、怪我から124日ぶりに対タンパベイ・デビルレイズ戦(ヤンキー・スタジアム)に8番・指名打者で先発出場。4打数4安打、1打点の活躍で鮮やかな復活を遂げた。しかし、ヤンキースは2年連続でポストシーズン一回戦で敗退した。


2007年

開幕から4試合目の現地時間2007年4月7日、オリオールズ戦の2回の第1打席目に捕ゴロで1塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に着いていたが、太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのまま松井はベンチ裏に退いた。翌日4月8日のオリオールズ戦は欠場、同日よりDL(故障者リスト)入りとなった。MRI(磁気共鳴画像装置)診断の結果、左太股の軽い肉離れが判明。その後故障は順調に回復、DL入りの期限が切れる4月23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。

2007年5月6日(日本時間7日)、本拠地での対シアトル・マリナーズ戦で日米通算2000本安打を達成した。これに併せ、名球会入りも果たした。



[2] 人物・エピソード

高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンジェルス在住の日本人:加藤氏の自宅に
ホームステイしていた。そこでの交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。
ちなみに松井は加藤氏のことをアメリカのお父さんと呼んでいる。

巨人時代は日本を代表する長距離打者。メジャーリーグ移籍以降は本塁打にはこだわらない姿勢を見せている。
ニックネームは「ゴジラ」。ニューヨーク・ヤンキースの公式サイトにあるファンフォーラムでは「ゴジラ」の他に、
「mats」、または好機に強いことから「Clutchzilla」と呼ばれている。

また、日本のファンからはLOBの多さから、「ろぶ☆すたー」と揶揄されることも。
背番号は「55」。これは巨人時代に年間最多本塁打55本を打った同球団OBであるところの王貞治の記録にあやかって
付けられたもので、ヤンキースでも引き続き55番である。

ちなみに、松井がヤンキースに移籍した後の巨人ではこの番号は空番となっており、現在までのところ在籍選手・新加入の
選手の誰にも付けさせていない。

安定したフィジカルコンディション(きめ細かい体調管理)、監督からの信頼、強い精神力が求められる連続試合出場は、
2006年の故障で記録が途切れるまで、日本で1,250試合、大リーグで518試合、日米通算1,768試合(ただし日米通算は日本の
プロ野球、アメリカのメジャーリーグ、どちらの公式的な記録にもならず、実力を計る上での参考記録にとどまるのみである)
を数える。


元来は父親譲りの熱狂的な阪神ファンで、掛布雅之と真弓明信の大ファンであった(よって、阪神ファンからの印象も
元巨人の選手にも関わらず悪くない)。ドラフト会議で巨人が交渉権を得た時に、周りにいた友人達は松井が阪神ファンと
知っていた事から歓声も拍手も出来ずに静まり返ってしまった。

後に阪神へ移籍した広澤克実が掛布氏の背番号であった31番をつけた時には、「その番号は僕が付けたい番号」と縦じまの31番
に対する憧れをみせていた。また、実家の押し入れには阪神関連の書物やグッズを全て入れガムテープで「封印」された
段ボール箱が人知れず保管されているという噂もある。

高校時代は強豪校であったため傲慢な部員が多い中、本人は謙虚であり大量のサイン色紙を学校で渡されても断ることなく
翌日書いて持ってきたといわれる。本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にも拘らず、練習後にファンにサインを
ねだられても断るような事はしないらしく、その誠実さから小学校の道徳教育の副読本にも取り上げられている
(詳細は後述の項「ヤンキース時代」を参照)。

広岡勲広報やスポーツ紙の記者などマスコミとの関係は非常に親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、
記者たちの質問にも真摯に答える。延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォームのまま
会見を受けることもある。

シーズン終了後に、番記者や通訳らをメンバーに加えて行われる「草野球」(その際、松井は投手を務める)は、
すでに毎年の恒例行事となっている。2005年12月に行われた記者との草野球で、松井は先発投手を務め、
7回1失点10奪三振と好投した。

しかしその際右ひじを痛め、「草野球とはいえ勝つと最高に気分がいいね。でも右ひじが痛い。こりゃWBC辞退だな」
と冗談交じりに発言している。また、記者と食事、キャッチボールを行うことも多く、度々記事になっている。


その人柄ゆえ周囲からの評判はよく、2006年の骨折ではチームメイトだけでなく他チームの選手からもその欠場を惜しむ声が
聞かれた(後述「ヤンキース時代」参照)。

ジャイアンツ時代から有名女優、タレントなどとの密会がすっぱ抜かれることも多く、女性関係の話題には事欠かない。
その一方で、チームでは練習・試合以外での人付き合いが良い方ではなく、ジャイアンツ時代には週刊少年マガジンの
ジャイアンツ特集で当時同僚の元木大介から「彼は試合が終わった後、家でゴジラの着ぐるみでも着ているのかな?」
と言われるほど。

近時は酒井美紀、戸田菜穂らとの交際が話題となった。とくに2005年の戸田との交際報道では父・松井昌雄が結婚の可能性を
示唆するなど真剣な交際が報じられたが、結局翌年破局に終わった。

東京スポーツ(東スポ)の愛読者であることで有名。またアダルトビデオ鑑賞が趣味であることを公言しており、数百本以上
のアダルトビデオをコレクションしているという。東スポお薦めのアダルトビデオ(松井曰く「バイアグラAV」)を
松井に贈呈する様子が東スポの一面を飾ったこともある。

ちなみにお気に入りのAV女優は有賀美穂、浅倉舞。アダルトビデオ好き以外にも下ネタ好きの一面もあり、それらを
度々口にしては、新聞では書けない様な事を言って担当記者を爆笑の渦に巻いている(巨人時代は広報から注意を受けた
こともある)。このような飾らない一面に好感を持つ男性ファンは多い。

巨人時代から花粉症に悩まされており、そのせいか近年キャンプからシーズン開幕直後にかけては調子を崩すことが多い。
書籍「不動心」のタイトルについて松井は、2006年の怪我の療養中に長嶋茂雄氏に会った際、2つあった候補の中から
「不動心」を選んでもらったという。そのときに長嶋氏は特に何も語らず「これ」と一言述べただけで直ぐに決められたという。

松井は松坂大輔との野球に対する姿勢の違いについて、「僕は個人の優劣なんか関係なく、プレイヤーとしてチームに貢献し、
そのチームが勝てばそれでいい」とテレビインタビューで語った。



[2.1] プロ入りまで

第85代・第86代内閣総理大臣・森喜朗は松井の実家の隣の集落出身で、両者とも根上町立浜小学校の卒業生であり、
松井の後援会名誉会長を務めている。

小学生時代にわんぱく相撲大会で優勝。また町の少年柔道教室に在籍しており、子供の頃は野球をやるか柔道をやるか悩んだ
という。しかし、根上中学校に柔道部が無かったため、野球に専念するようになった。

松井が左打者になったのは、あまりにも打ちすぎるので、兄たちにハンデとして左で打つように言われたからという説が
一般的である(他にも当時松井が好きであった掛布雅之の影響で左で打つようになったという話もある)。

根上中学時代は通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130メートルにも達し、
軟球を割ることもしばしばあった。おかげで代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになった。

高校は当初は地元の石川県立小松明峰高等学校に進学し、星稜を倒したいと思っていたが、高校の監督山下智茂からの熱烈な
勧誘や野球部の監督やコーチに薦められて星稜に進学することに決めた。星稜では1年生の時から4番を打っていたが、
5番を打っていたのは3年生の村松有人(現オリックス・バファローズ)だった。

ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため
練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「10年に1人の怪物」と言われていた。

星稜では毎年キャプテンは部員による投票により選んでいたが、山下監督が松井の統率力や影響力を高く評価しており、
特例としてキャプテンに任命したという。

松井の交渉権を引き当てたのは13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄で、「確定」のくじを引いた際、
親指を立て満面の笑顔を見せた。当時の松井は阪神入りを熱望していたが、ドラフト会議直後に長嶋監督から直接電話を受け、
長嶋監督の言葉に感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。

松井のドラフト指名の際、当初巨人フロントは松井ではなく伊藤智仁(三菱自動車京都)を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている。
松井の祖母は「瑠璃教」と呼ばれる新興宗教の初代教祖であり、松井の実家の近くに瑠璃教会がある。父・昌雄氏が現在2代目教祖である。
中学校を卒業し、星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加していた。その際、他校との練習試合で監督より「4番・サード」を告げられ、しかもヒットを放った。



[2.2] 読売ジャイアンツ時代

プロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発し、ファンの度肝を抜く。川上哲治、青田昇等の野球評論家は
「王貞治より上」と絶賛した。

プロ入り初ホームランの球は、高津の内角球だった。ヤクルトの野村克也監督が松井が内角球に強いという話を確かめるために
高津に投げさせたという。

ただし、この試合はヤクルトが勝ち、高津はこの試合でプロ入り初セーブをあげ、(現時点での)史上最多セーブの第一歩を
踏み出した。

高卒ルーキーで二桁本塁打を放ちながら新人王を逃した。これは松井が初めてである。なお、この年の新人王は未規定回数
ながら防御率0.91という驚異的な数字を叩き出した伊藤智仁。

1995年頃、フジテレビ系の子供番組ポンキッキーズの企画で、(室内練習場にて)野球少年と対決した。
結果は、1人目はファーストゴロ、2人目はライトスタンド上段への本塁打だった。

ジャイアンツ時代の契約更新は、毎年12月24日に行った事でクリスマスイブ更新と呼ばれ、球団との交渉時間よりも
インタビューの方が長いほどで、きれいに一発更改。またジャイアンツ時代から天災やテロでの被害者・被害地への義援金を
1度に数千万出資している。ベトナムの孤児として暮らす10人ほどの子供たちに対しても、経済的里親として支援金を送っている。



[2.3] ヤンキース時代

ヤンキースでの背番号55入団時に背番号「55」を、この番号を付ける予定だったベンチコーチドン・ジマーから譲られた。
大リーグでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手歴代1位の記録である。

仲の良いチームメイトはデレク・ジーター。ジョー・トーリ監督には、契約更改時に「世界中の金を集めてでもヤンキースは
松井と契約すべきだ」との賛辞を送られている。

チームメイトからの信頼も厚く、松井が三振に倒れたことにジョニー・デイモンが猛抗議をし、退場を宣告されたことがある。
また、2006年に故障でチームを離脱した際には首脳陣・チームメイトが口を揃えて「彼の代わりは存在しない」
「松井ほどナイスガイはいない」と発言した。

さらにこのときは他のチームの選手からも松井を心配する声が上がった。

復帰後初の試合、(ヤンキー・スタジアム)で送られた観客総立ちのスタンディングオベーションは凄まじく、
多くのファンから広く支持されていることをさらに印象付けた。

2005年度の小学校(2006年度の中学校)の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けたときの対応など、
「誠実さ」が取り上げられた。

2006年の大晦日にオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の演奏による松井応援歌『栄光(ひかり)の道』
(宮川彬良作曲、詩は一般公募による)が初演される。これはOEKの音楽監督・岩城宏之(6月13日死去)の企画によるもので、
岩城は同年5月に松井へエールを送っており、これが岩城が生前に出した最後の手紙だった。

「例え僕がシーズン70本、本塁打を打ってもチームがプレイオフに出れなければ意味はない」
「僕が10打席10三振でもチームが勝てばいい」と話すなど、チームの勝利を最優先する姿勢を明言している。
一方、「来年は(ホームラン)キングあるよ」(04年12月) 「今年はとことんホームランにこだわっていく」
(Sportiva07年4月号)など、求められればホームランを意識した発言もする。


2005年には、「本塁打より、むしろ連続試合出場に僕はこだわっていきたい」と話していたこともある。

2004年12月26日に発生したインドネシア・スマトラ島沖地震の際には、義援金として5,000万円を2007年3月25日に発生した
能登半島地震の際には、1,000万円を寄付した。

2007年5月6日(日本時間7日)に日米通算2,000本安打を達成した際、当初は外野手のエラーと記録されたが、
後にツーベースに訂正された(あまり触れられていないが、その直後この判定に両チーム乱闘が起こっていた)。
試合後のインタビューにて、記念のボールについて問われると「エラーだと思ったから、どっかにいっちゃった」と発言し、
周囲を笑わせた(実は「ひょっとして」と考えた球団トレーナーが保管しており、試合後に本人に渡されていた)。

尚、日米通算2,000本安打はイチローに次いで2人目。



[2.4] 個人よりもチーム

松井は常に自分の成績よりもチームの成績にこだわっている。ヤンキース1年目のキャンプ中に監督のトーリが
「エンドランのサインを出してもいいか?」と訊ねたところ、松井は「何でもします」と答えた。このやり取り以降、
トーリはこの姿勢を高く評価しており、松井に絶大な信頼を置いている。

また日本では50本を記録するほどのホームラン打者だったがメジャー移籍以降、ホームランが少ないことに対しても
トーリは「チームのためにヒット量産に移行した」と発言している。



[3] タイトル・表彰・記録

[日本プロ野球]

MVP 3回(1996年、2000年、2002年)
首位打者 1回(2001年)
本塁打王 3回(1998年、2000年、2002年)
打点王 3回(1998年、2000年、2002年)
最高出塁率 3回(1998年、2000年、2002年)
ベストナイン 8回(1995年〜2002年)
ゴールデングラブ賞 3回(2000年〜2002年)
月間MVP 7回(1994年4月、1996年7月・8月、1998年5月、2001年9月、2002年7月・8月)
日本シリーズMVP 1回(2000年)
正力松太郎賞 1回(2000年)
7年連続シーズン30本塁打以上(1996年〜2002年) ※歴代4位タイ。
5年連続シーズン100得点以上(1998年〜2002年) ※日本記録。
5試合連続本塁打(1999年6月5日〜6月10日) ※日本記録は王貞治、ランディ・バースの7試合。
シーズン65試合連続出塁(2001年5月5日〜8月3日) ※セ・リーグ記録。
日本通算長打率.582(1993年〜2002年) ※歴代2位。
日本通算1250試合連続出場(1993年8月22日〜2002年10月11日) ※日本では衣笠祥雄の2215試合連続出場に次いで、歴代2位。
オールスター出場 9回(1994年〜2002年)
オールスターMVP 3回(1995年第2戦、1998年第2戦、1999年第1戦)


[メジャーリーグ]

週間MVP 3回(2003年6月、2004年5月、2005年6月)
月間新人MVP 1回(2003年6月)
オールスター出場 2回(2003年、2004年)


[日米通算記録]

日米通算1768試合連続出場(1993年8月22日〜2006年5月11日)
日米通算2000本安打達成(2007年5月6日、日本時間7日)


[4.] 年度別打撃成績

年度 チーム 試合 打数 得点 安打 二塁
打 三塁
打 本塁
打 打点 四球 死球 三振 盗塁 打率 出塁
率 長打
率 年俸
1993年 YG 57 184 27 41 9 0 11 27 17 2 50 1 .223 .296 .451 720
1994年 YG 130 503 70 148 23 4 20 66 57 4 101 6 .294 .367 .475 2,100
1995年 YG 131 501 76 142 31 1 22 80 62 2 93 9 .283 .362 .481 6,200
1996年 YG 130 487 97 153 34 1 38 99 71 4 98 7 .314 .400 .622 8,000
1997年 YG 135 484 93 144 18 0 37 103 100 6 84 9 .298 .419 .564 16,000
1998年 YG 135 487 103 142 24 3 34 100 104 8 101 3 .292 .421 .562 22,000
1999年 YG 135 471 100 143 24 2 42 95 93 2 99 0 .304 .416 .631 28,000
2000年 YG 135 474 116 150 32 1 42 108 106 2 108 5 .316 .438 .654 35,000
2001年 YG 140 481 107 160 23 3 36 104 120 3 96 3 .333 .463 .617 50,000
2002年 YG 140 500 112 167 27 1 50 107 114 6 104 3 .334 .461 .692 61,000
NPB通算 10年 1,268 4,572 901 1,390 245 16 332 889 844 39 934 46 .304 .413 .582 239,020
2003年 NYY 163 623 82 179 42 1 16 106 63 3 86 2 .287 .353 .435 $600(72,000)
2004年 NYY 162 584 109 174 34 2 31 108 88 3 103 3 .298 .390 .522 $700(84,000)
2005年 NYY 162 629 108 192 45 3 23 116 63 3 78 2 .305 .367 .496 $800(96,000)
2006年 NYY 51 172 32 52 9 0 8 29 27 0 23 1 .302 .393 .494 $1,300(156,000)
MLB通算 4年 538 2,008 331 597 130 6 78 359 241 9 290 8 .297 .372 .485 $3,400(408,000)
日米通算 14年 1,806 6,580 1,232 1,987 375 22 410 1,248 1,085 48 1,224 54 .302 .401 .553 647,020

1$=120円で換算。金額は万単位。



[5] コマーシャル出演

ミズノ
キッコーマン
オロナミンCロイヤルポリス
ミサワホーム - 兄・利喜氏がミサワに勤務していることから出演。
明治安田生命
エアーサロンパスEX
NTTDoCoMo北陸
コマツ - 地元の石川県発祥及び父・昌雄氏が以前勤めていたという縁からCMキャラクターに。ヤンキースタジアムで放ったメジャー第1号ホームランがコマツの看板近くに球が飛んだため、広告効果が倍増した。
カゴメ
東芝
日本航空 - 一時期、国内線機材のボーイング747-400とエアバスA300にスペシャルマーキング「松井ジェット」として写真が使われた。
ほか


[6] 映画

『ゴジラ×メカゴジラ』(2002年) - 本人役で出演。
俺はジャイアン チナタア



[7] ラジオ

松井秀喜 ワールドチャンピオンへの道


[8] 書籍など

[8.1] 本人の著作

『不動心』新潮新書、2007年2月(売り上げは30万部を超えている)


[8.2] 関連書籍など

The Hideki Matsui Story―Reaching for Your Dream 松井秀喜バイオグラフィ』(2006年6月刊)
ヒデキマツイ(2005年12月21日刊)
松井秀喜―日本を飛び出しメジャー・リーグで大活躍する野球選手(2005年7月刊)
松井秀喜メジャー物語―ゴジラ・松井は世界の頂点を目指す!(2005年4月刊)
松井秀喜 大リーグの真実(2005年4月刊)
松井秀喜―メジャーにかがやく55番(2004年4月刊)
ライジング・サンズ 2(DVD、2003年12月17日)
心が変われば 山下智茂・松井秀喜を創った男(2003年9月30日刊)
松井秀喜 完全版 ~夢と感動をありがとう(DVD、2002年12月11日)
GLORIOUS 松井秀喜~10years of homerun memories~(CD、2002年12月4日)
松井秀喜2000 ~最強の4番打者~(VHS、2000年11月5日)
ホームラン神話(VHS、1996年11月21日)
翔け世界の頂点へ〜松井秀喜応援歌〜(父2)(CD、2006年9月27日)
など他多数



[9] 関連項目

石川県出身の有名人一覧
読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
読売ジャイアンツの選手一覧
星稜高等学校
山下智茂
長嶋茂雄
王貞治
遠山奬志
ジョー・トーリ
布袋寅泰(打席に立つときのテーマ曲)
マツイ日記は知っている!
ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん
AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜
焼肉記者
メジャーリーグベースボール 2K7


[10] 関連エピソード

中央競馬に「ヨバンマツイ」なる競走馬が居る。同馬は2004年に美浦トレーニングセンター・阿部新生調教師の厩舎から
デビューしたが2006年8月6日のレース(新潟競馬場)まで9戦未勝利だったが、10月1日に中京競馬場で行われたレースで
初勝利を挙げた。しかもこの時の馬番は4番だった。

インターネット上には、松井を表す顔文字として「にしこり」がある。「に」が顔の輪郭と右目・右頬、「し」は鼻、
「こ」は左目と左頬、「り」は左耳を表す。松井本人もこの顔文字を見て「面白い」と発言した[2]。もとは「にっこり」
だったが、改良されて「にしこり」になったとされている。


[11] 脚注

^ http://www.tokyo-sports.co.jp/1men/mastui/av.htm
^ 松井の見る夢…目標ないが少しでもいいプレーヤーに


[12] 外部リンク

松井秀喜オフィシャルホームページ(期間限定特設サイト)
松井秀喜・ベースボールミュージアム - 石川県にある松井秀喜の資料館。
松井秀喜のホームランカード - 日本テレビ。巨人入団の1993年からホームランを打つたびに希望者(現在は会員制)に実費プレゼント。
ニューヨーク・ヤンキース - 2007[表示]
2 デレク・ジーター | 11 ダグ・ミントケイビッチ | 13 アレックス・ロドリゲス | 14 マット・デソルボ | 18 ジョニー・デイモン | 19 ケビン・トンプソン | 20 ホルヘ・ポサダ | 22 ロジャー・クレメンス | 24 ロビンソン・カノ | 25 ジェイソン・ジアンビ | 26 ウィル・ニエベス | 27 ダレル・ラスナー | 28 メルキー・カブレラ | 31 ジョシュ・フェルプス | 33 ブライアン・ブルニー | 34 ショーン・ヘン | 35 マイク・ムッシーナ | 36 マイク・マイヤーズ | 40 王建民 | 41 ミゲール・カイロ | 42 マリアノ・リベラ | 43 スコット・プロクター | 45 カール・パバーノ | 46 アンディ・ペティット | 48 カイル・ファーンズワース | 52 ルイス・ビスカイーノ | 53 ボビー・アブレイユ | 55 松井秀喜 | 58 ジェフ・カーステンズ | 65 フィリップ・ヒューズ

6 監督 ジョー・トーリ | 23 ベンチ・コーチ ドン・マッティングリー | 一塁コーチ トニー・ペーニャ | 三塁コーチ ラリー・ボーワ | 打撃コーチ ケビン・ロング | 49 投手コーチ ロン・ギドリー | ブルペン・コーチ ジョー・ケリガン

読売ジャイアンツ
1992年ドラフト指名選手
1位:松井秀喜 / 2位:門奈哲寛 / 3位:西山一宇 / 4位:木村竜治 / 5位:村田善則
先代:
広沢克実 読売ジャイアンツ4番打者
第62代 次代:
シェーン・マック


カテゴリ: 日本の野球選手 | 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 | ニューヨーク・ヤンキースの選手 | 名球会 | 1974年生 | 石川県出身のスポーツ選手

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岡島 32番目の男としてオールスター出場へ

ボストン・レッドソックスの岡島が、MLBのオールスターに出場決定だってさ!!



今年は、何かと、松坂に話題をさらわれたけど、すんごい活躍ぶりだったもんね。。

でも、岡島秀樹、巨人時代は、何だか、ノーコンちゅうか、今一使えない、抑え・・

ちゅう印象だったけど、場所が変わって、水が合うと、人間こうもかわるもんなんですな〜〜〜


▽記事全文▽

岡島 32番目の男としてオールスター出場へ

【7月6日 AFP】MLB、ボストン・レッドソックス(Boston Red Sox)の岡島秀樹(Hideki Okajima)とサンディエゴ・パドレス(San Diego Padres)のクリス・ヤング(Chris Young)が、第78回オールスターゲーム(78th All-Star game)に出場する両リーグの32番目の選手としてファンによるインターネット投票で選出された。

 7月10日にジャイアンツの本拠地であるAT&Tパーク(AT&T Park)開催されるオールスターゲームは、両選手にとって夢の初舞台となる。

 440万票を集めてアメリカンリーグのトップとなった岡島は、レッドソックスのセットアッパーとして今シーズン38試合に登板し2勝0敗4セーブ、防御率0.88(7月5日現在)を記録。

 一方、450万票を集めてナショナルリーグのトップとなったヤングは、17度の先発登板で8勝3敗、防御率2.00の成績を残している。

(c)AFP
アメリカンリーグ月間最優秀新人賞を獲得し、ファンからの歓声に応える岡島(2007年5月29日撮影)。(c)AFP/Getty Images Elsa

ロッキーズ ヤンキースを降し3連勝

コロラド・ロッキーズとは



コロラド・ロッキーズColorado Rockies)はアメリカメジャーリーグ、ナショナルリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はコロラド州デンバー市。チーム名はロッキー山脈から。

1991年に発足、1993年から参加で、メジャーリーグのチームの中では新しいため地区優勝もなく、ワイルドカードを1度獲得しただけである。 選手の総年俸は$4,400万でナショナル・リーグ西地区では最低(2006年シーズン開始時)。

プロスポーツチームとしてはかなり異色の存在で、チームとしてキリスト教信仰を重視しており、ロッカールームやトレーニングルームからは俗世的な雑誌は排され、スポーツ雑誌等の他に聖書が置かれている。壁には聖書からの引用文などが掲げられ、日曜日にはチームで礼拝も行われる(任意参加)[1]。




発足: 1991年
ホーム球場: クアーズ・フィールド (Coors Field)
ユニフォームカラー: 黒、銀、紫、白
ロゴデザイン: ロッキー山脈と野球ボール
ワールドシリーズ優勝: 0回
ナショナルリーグ優勝: 0回
ナショナルリーグ西地区優勝: 0回
ナショナルリーグ・ワイルドカード獲得: 1回、1995年
目次 [非表示]
1 主な選手
1.1 殿堂入り選手
1.2 現役選手
1.3 永久欠番
2 チーム記録
2.1 通算記録
2.2 シーズン記録
3 傘下マイナーチーム
4 外部リンク



[1] 主な選手

[2] 殿堂入り選手
なし


[3] 現役選手
ジェレミー・アフェルト(Jeremy Affeldt)
デニー・ボーティスタ(Denny Bautista)
タイラー・バックホルツ(Taylor Buchholz)
ダレン・クラーク(Darren Clarke)
アーロン・クック(Aaron Cook)
マニー・コーパス(Manny Corpas)
ジョシュ・フォッグ(Josh Fogg)
ジェフ・フランシス(Jeff Francis)
ブライアン・フエンテス(Brian Fuentes)
ラトロイ・ホーキンズ(LaTroy Hawkins)
ジェイソン・ハーシュ(Jason Hirsh)
ウバルド・ヒメネス(Ubaldo Jimenez)
ブライアン・ローレンス(Brian Lawrence)
ロドリゴ・ロペス(Rodrigo Lopez)
トム・マーティン(Tom Martin)
ホワン・モリーヨ(Juan Morillo)
ラモン・ラミレス(Ramon Ramirez)
ライアン・スパイアー(Ryan Speier)
アルビン・コリナ(Alvin Colina)
クリス・イアネッタ(Chris Iannetta)
ハビー・ロペス(Javy Lopez)
ヨービット・トレアルバ(Yorvit Torrealba)
ギャレット・アトキンス(Garrett Atkins)
クリント・バーミス(Clint Barmes)
ジェイミー・キャロル(Jamey Carroll)
トッド・ヘルトン(Todd Helton)
ジョナサン・ヘレーラ(Jonathan Herrera)
松井稼頭央(Kazuo Matsui)
ジェイソン・ニックス(Jayson Nix)
オマー・クインタニーヤ(Omar Quintanilla)
トロイ・トゥロウィツキー(Troy Tulowitzki)
ジェフ・ベイカー(Jeff Baker)
アレクシス・ゴメス(Alexis Gomez)
ブラッド・ホープ(Brad Hawpe)
マット・ホリデー(Matt Holliday)
ジェフ・サラザー(Jeff Salazar)
ライアン・スピルボーズ(Ryan Spilborghs)
コーリー・サリバン(Cory Sullivan)
ウィリー・タベラス(Willy Taveras)

[4] 永久欠番
42 ジャッキー・ロビンソン (Jackie Robinson)

[5] チーム記録

[5.1] 通算記録
打率: .333、トッド・ヘルトン (Todd Helton)
本塁打: 286、トッド・ヘルトン (Todd Helton)
打点: 996、トッド・ヘルトン (Todd Helton)
盗塁: 180、エリック・ヤング (Eric Young)
勝利: 53、ペドロ・アスタシオ (Pedro Astacio)
奪三振: 749、ペドロ・アスタシオ (Pedro Astacio)
防御率: 4.65、アルマンド・レイノソ (Armando Reynoso)
セーブ: 102、ホセ・ヒメネス (José Jiménez)

[5.2] シーズン記録
打率: .379 (1999年)、ラリー・ウォーカー (Larry Walker)
本塁打: 49 (2001年)、トッド・ヘルトン (Todd Helton)
打点: 150 (1996年)、アンドレス・ガララーガ (Andrés Galarraga)
盗塁: 53 (1996年)、エリック・ヤング (Eric Young)
勝利: 19 (1999年)、ペドロ・アスタシオ (Pedro Astacio)
奪三振: 210 (1999年)、ペドロ・アスタシオ (Pedro Astacio)
防御率: 3.78(2006年)、ジェイソン・ジェニングス (Jason Jennings )
セーブ: 41 (2002年)、ホセ・ヒメネス (José Jiménez)

[6] 傘下マイナーチーム
AAA

コロラドスプリングス・スカイソックス (Colorado Springs Sky Sox、パシフィック・コーストリーグ所属)
AA

タルサ・ドリラーズ (Tulsa Drillers)
A

モデスト (Modesto)
アッシュヴィル・ツーリスツ (Asheville Tourists)
トリシティ・ダストデビルズ (Tri-City Dust Devils)
ルーキーリーグ

キャスパー・ロッキーズ (Casper Rockies)

[7] 外部リンク
コロラド・ロッキーズ公式サイト


メジャーリーグベースボール(Major League Baseball)
アメリカンリーグ(American League) ナショナルリーグ(National League)
ボルチモア・オリオールズ | ボストン・レッドソックス |ニューヨーク・ヤンキース | タンパベイ・デビルレイズ | トロント・ブルージェイズ アトランタ・ブレーブス | フロリダ・マーリンズ | ニューヨーク・メッツ | フィラデルフィア・フィリーズ | ワシントン・ナショナルズ
シカゴ・ホワイトソックス | クリーブランド・インディアンス | デトロイト・タイガース | カンザスシティ・ロイヤルズ | ミネソタ・ツインズ シカゴ・カブス | シンシナティ・レッズ | ヒューストン・アストロズ | ミルウォーキー・ブルワーズ | ピッツバーグ・パイレーツ | セントルイス・カージナルス
ロサンゼルス・エンゼルス | オークランド・アスレチックス | シアトル・マリナーズ | テキサス・レンジャーズ アリゾナ・ダイヤモンドバックス | コロラド・ロッキーズ | ロサンゼルス・ドジャース | サンディエゴ・パドレス | サンフランシスコ・ジャイアンツ
ワールドシリーズ | オールスターゲーム | メジャーリーグ選手会 | マイナーリーグ | メジャーリーガー一覧


カテゴリ: 野球に関するスタブ | コロラド・ロッキーズ | MLBのチーム


(ロッキーズ から転送)
この項目「コロラド・ロッキーズ」は、野球に関する書きかけの項目です。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

<07MLB>招待選手からメジャー昇格を目指す桑田 - 米国

頑張れ桑田メジャーで投げられるその日まで!




桑田真澄って、野球選手は、本当に野球が好きで好きでたまらないんじゃのう。。

普通、あのお年で、何をわざわざ苦労しに、家族とも離れ離れになって、自炊の自腹の、マイナー生活せにゃならんねん・・・

ちゅうのが、普通の人やな。。

◆TVでやっとたが、もっともっと若い、松坂や、松井秀なんかが、破格の扱いを受けて(まあ、それだけの逸材だからやけど)いるのに、全く意に介すところもなさげに

怪我をしようが、どうだろうが「メジャーのマウンドで一度は投げてみたい」という夢を追って、野球を楽しみながらやっちょる姿は、なにか巨人の時代より好感がもてるのう!!

○頑張れ、桑田真澄!!
メジャーで投げられるまで!!

応援しとりまっせ!!



▽今日の豆知識▽

桑田 真澄とは

桑田真澄(2007年)桑田 真澄(くわた ますみ、男性、1968年4月1日 - )は、大阪府八尾市生まれのプロ野球選手(現役期間1986年 - )。

ピッツバーグ・パイレーツのマイナー所属の投手。右投右打。背番号は52。身長: 174cm、体重:80kg。

投手としては恵まれない体格ながら、理想的な投球フォームと、野球に取り組む真摯な態度によって、彼を模範とするプロスポーツ選手も多い。

高校球児の憧れの存在で、新人選手の目標とする選手に多くあげられる。現在ボーイズリーグの麻生ジャイアンツの会長も務めている。

目 次

1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 プロ入り後
1.3 大リーグ移籍
2 略歴
3 年度別成績(2006年まで)
4 獲得タイトル・記録
5 エピソード
5.1 手術にまつわるエピソード
5.2 打撃にまつわるエピソード
5.3 KKコンビ
6 CM出演
7 関連項目
8 外部リンク



・経歴

 高校時代から清原和博ともにクリーンナップを打ち、プロに入ってからも打撃には定評がある。

打者として本塁打7本を記録しており、現役の投手では中日ドラゴンズの川上憲伸と並んで1位である(史上1位は金田正一の36本、ただし投手として出場した時のみ)。その為色々なエピソードが生まれている。

 守備のうまさにも定評があり、幾度となくゴールデングラブ賞を獲得している。その守備はバントの名手川相昌弘をもってして「バントが一番決めにくい投手」と言わしめた。


・プロ入り前

 PL学園高校出身。高校野球で活躍し、同期の清原和博とともに「KKコンビ」と呼ばれる。

高校野球激戦区の大阪府から甲子園に出場可能な5回(1年生時の春の甲子園は入学前なので5回となる)全てで出場。そのうち4度決勝に進出し優勝2回(1年夏と3年夏)。1983年、1年生で背番号「11」ながら夏の甲子園に同校の事実上のエースとして出場。

水野雄仁を擁して3大会連続甲子園優勝を目指した「やまびこ打線」の池田高校(徳島)を準決勝で7対0と破り、決勝では横浜商業を3対0と下して優勝を飾り、学制改革以降最年少優勝投手の記録を立てた。

1984年の2年生での春夏の甲子園はいずれも接戦で敗れ準優勝。1985年、3年生のときは春はベスト4、夏は決勝戦で宇部商を下し優勝。甲子園での通算勝利数は歴代2位で学制改革以後は1位。

打者としての才能にも優れ、甲子園通算本塁打数も清原和博に次ぐ歴代2位(6本)である。高校通算25本塁打。5回の大会のなかで桑田・清原のいたPL学園を完璧に抑えたのは、高校3年春の甲子園準決勝で対戦した渡辺智男(後に西武ライオンズ→福岡ダイエーホークス)のいる伊野商業だけだった。

1985年のドラフト1位で巨人に入団。このとき、桑田は早稲田大学進学を希望し他球団が指名を敬遠していたことから、巨人との密約が囁かれる。


・プロ入り後
 1986年5月25日の中日ドラゴンズ戦でプロ初先発。同年6月5日の阪神タイガース戦で初勝利を初完投で飾る。2年目の1987年に15勝6敗の成績を挙げ、2.17で最優秀防御率のタイトルに輝き、先発投手を賞する沢村賞に選ばれた。

藤田元司独特の先発理論から斎藤雅樹、槙原寛己と共に3人の先発の軸として使われ「三本柱」と称された。この年より1992年まで6年連続2桁勝利。このころは最も輝かしい黄金時代だったと言える。高卒の選手がこれほどの活躍をしたのは、近年では松坂大輔など数人しかいない。

1990年には登板日漏洩疑惑が持ち上がった。この疑惑は事実ではなく、制裁はなかった。しかし疑惑の調査において桑田は金銭と高級腕時計の受領があったことを球団に虚偽報告し、後に虚偽報告をしたことを申し出た。

これがプロ野球選手の統一契約書第17条(模範行為)(外部リンク)に違反するとして、球団から謹慎1ヶ月と罰金1000万円の処分を受けた。1994年には、10.8決戦(プロ野球史上初めて同率で並んだチームでの最終戦直接対決で優勝を決めることになった試合)で、7回からリリーフ登板。3回を無失点に抑えて胴上げ投手となる。

1995年6月、対阪神タイガース戦において、湯舟敏郎選手の放った三塁線沿いの小フライ捕球の際に、右肘側副靱帯断裂の重傷を負った。手術のため渡米。1995年残りシーズンと1996年を棒に振り、1997年にカムバックした。

カムバック時のマウンドに跪き、プレートに右肘をつけたシーンは有名で、この後復帰した投手やシーズン初登板の投手が同じ姿勢を取る姿が見られる。

復帰した同年は10勝、翌1998年には最多勝争いに加わる16勝を挙げたが、手術前のようなボールのキレは見られず、以後投手としての新たなスタイルを模索して精彩を欠く。この間、先発、中継ぎ、抑え、敗戦処理とジャイアンツでの起用方法も迷走を続けた。

2001年オフ、ともに巨人の一時代を築いた斎藤、槙原、村田真一が引退。自身も引退を決意する。しかし、長嶋茂雄に代わって巨人監督に就任した原辰徳から「来年も一緒にやろう」と声を掛けられ、現役を続行。

すると2002年、古武術を応用した独自の投球観を実践し復活。4年ぶりの二桁勝利(12勝6敗)、15年ぶりの最優秀防御率(2.22)のタイトル獲得でチーム日本一に貢献した。15年の期間を経ての主要同一タイトル獲得はプロ野球歴代1位の最長記録。

特に同年4月19日の阪神タイガース戦(甲子園球場)で井川慶と演じた投手戦は、名勝負の一つと言えるだろう。試合は0-0のまま延長戦に入り、巨人が福井敬治のソロホームランで勝利した。

しかし、2003年以降は再び精彩を欠くようになり、2005年は登板がなかった1996年を除いて初めてシーズン0勝に終わってしまう。このためシーズン中盤頃から引退が囁かれるようになったが、正念場の試合では先発として最低限の仕事を果たしたこと、若手の手本足りえる存在であることなどが考慮され2006年も現役続行が決まった。

2006年9月23日、球団のホームページにある自身のページで今シーズンで退団を示唆する内容の執筆をした。現役を引退するのか、他球団で現役を続行するのか、今後の動向が注目されていたが、11月2日、2007年シーズンよりアメリカ大リーグに挑戦することを表明した。

巨人のユニフォームでの最後の日となったのが11月23日、東京ドームで行われた「ジャイアンツ・ファンフェスタ2006」、イベントの最後に「18番 桑田真澄の野球は、心の野球です。今はただ感謝の気持しかありません。(略)…さようなら、そして21年間本当にありがとうございました」と挨拶し、21年間在籍した巨人に別れを告げた。


・大リーグ移籍

この節には、現在進行中のことを扱っている文章が含まれています。

2006年12月20日、ピッツバーグ・パイレーツは桑田とマイナー契約を結ぶことで合意すると発表した。日本人でパイレーツと契約は、マイナーを含め桑田が第1号になった。[1]

2007年の春季キャンプでは招待選手として参加し、開幕メジャー入りを目指していたが、右足首の故障により開幕メジャー入りはなくなった。桑田は時期にはこだわっていないと話している。

なおパ軍は桑田を解雇せず、3Aインディアナポリス・インディアンズ所属のマイナー選手のまま3Aの故障者リストに入る方針。本人しだいで十分メジャー昇格もありうるという。


・略歴

身長・体重:174cm 80kg
投打:右投右打
出身地:大阪府八尾市
血液型:AB型
球歴・入団経緯:PL学園高 - 巨人(1986年 - 2006年) - パイレーツ(2007年 - ) 
FA取得・行使:1997年(1回目・行使残留)、2002年(2回目・行使残留(取得は2000年))
プロ入り年度・ドラフト順位:1985年(1位)
英語表記:KUWATA
推定年俸:約5750万円(メジャー昇格の場合)/600万円(マイナー残留の場合)
守備位置:投手

年度別成績(2006年まで)
年度 所属 試合数 勝数 敗数 セーブ 先発 奪三振 防御率 失点 自責点 勝率 投球回数
1986年 巨人 15 2 1 0 12 57 5.14 36 35 .667 61(1/3)
1987年 28 15 6 0 27 151 2.17 59 50 .714 207(2/3)
1988年 27 10 11 0 27 139 3.40 80 75 .476 198(1/3)
1989年 30 17 9 0 30 155 2.60 77 72 .654 249
1990年 23 14 7 0 22 115 2.51 58 52 .667 186(1/3)
1991年 28 16 8 1 27 175 3.16 89 80 .667 227(2/3)
1992年 29 10 14 0 29 152 4.41 112 103 .417 210(1/3)
1993年 26 8 15 0 26 158 3.99 85 79 .348 178
1994年 28 14 11 1 27 185 2.52 65 58 .560 207(1/3)
1995年 9 3 3 0 9 61 2.48 22 18 .500 65(1/3)
1996年 怪我のため登板なし
1997年 26 10 7 0 26 104 3.77 68 59 .588 141
1998年 27 16 5 0 20 116 4.08 88 82 .762 181
1999年 32 8 9 5 20 100 4.07 69 64 .471 141(2/3)
2000年 30 5 8 5 10 49 4.50 43 43 .385 86
2001年 16 4 5 2 8 31 4.83 29 27 .444 50(1/3)
2002年 23 12 6 0 20 108 2.22 51 39 .667 158(1/3)
2003年 14 5 3 0 13 46 5.93 48 47 .625 71(1/3)
2004年 16 3 5 0 16 39 6.47 58 57 .375 79(1/3)
2005年 12 0 7 0 12 34 7.25 43 40 .000 49(2/3)
2006年 3 1 1 0 3 5 6.94 11 9 .500 11(2/3)
通算成績(21年) 442 173 141 14 384 1980 3.55 1191 1089 .551 2761(2/3)

2006年まで。
各年度の太字はリーグ最高。

獲得タイトル・記録
最優秀選手:1回
1994年
最優秀バッテリー賞:1回(94年相方は村田真)
沢村賞:1回
1987年
最優秀防御率:2回
1987年、2002年
最多奪三振:1回
1994年
ベストナイン:1回
1987年
ゴールデングラブ賞:8回
1987年、1988年、1991年、1993年、1994年、1997年、1998年、2002年

・エピソード
実弟の桑田泉は兄と同じくPL野球部出身で青学で教員免許取得したが、現在はプロゴルファー。

高校進学後はパーフェクト リバティー教団を信仰するようになり、小遣いの殆どは御布施に回していたという。試合中はユニフォームの下にアミュレットを忍ばせていた。プロ入り後も経典を読むのを日課にしており、入団当初のバッシング時の心の支えにしていたという。

投球前にボールに向かってお祈りをするのは有名であるが、当初はボールに向かって何をぶつぶつ言っているのかと話題になった。

様々なトレーニングを実践することでも知られ、2001年オフには甲野善紀の武術を取り入れた。

趣味はピアノ、ワイン、英会話。英会話は独学で英語が喋れるまでになった。ウォーレン・クロマティやビル・ガリクソンとの友情も有名で、特にガリクソンは息子のミドルネームに“クワタ”の名を付けたほど。余談ではあるが、クロマティは息子にオーの名前を付けている。

自主トレは毎年、彼を慕う後輩らとともにオーストラリアのケアンズで行っている。三澤興一や岡島秀樹など、桑田を慕ってともにトレーニングを行う選手は少なくないが、かつてその中には韓国人投手の趙成Δ盖錣拭

趙も同じく右肘を手術した経験を持ち一時は自暴自棄にもなりかけたが、桑田から「リハビリをすれば必ず良くなるから」と促されトレーニングを続けた。残念ながら巨人ではその後僅か2勝しか出来ずに一度は引退したが、2005年シーズン中に韓国で現役復帰。「桑田さんは尊敬できる人」と語っている。

1999年と2000年にはジャイアンツの選手会長を務めた。

人の名前を覚えられない事で知られる長嶋茂雄を語るときに桑田が「くわだ」と呼ばれていたという話がよく持ち出される。

PL野球部の先輩で、大学時代に試合中に不慮の事故で首から下が不随になった清水哲の支援を、清原らとともに現在も続けている。

自身のホームページ「PICHEO DE CORAZON」(ピチェオ・デ・コラソン=スペイン語で心の投手の意)を持っている。HPは、ファンクラブに入会し、会費を支払わないとほとんどのページが見られない。

ノーヒットノーランに抑えられた中日の近藤真一投手から巨人で初ヒットを放ったのは桑田である。しかもレフトスタンドへのホームランだった。

・手術にまつわるエピソード

1995年の右肘手術後、投球練習もままならない桑田はさすがに打ちひしがれた。その時高校時代からの盟友でありライバルである清原和博に「お前が本当に使いモンにならんようになったら、ワシが一番最初にお前にいうたる」と清原らしい激励を受け桑田は涙した。

手術後、ボールが投げられない期間が続いたが「ボールは投げられなくても、下半身は鍛えられる」とジャイアンツ球場の外野をただランニングし続けた。桑田が走り続けた部分は芝が剥げ上がり「桑田ロード」と呼ばれるようになった。


・打撃にまつわるエピソード

2005年終了時の通算安打数は192、うちホームランは7本。通算打率は.217。2002年には代打として起用され、安打を放ったこともある。

かつて好投する桑田の代打に大森剛が告げられたとき、解説をしていた江本孟紀が「桑田に代打を出すなら桑田より打つ打者を…」と言ったこともある(ちなみに大森は慶大からドラフト1位で入団した打者)。

打撃に関しては本人も自信があるのか、シーズン前のインタビューで今年の目標を尋ねられた際に「打率2割5分、本塁打10本」と力強く答え、インタビュアーは冗談とも本気ともとれずに困惑したことがある。

KKコンビ

前述のように高校時代の同級生である清原和博と併せて「KKコンビ」と呼ばれる。同級生の2人の選手が共に20年現役を続けたのは史上初である。

ドラフトでのトラブル以来、仲が悪くなってしまったといわれた清原和博との関係であるが、実際のところプロ入り後もしばしば連絡を取り合っており、険悪な関係ではない。

ただしこの2人、高校時代から仲は悪くなかったがいつも2人でいるほど特別仲がよかった訳でもなかったらしい(高1の夏には甲子園の近くで2人でセミを捕っていたという噂からそれなりに仲は良かったと思われる)。

確かに実際問題、黙々と練習し、大の嫌煙家である桑田と、みんなでワイワイやるのが好きで、ヘビースモーカーである清原が2人で遊びに行くというのは考えにくい。結局のところ、二人とも「あいつより先に辞めたくない」という意思が強く、「良きライバル」と表現するのが無難と言える。

さらに詳しい内容はKKコンビを参照のこと。

CM出演
映画 守護神 (声のみの出演) (2007年?月)

関連項目
王貞治
藤田元司
堀内恒夫
工藤公康
阿部慎之助
松坂大輔
上原浩治
岡島秀樹
江川卓
西本聖
中牧昭二

外部リンク
公式サイト
日本プロ野球選手会/統一契約書様式
読売ジャイアンツ
1985年ドラフト指名選手
1位:桑田真澄 / 2位:広田浩章 / 3位:渡辺政仁 / 4位:本原正治 / 5位:福王昭仁 / 6位:杉浦守

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E7%94%B0%E7%9C%9F%E6%BE%84" より作成
カテゴリ: 半保護 | 節現在進行 | 日本の野球選手 | 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 | 大阪府出身の人物 | 1968年生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松井稼頭央 決勝タイムリーを放つ活躍でチームの勝利に貢献

松井稼頭央 決勝タイムリーを放つ活躍、忘れてたぜ、野球小僧!頑張れ



松井 稼頭央、、西武時代から、サムライ結構ファンだったんで、頑張って欲しいもんじゃ!!

去年から、怪我に泣かされてる感じもあるけど、そこを乗り越えてくのが、真のプロじゃ!!

頑張れ、松井カズ!!


▽今日の豆知識▽

松井稼頭央とは

松井 稼頭央 [[Image:||松井 稼頭央]]


国籍  
出身地 大阪府東大阪市
誕生日 1975年10月23日
身長・体重 178 cm 、
83 kg
守備位置 二塁手
打席・投球 両・右
背番号 7
年俸 1,500,000(2007年)
デビュー年  
経歴  
Template
松井 稼頭央(まつい かずお、本名:松井 和夫 英語表記:Kazuo Matsui、1975年10月23日 - )は、コロラド・ロッキーズ所属のメジャーリーガーで、ポジションは内野手である(主に遊撃手、二塁手)。大阪府東大阪市出身。血液型はO型。右投げ両打ち。代理人はアーン・テレム。背番号は7。

目 次

1 日本プロ野球時代
2 メジャーリーグ時代
3 年度別打撃成績
4 西武時代のタイトル
4.1 記録
4.2 表彰
4.3 国際大会出場歴
5 背番号
6 特筆
7 TVCM等
8 関連項目
9 外部リンク



1.日本プロ野球時代

PL学園から1994年、ドラフト3位で西武ライオンズに入団。高校時代は「桑田2世」とも呼ばれた投手であったが、西武は野手として指名(当時、PL学園の監督であった中村順司は西武首脳陣に対して「松井をブルペンに連れて行かないでください」と嘆願していた。

これは中村が松井の野手としての才能を見抜いていたから、と言われている)。入団当初の背番号は32、1997年から西武黄金期を支えた遊撃手・石毛宏典の背番号を受け継ぎ7に変更し、応援歌では「ミスターレオ」と呼ばれていた。

入団3年目の1996年に一軍レギュラーに定着して全試合出場、リーグ2位の50盗塁を記録するなど華々しい活躍を見せた。翌1997年には初の打率3割、また62盗塁で盗塁王を獲得する活躍でチームのリーグ優勝に大きく貢献。

同年のオールスターゲームではファン投票選出され、古田敦也から奪った衝撃的な4盗塁を評価されMVPを獲得。この年から3年連続でパ・リーグ盗塁王を獲得(1998年には千葉ロッテマリーンズの小坂誠との盗塁王争いに関連して、故意のボーク疑惑が発生した)し、一躍パ・リーグのみならず日本を代表する遊撃手となった。

 高い身体能力を生かした守備力も非常に高く、ゴールデングラブ賞を4度受賞しているが、細かい動作が若干雑な傾向があり失策は多かった。

この欠点は後に移籍したメジャーリーグで露呈することとなる。肩の強さは日本人選手トップレベルで、通常は二塁手が中継に入るライトからの返球を、西武に限っては松井が代わって行っていたこと(これは当時の二塁手でもあった辻発彦の肩の衰えもあった)や、三遊間の深いゴロを一塁にノーステップで送球してアウトにする華やかなプレーなどで象徴されていた。

 1996年から2003年の退団・渡米まで8年間、通算1143試合連続出場。また97年から2003年の退団まで打率3割、170安打以上を7年連続で記録、2001年に通算1000本安打を歴代4位のスピードで達成すれば、2002年には史上8人目、スイッチヒッターとしては史上初の

トリプルスリーを成し遂げ、20世紀センチュリーベストナインにも選出される活躍など、俊足、巧打、長打力、強肩、更には抜群の守備範囲をもつ、いわゆる5ツールプレイヤーとして大いにその名を轟かせた。

 松井は日本でリーグ優勝を4度(1994年、1997年、1998年、2002年)経験しているが、西武はいずれの日本シリーズも敗れており、意外なようだが日本一経験は一度もない。

また、松井のメジャーへの移籍により西武の戦力低下が懸念されたが、実際はなんとか中島裕之が穴埋めを果たし、チームは松井がいた時代には成し遂げられなかった日本一まで達成した。


2.メジャーリーグ時代

 2004年、アメリカメジャーリーグ・ニューヨーク・メッツにFA移籍(背番号は25番)。同じメジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜と区別するため、日本のマスコミでの表記は「松井稼」となっているが、リトル松井と呼ばれることもある。

また米国製のスポーツカードには、Kaz Matsui、又はCazzo Matsuiと表記されるものもある('Kazu'は石井一久のイメージが強い)。

 2004年4月6日(現地時間)の対アトランタ・ブレーブスの開幕戦でこそ、前年度に21勝をあげたラス・オルティス投手から開幕戦・新人・初打席・初球ホームラン(メジャー初)を記録したものの(メッツのアート・ハウ監督(当時)は「おとぎ話のようだ」とコメント)、

その後は高額の年俸を受けながらも多くの怪我と共に打撃・守備ともに日本プロ野球時代からは考えられないくらいの大不振に陥っている。そのため2004年シーズン開幕時のポジションは遊撃手であったが、シーズン途中に松井移籍前まで正遊撃手で二塁にコンバートされていたホゼ・レイエスが本来の位置に戻され、代わりとして二塁手にコンバートされている。

しかし成績の低迷はその後も続き、結局その二塁の座も守りきれず、シーズン終盤は控えに甘んじた。地元紙ニューヨークデイリーニュースでは「メッツの最優先課題はマツイを放出するべき」とほぼ毎日のように叩かれ、ホームスタジアムでは観客から盛大なブーイングを浴びた。

メッツファンで有名な不動産王ドナルド・トランプからは、「メッツの成績を落とした最大の元凶選手」と名指しで批判され、2005年にはその高年俸に釣り合わない成績と、シーズン前の期待の反動からMLB"ワースト"オールスターに、2006年にはFoxにおいて『年俸と成績が釣り合っていない5人』にそれぞれ選出されている。


 しかしながら2005年の開幕戦(対シンシナティ・レッズ)でも初打席でソロホームランを打ち、2年連続開幕戦初打席初本塁打を記録。2006年のメジャー昇格初戦(対サンディエゴ・パドレス)の初打席で日本人初のランニングホームランを打ち、3年連続シーズン初打席初本塁打という記録(メジャー4人目)を達成している。

 結局メッツでは見限られ、2006年6月9日にコロラド・ロッキーズへトレード移籍。移籍先のロッキーズの看板選手、トッド・ヘルトンとは1995年のシーズンオフに開かれたハワイ・ウィンタートレーニングのマウイ・スティングレイズで共にプレーしたチームメート。

会話こそなかったものの、ヘルトンは松井の守備(ピッチングも含める)に強い印象を受けたと語っている。またロッキーズのヘッド・トレーナー、キース・ダガーも同チームには帯同していたため、全くなじみのないチームではない。

 新天地ロッキーズではシーズン終盤から主として二塁手として先発出場。32試合の出場ながら、打率.345、2本塁打、19打点、8盗塁と好調を維持した。FAとなったがチームと単年契約を締結して残留、150万ドル(約1億8000万円)で打席数に応じて最高100万ドル(約1億1800万円)の出来高がつくという(数字は地元紙推定)。


3.年度別打撃成績

年度 チーム 試合数 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 四死球 三振 打率
1994 西武 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000
1995 西武 69 204 25 45 9 1 2 62 15 21 7 26 .221
1996 西武 130 473 51 134 22 5 1 169 29 50 17 93 .283
1997 西武 135 576 91 178 23 13 7 248 63 62 49 89 .309
1998 西武 135 575 92 179 38 5 9 254 58 43 56 89 .311
1999 西武 135 539 87 178 29 4 15 260 67 32 56 75 .330
2000 西武 135 550 99 177 40 11 23 308 90 26 48 60 .322
2001 西武 140 552 94 170 28 2 24 274 76 26 52 83 .308
2002 西武 140 582 119 193 46 6 36 359 87 33 57 112 .332
2003 西武 140 587 101 179 36 4 33 322 84 13 59 124 .305
日本通算 10年 1,159 4,638 759 1,433 271 51 150 2,256 569 306 401 751 .309
2004 NYM 114 460 65 125 32 2 7 182 44 14 42 97 .272
2005 NYM 87 267 31 68 9 4 3 94 24 6 19 43 .255
2006 ☆ 70 243 32 65 12 3 3 92 26 10 16 46 .267
MLB通算 3年 271 970 128 258 53 9 13 368 94 30 77 186 .266
日米通算 13年 1,430 5,608 887 1,691 324 60 163 2,624 663 336 478 937 .302

※太字はリーグ最多
☆ NYM→COL  


4.西武時代のタイトル

・パ・リーグMVP 1回(1998年)
・盗塁王 3回(1997年〜1999年)
・最多安打 2回(1999年、2002年)
・ベストナイン 7回(1997年〜2003年)
・ゴールデングラブ賞 4回(1997年、1998年、2002年、2003年)
・オールスター出場 7回(1997年〜2003年)
・オールスターMVP 2回(1997年第1戦、2001年第1戦)


4.1記録

・トリプルスリー 1回(2002年)
・サイクルヒット 1回(2000年6月7日)
・シーズン初回先頭打者本塁打7本(2002年、2003年 歴代6位タイ)
・シーズンサヨナラ本塁打3本(2002年 リーグタイ記録)
・2試合連続サヨナラ本塁打(2002年5月10日・5月11日 史上7人目)
・日本通算1143試合連続出場(歴代5位)


4.2表彰

・日本シリーズ敢闘賞 1回(1997年)
・月間MVP 4回(1996年9月、1999年9月、2002年6月・9月)

4.3国際大会出場歴

・2004年のアジア予選日本代表

5.背番号
西武ライオンズ在籍時

32(1994年-1996年)
7(1997年-2003年)
ニューヨーク・メッツ在籍時

25(2004年-2006年途中)
コロラド・ロッキーズ在籍時

16(2006年 - )
7(2007年 - )


6.特筆

 松井稼といえばトップバッターというイメージがあるが、実際は出塁率は一度も4割に到達した事が無い(最高でも.389)。

西武時代にはチームの打線の貧弱さから3番を勤める事もあったが、長打率は6割を越した事もあるので、実際は3番の方が松井のタイプでは適正であったのかもしれない。

 登録名の「稼頭央」には、父親の「稼ぎ頭になってほしい」という思いが込められている(「グラウンドの中央に稼ぎ頭がいる」の説も)。しかしアメリカのマスコミからは

「頭の中(中央)はお金を稼ぐことだけなのか?」と指摘された。

 1997年、第3回プロスポーツマンNo.1決定戦の総合No.1。自慢の走力を活かし50mDASH、ショットガンタッチといったスピード系の種目でNo.1を獲得。

特にショットガンタッチでは、当時の世界記録であった12m80cmを成功させ、その後12m90cm、13m00cmも成功させた。ちなみにその大会の総合2位は秋山幸二。

 1998年にも出場。再び50mDASHでNo.1となるが、惜しくも総合3位に終わる。2000年にも出場し、今度はパワー系のTHE GALLON THROWで6m00cmを見事成功させ、この種目のNo.1に輝いた。

 夫人は元タレントの菊池美緒で、2000年1月12日に結婚。(両者のキューピット役は松崎しげる)


7.TVCM等

・大塚製薬 アミノバリュー (共演:仲間由紀恵)
・サントリー デカビタC (共演:深田恭子)
・マスターカード 公式スポークスパーソン
・マスミューチュアル生命 (都営バスのラッピングバスにも登場した)
・文化放送ライオンズナイター (共演:松坂大輔、西武バスのラッピングバスにも登場した)


8.関連項目

大阪府出身の有名人一覧
森祇晶
東尾修
伊原春樹
西口文也
和田一浩
中島裕之
スポーツマンNo.1決定戦


9.外部リンク

KAZUO25.com│松井稼頭央公式サイト

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%A8%BC%E9%A0%AD%E5%A4%AE" より作成

・カテゴリ: 日本の野球選手 | 西武ライオンズ及びその前身球団の選手 | ニューヨーク・メッツの選手 | コロラド・ロッキーズの選手 | 大阪府出身の人物 | 1975年生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

           
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