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  • 2011.05.14 Saturday
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クビカ マシンは大破するも命に別状は無し

クビカ マシンは大破するも命に別状は無し、って、クガマ、よかったね、不幸中の幸いだよ。



でも、これだけ大破して生きているのは、奇跡的だし、ロベルト・クビカ(Robert Kubica)も、よっぽど、運が強いんだろうね。

▽記事全文▽
F1第6戦・カナダGP(Canada Grand Prix 2007)、決勝。8番グリッドからスタートしたBMWザウバー(BMW Sauber)ロベルト・クビカ(Robert Kubica)が、27周目にクラッシュを起こし病院へ搬送される事態となった。

 アクシデントは27周目に起こった。クビカのマシンは時速300キロメートル近いスピードでトヨタ(Toyota)のヤルノ・トゥルーリ(Jarno Trulli)をかわそうとしたところでコントロールを失った。マシンはコースから外れ、コース脇の壁にクラッシュしてマシンは大破し周囲に破片を撒き散らした。反転しながら進んだマシンは反対側のカードレールに衝突し止まり、クビカはメディカルスタッフにより大破したマシンから救出された。

■命に別状は無し

国際自動車連盟(FIA:Federation Internationale de l’Automobile)のスポークスマンは「クビカは脚に怪我を負っているが意識も有り容態は安定している。メディカルセンターから精密検査のためヘリコプターで病院に搬送されることになる」と語り、命に別状は無いことを明らかにし周囲を安堵させた。
【6月11日 AFP】
(c)AFP
クラッシュし大破するクビカのマシン。(c)AFP/Getty Images Paul Gilham


佐藤琢磨 カナダGPで今季2度目の入賞を果たす

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佐藤琢磨、カナダGP、6位入賞おめでとう!!

▼佐藤琢磨とは


佐藤 琢磨の基本情報

F1での経歴
国籍 日本
車番 22
所属チーム スーパーアグリ・ホンダ
年 2002 -
過去の所属チーム ジョーダン・ホンダ
B.A.Rホンダ
優勝回数 0
通算獲得ポイント 44
表彰台(3位以内)回数 1
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
F1デビュー戦 2002年オーストラリアGP
初勝利 −
2007年順位 12位(4ポイント)
(記録は2007年第6戦終了時)

佐藤 琢磨(さとう たくま、1977年1月28日 - ) は、東京都新宿区生まれのF1ドライバー。身長164cm、体重59kg。20歳からレーシングカートを始め、僅か5年でF1のシートを獲得した。「琢磨」「琢磨君」と下の名前で呼ばれる事が多い。また、「たっくん」「琢ちゃん」と呼ぶ者もいる。英語圏では"Taku"。血液型はRH+ A型。

目 次

1 略歴
1.1 デビュー
1.2 全日本F3選手権
1.3 イギリスF3選手権
1.4 F1
1.4.1 ジョーダン・ホンダ
1.4.2 B.A.Rホンダ
1.4.3 スーパーアグリF1
1.4.3.1 2006年
1.4.3.2 2007年
2 家族
3 年譜
4 自転車競技成績
4.1 戦績
4.2 記録
5 自動車レース成績
5.1 F1デビュー以前
5.2 2002年
5.3 2003年
5.4 2004年
5.5 2005年
5.6 2006年
5.7 2007年
6 関連項目
7 外部リンク
8 参考文献



略歴

デビュー
和光学園高等学校卒業後、早稲田大学入学。10歳の時に鈴鹿サーキットで初めてF1を観戦したことからモータースポーツに対して強い憧れを抱きつつも、20歳までは自転車競技に身を投じていた。インターハイ制覇、大学選手権優勝などの記録を残している。サッカー部にも所属していた。

1996年、ホンダと鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを用いたレーシングスクール、鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)を設立したことを知ると、モータースポーツの世界に飛び込むことを決心。早稲田大学を休学してまずはカートを始め、モータースポーツ歴わずか半年で、選抜方法を変えさせてまでして(当初予定に無かった面接試験を行わせた)競争率10倍の難関を突破してSRS-Fへ入学した。SRS-F入学直後からスクール生はもちろんのこと、時には講師陣さえ上回る速さを披露し、1997年首席で卒業。


全日本F3選手権
1998年には名門チームの無限×童夢プロジェクトより全日本F3選手権のデビューを決めたが、F1ドライバーとなるためモータースポーツの本場・ヨーロッパのレースに参戦すべくシーズン半ばに渡英した。


イギリスF3選手権
イギリスでは、F1関係者も注目するイギリスF3で失敗すれば二度と取り返すことができないと考え、まずはF3より格下のジュニア・フォーミュラであるフォーミュラ・ヴォクスホールJr.にダイヤモンド・レーシングより参戦して活躍を示し、その後に満を持してカーリン・モータースポーツより2000年と2001年にイギリスF3選手権にフル参戦。2001年には日本人初のイギリスF3チャンピオンとなり、国際F3レース(マールボロマスターズ、マカオGP)も制して名実共にF3ドライバーとして世界の頂点を極めた。

1998年:フォーミュラ・ヴォクスホールJr.参戦、フォーミュラオペル・ウィンター3位
1999年:イギリスF3ナショナルクラス3勝、マカオ・エリクソンチャレンジ優勝

F1

ジョーダン・ホンダ
2001年10月に、ジョーダンのドライバーとして2002年シーズンのF1に参戦することが決定し、史上7人目の日本人フルタイム参戦F1ドライバーとなった。初めてレーシングカートに乗ってから僅か5年でF1のシートを獲得するのは奇跡に近い快挙であると言われた。しかし、資金不足に悩むジョーダンチームではシーズン中のテストもままならず、加えて不運なクラッシュもあり、ポイント獲得は日本GPの5位入賞で獲得した2点のみに留まった。特に開幕戦、メルボルンで行われたオーストラリアGPでは、フリー走行中のクラッシュに加え、予選中もマシントラブルや天候悪化などに見舞われてまともな走行ができず、当時の予選通過基準であったポールポジションタイムの107%以内のラップタイムを満たせなかったために不名誉な予選落ちを記録している(事実上アタックできなかったのと同じであったため、フリー走行のタイムを基に決勝出場は認められた)。チームメイトの中堅ドライバーであったジャンカルロ・フィジケラにパフォーマンスで劣っていたことも事実であった。

1年目の佐藤のシーズンはけっして順風満帆と呼べるものではなく、経験不足からくるミスのみならず、本人が対処しようがない不運にも多く見舞われている。特にオーストリアGPで当時ザウバーのニック・ハイドフェルドの単独スピンの巻き添えとなって死角の右サイドから激突されたアクシデントは、一歩間違えれば命を落としかねない危険なものであった。レース後のジョーダンの発表によれば、このとき佐藤はヘリコプターで搬送されるまでのわずかの時間脳震盪のために意識を失っていたという。完全に無防備な状態での予想外のもらい事故であり、クラッシュ後に自力でマシンから脱出できない状況に陥っていたため、一時は容態が心配されたが、骨折などの怪我もなく、次のグランプリから無事に戦線に復帰している。その後も次々と初めてのサーキットを転戦しながら経験を積み、地元の日本GPでは走り慣れた鈴鹿サーキットでついに持てる力を発揮、予選7位、決勝5位と好成績を残したが、結局この5位入賞が2002年唯一のポイント獲得であり、シーズン終了後にホンダが翌年のエンジン供給をB.A.Rホンダのみに絞ることを発表したことから、佐藤を起用することにともなうホンダのバックアップが期待できなくなったチームによって放出、わずか1年でレースドライバーからの離脱を余儀なくされた。


B.A.Rホンダ

2004年アメリカGPジョーダンを放出された次の2003年シーズンは、チームの将来性も見越し、翌2004年以降のレギュラー・ドライバー昇格のオプション付でリザーブ兼テスト・ドライバーとしての契約でB.A.Rホンダに移籍した。最終戦日本GPでは、翌年のシートを失うことが確実になっていたレギュラー・ドライバーのジャック・ヴィルヌーヴがモチベーションを失って急遽参戦を取り止めた為、代役として出場。レースでは途中ミハエル・シューマッハと競り合うなど見せ場を作り、6位入賞を果たす。この入賞によって獲得した3ポイントによってチームはコンストラクターズランキングでザウバーを逆転、わずか1戦の参戦ながら大きく貢献することとなったた。

2004年はB.A.Rのレギュラードライバーに昇格。この年のB.A.Rのマシンが速さを見せたこともあり、ヨーロッパGPで日本人初のセッションリーダー(予選1回目)、フロントロー獲得、ラップリーダーを記録、さらにアメリカGPで日本人最高位タイの3位フィニッシュを果たすなど、ある程度の活躍を見せる。しかし年間を通してみれば、チームメイトのジェンソン・バトンと比較してパフォーマンスが優れているとは言い難く、シーズン序盤に佐藤のマシンの方にトラブルが連続するという不運も相まって、バトンの85ポイントに対して自身は34ポイントと、チームメイトに大きく後れを取る結果となった。


2005年カナダGP2005年には、佐藤とB.A.R、アサヒ飲料の共同開発したスポーツドリンク「SUPER H2O」が発売された。また、この年にイギリスからモナコに移住。

このシーズンは前年とは打ってかわって苦難の連続であった。開幕のオーストラリアGPでは最後尾スタートから決勝14位にとどまり、巻き返しを期したマレーシアGPでもウィルス性の発熱により欠場の憂き目にあう。極めつきは4戦目のサンマリノGPで、5位入線でシーズン初ポイントを獲得したはずが、急転直下、マシンの重量不足でレギュレーション違反の裁定を下されて3位に入ったバトンとともにリザルトを取り消された。加えてスペインGP、モナコGPの2レースの出場停止処分を科され、ほとんどまともにレースさえできないままシーズン序盤を消費してしまう。マシンが前年ほどのパフォーマンスを発揮できなかったこともあり、後半になっても調子は戻らず、最終的にドライバーズポイントはハンガリーGPでの8位入賞による1ポイントのみと、デビュー以来最低の成績に沈んだ。この年はレース中のドライビングエラーも目立ち、ベルギーGPでブレーキングミスによりミハエル・シューマッハに衝突、頭を叩かれて叱責されたり、母国日本GPではシケインでの不用意な飛び込みによってヤルノ・トゥルーリをリタイヤに追い込んでもいる。特に日本GPでは決勝結果から除外されただけでなく、トヨタチームから公式リリースの中で非難されるなど、ドライバーとしての資質を疑われる結果を招いた。また直接の被害者となったミハエル・シューマッハやトゥルーリの他にも、かつての同僚であったヴィルヌーヴやルーベンス・バリチェロ、ハイドフェルドなどからも「危険なドライバー」と名指しされ、評価を大きく落とすことになってしまった。

2005年は佐藤はもとよりB.A.Rというチーム全体が混乱したシーズンとも言えたが、サーキット以外の部分でもそれは収まらず、本人もそれに巻き込まれていく形になっていく。チームでは未解決のままであったウィリアムズとの間でのバトンを巡る契約問題が再燃した。一時はウイリアムズチームへの移籍が決定していたと思われていたチームメイトのバトンだったが、9月18日、この年かぎりでBMWとのエンジンサプライ契約が終了するウィリアムズは戦闘力が落ちると判断し、契約解除を切望。B.A.Rとの契約を更新することとなった。もうひとつのシートについては既にフェラーリのバリチェロに決定していたことから、佐藤は2006年シーズンのB.A.Rでのレギュラードライバーの座を失うことになる。チーム(特にホンダ)からはサードドライバーとして留まる契約を提示されるも、あくまでレギュラードライバーに拘るとして拒否、チームを去ることになった。


スーパーアグリF1

2006年

2006年アメリカGPB・A・Rを出たことで去就が注目され、一説には以前に所属していたジョーダンの後継チームであり、トヨタエンジンを搭載するミッドランドF1などへ移籍するのではという憶測も流れたが、2006年シーズンは、元F1ドライバーの鈴木亜久里がオーナーを務め、ホンダがエンジンを提供する新規参戦チームのスーパーアグリF1チームから、ファーストドライバーとして参戦することとなった。

新規参入チームの上、前半戦はホンダエンジンこそ搭載しているものの基本的には4年落ちのアロウズのシャシーを現行レギュレーションに合致するように改良した「SA05」を使用していたために、チームメイトの井出有治とともに最下位を走ることが殆どだった。ニューマシンの「SA06」が登場してからもマシンの熟成が進むまでMF1レーシング(2006年Rd.16 中国GP以降はスパイカーMF1にチーム名称変更)と最下位争いを繰り広げるのが関の山であったが、鈴鹿・日本GPでは、MF1の前でチェッカーを受け、さらに、最終戦ブラジルGPでは、過去最高位の10位という結果を出したと共にチームメイトの山本左近とのダブル完走を果たし、着実にマシン戦闘力を備えてきている事を示した。華々しい活躍はなかったが、2005年に大きく落とした評価をある程度まで戻したシーズンだったといえる。


2007年

2007年マレーシアGP2007年シーズンも同チームからファーストドライバーとしてエントリーし、イギリスF3時代のチームメイトであるアンソニー・デビッドソンとともに新型マシンの「SA07」をドライブする。

完全な新型マシンであるSA07の戦闘力はSA06とは比較にならない程高く、オーストラリアGPではチーム創設後初の予選最終ラウンド進出を果たし、予選10位を記録した。その後のレースでもホンダのワークスチームであるホンダF1チームのマシンと遜色ない成績(時には上位)を収めており、第4戦スペインGPでは、チーム創設後初のポイント(8位・1ポイント)を獲得した。また、この結果は、完全日本製パッケージ(日本のコンストラクターが、日本人ドライバー・日本製エンジン・日本製タイヤ)で記録した、初のチャンピオンシップ・ポイントであった。

2007年開幕時現在、日本人ドライバーの中で最もポイントを獲得したドライバーである(※)。

※2003年にポイント制度が改正されたことを考慮すると事情は違ってくる。2003年以降の制度下であると仮定して成績を見た場合、中嶋悟が52ポイント獲得していたはずであり、佐藤は同様に43ポイントとなる。また逆に、2002年以前の制度と仮定して成績を見ると、中嶋の16ポイントに対し佐藤は20ポイントである。ただし、中嶋の時代に現行システムが採用されていればそれに応じたマシンが作られ、逆の場合でも同様なことが起こる(マシンの製作コンセプトはレギュレーションに依拠するものである)であろうことから、このような仮定もあまり意味がないことに留意する必要がある。


家族
2005年7月31日に自身の公式サイトで、長年にわたって彼を支えてきた「パートナー」である女性(のちに入籍)との間に子供がで生まれる事を報告。その後12月23日に男児が誕生し、父親になった。現在はモナコに在住する。


年譜
1977年1月28日 - 東京都新宿区戸山に生まれる。弁護士の父・和利と舞台女優である母・昭子の長男。
1987年 - 鈴鹿でF1日本GPを観戦し、アイルトン・セナに感激。モータースポーツに憧れを持つ。
1989年4月 - 町田市立町田第二中学校に入学。陸上競技部に所属。
1992年4月 - 和光高等学校に入学。
1992年初春 - 自転車競技を開始。地元のサイクルスポーツ店「たかだフレンド」のクラブに参加する。
1993年8月 - 鈴鹿ロードで自転車レースデビュー。
1994年3月 - 高校に自転車競技部がなかった為、担任を顧問に独力で部を立ち上げる(部員は佐藤本人だけ、後に廃部)。
1994年8月10日 - 第45回インターハイの自転車競技ポイントレースで優勝。
1995年4月 - 早稲田大学人間科学部スポーツ科学科に特別選抜枠で推薦入学。自転車部に所属。
1995年9月 - 全日本大学対抗選手権の自転車競技で2位。
1996年4月 - 早稲田大学人間科学部を休学。
1996年6月 - 第37回全日本学生選手権の自転車競技男子4km速度競走で優勝。
1996年初夏 - アルデックス・ジャパンでレーシング・カートを開始。
1997年 - 鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)に入学。
1997年 - カート地方選手権FA-2関東・西でシリーズ1位、カート地方選手権FA-2関東・東でシリーズ3位。日本カートチャンピオンに。
1997年10月 - 中谷明彦主宰の中谷塾(ドライビング理論アカデミー)を受講、首席卒業。
1997年12月23日 - SRS-Fを首席で卒業。全日本F3選手権参戦のスカラシップを獲得。
1998年3月 - 無限×童夢チームから全日本F3選手権に参戦。
1998年7月 - 早稲田大学人間科学部を退学し渡英。ストラットフォード・アポン・エイヴォンで寄宿生活を始める。
1998年7月 - イギリスのフォーミュラ・ヴォクスホールJr.に参戦。
1998年10月 - イギリスのフォーミュラ・オペル・ウィンターシリーズに参戦。シリーズ3位。
1999年3月 - フォーミュラ・オペル・ユーロカップに参戦。イギリス選手権で2位。
1999年3月 - フォーミュラ・オペル・ユーロシリーズに参戦。シリーズ6位。
1999年3月 - most improved driver of the yearを受賞。
1999年7月 - ダイヤモンド・レーシングからイギリスF3選手権ナショナルクラスに参戦。6戦中3勝を挙げる。
1999年11月20日 - マカオGPエリクソン・フォーミュラ・チャレンジで優勝。
2000年3月 - カーリン・モータースポーツからイギリスF3選手権に参戦。当時日本人最多の4勝、シリーズ3位。
2000年3月 - フランスF3選手権にスポット参戦し、優勝。
2000年12月 - ジョーダン無限ホンダのテストに傘下。F1初ドライブ。
2001年1月 - B.A.Rホンダのテスト・ドライバーに就任。
2001年3月 - 前年に引き続きカーリン・モータースポーツからイギリスF3選手権に参戦。12勝で日本人初のイギリスF3チャンピオンに輝く。
2001年7月 - F3インターナショナル・インビテーション・チャレンジで優勝。
2001年8月 - マールボロマスターズF3で優勝。
2001年10月 - 2002年ジョーダン・ホンダのF1ドライバーに
2001年11月18日 - マカオGP・F3レースで日本人として初の優勝。
2002年3月 - ジョーダン・ホンダからF1世界選手権に参戦。シリーズ15位。
2002年10月13日 - 日本GPにてF1初入賞(5位)。
2003年1月 - 2003年B.A.Rホンダのサード・ドライバーに就任。
2003年10月12日 - ジャック・ヴィルヌーヴのチーム離脱を受け、F1日本GPにスポット参戦し6位入賞。シリーズ18位。
2004年3月 - B.A.RホンダからF1世界選手権にフル参戦。
2004年4月3日 - バーレーンGPで1994年片山右京に並ぶ予選日本人最高位タイ(5位)を記録。
2004年5月8日 - スペインGPで予選日本人最高位を更新(3位)。
2004年5月29日 - ヨーロッパGPで予選日本人最高位を更新(2位)し、日本人初のフロントロー獲得。翌日日本人初のラップリーダーも記録した。
2004年6月20日 - アメリカGPで日本人最高位タイ(3位)。F1の表彰台に上った日本人ドライバーは、1990年日本GPで鈴木亜久里が3位に入って以来、2人目。
2005年7月31日 - 同年12月中旬に第一子誕生の予定を発表(この後、入籍を済ませる)
2005年9月20日 - 2006年のB.A.Rホンダのドライバー体制が、ジェンソン・バトン、ルーベンス・バリチェロの2人となることが正式に決定。これを受けた日本GP前の記者会見で、琢磨はホンダが技術支援して2006年に新規参入するチームからオファーを受けていることが明らかになった。その後そのチームは、鈴木亜久里が代表を務めるスーパーアグリF1であることが判明した。
2006年2月15日 - スーパーアグリF1へ移籍することが発表された。
2007年5月13日 - 第4戦スペインGPでチーム創設後初のポイント(8位・1ポイント)を獲得した。
2007年6月10日 - 第6戦カナダGPで6位入賞を果たし、3ポイントを獲得した。

自転車競技成績

戦績
1994年5月 - 全国高等学校総合体育大会自転車トラック競技第一次大会・第二次大会 ポイントレースで総合優勝
1994年8月 - 第45回全国高等学校対抗自転車競技選手大会(インターハイ) ポイントレースで優勝
1995年9月 - 全日本大学対抗選手権 2位
1995年11月 - 国民体育大会 6位
1996年6月 - 第37回全日本学生選手権 男子4km速度競走 優勝

記録
男子4km速度競争 - 5分2秒30(1995年7月7日・石川県内灘町)
男子1Km速度競争 - 1分9秒298(1995年9月1日・青森県八戸)
男子フライング200m - 11秒442(1996年9月25日・静岡県修善寺)

自動車レース成績

F1デビュー以前
1997年 - カート地方選手権FA-2関東・西 シリーズ1位
1997年 - カート地方選手権FA-2関東・東 シリーズ3位
1998年 - 全日本F3選手権にスポット参戦 (チーム:童夢) (マシン:ダラーラF398無限)
Rd.1 鈴鹿 19位 /予選6位
Rd.2 筑波 欠場 /予選15位
1998年 - フォーミュラ・ヴォクスホールJr.(イギリス)
1998年 - フォーミュラ・オペル・ウィンターシリーズ 3位(チーム:ダイヤモンド・レーシング)
1999年 - フォーミュラ・オペル・ユーロカップ シリーズ2位
Rd.1 (ドニントンパーク)1位 /予選2位
1999年 - フォーミュラ・オペル・ユーロシリーズ 6位
1999年 - イギリスF3スカラシップ参戦 (チーム:カーリン・モータースポーツ)
1999年7月 - イギリスF3選手権(ナショナル・クラス) 3勝
1999年11月 - マカオGPエリクソン・フォーミュラ・チャレンジで優勝
2000年 - イギリスF3選手権(ナショナル・クラス) シリーズ3位 (チーム:カーリン・モータースポーツ) (マシン:ダラーラF300無限)
Rd.1 スラクストン リタイア /予選7位
Rd.2 クロフト 5位 /予選3位
Rd.3 オウルントンパーク リタイア /予選11位
Rd.4(R1) ドニントンパーク リタイア /予選1位
Rd.4(R2) ドニントンパーク 9位 /予選25位
Rd.5 シルヴァーストーン 1位 /予選1位
Rd.6 ブランズハッチ 2位 /予選4位
Rd.7(R1) ドニントンパーク 3位 /予選7位
Rd.7(R2) ドニントンパーク 9位 /予選5位
Rd.8 クロフト 1位 /予選1位
Rd.9 シルヴァーストーン 1位 /予選1位
Rd.10 スネッタートン 6位 /予選6位
Rd.12 シルヴァーストーン 1位 /予選2位
2000年6月 - ヨーロッパF3選手権(ポー)リタイア /予選24位
2000年7月 - フランスF3選手権スポット参戦で優勝
Rd.5(R1) スパ・フランコルシャン 1位 /予選8位
Rd.5(R2) スパ・フランコルシャン リタイア /予選2位
2000年8月 - マルボロ・マスターズF3(ザントフールト)28位 /予選2位
2000年11月 - マカオGP・F3レース(ギア・サーキット)リタイア /予選2位
2001年 - イギリスF3選手権 シリーズチャンピオン (チーム:カーリン・モータースポーツ) (マシン:ダラーラF300無限)
Rd.1(R1) シルヴァーストーン 12位 /予選3位
Rd.1(R2) シルヴァーストーン 4位 /予選4位
Rd.2(R1) スネッタートン リタイア /予選4位
Rd.2(R2) スネッタートン 2位 /予選3位
Rd.3(R1) ドニントンパーク 1位 /予選2位
Rd.3(R2) ドニントンパーク リタイア /予選3位
Rd.4(R1) オウルトンパーク 1位 /予選1位
Rd.4(R2) オウルトンパーク 1位 /予選4位
Rd.5(R1) クロフト 失格 /予選2位
Rd.5(R2) クロフト 1位 /予選3位
Rd.6(R1) ロッキンガム 1位 /予選2位
Rd.6(R2) ロッキンガム 1位 /予選2位
Rd.7(R1) キャッスルクーム 2位 /予選1位
Rd.7(R2) キャッスルクーム 2位 /予選4位
Rd.8(R1) ブランズハッチ 9位 /予選1位
Rd.8(R2) ブランズハッチ 1位 /予選4位
Rd.9(R1) ドニントンパーク 12位 /予選1位
Rd.9(R2) ドニントンパーク 1位 /予選1位
Rd.10(R1) ノックヒル 1位 /予選2位
Rd.10(R2) ノックヒル 1位 /予選3位
Rd.11(R1) スラクストン 2位 /予選2位
Rd.11(R2) スラクストン 8位 /予選3位
Rd.12(R1) ブランズハッチ 2位 /予選2位
Rd.12(R2) ブランズハッチ 1位 /予選2位
Rd.13(R1) シルヴァーストーン 18位 /予選3位
Rd.13(R2) シルヴァーストーン 1位 /予選1位
2001年6月 - ヨーロッパF3選手権 リタイア /予選4位
2001年7月 - F3インターナショナル・インビテーション・チャレンジ(シルヴァーストーン) 1位 /予選1位
2001年8月 - マールボロ・マスターズF3(ザントフールト) 1位 /予選1位
2001年9月 - エルフF3マスターズ(スパ・フランコルシャン) 3位 /予選2位
2001年11月 - マカオGP・F3レース(ギア・サーキット)1位 /予選2位

2002年
2002年 - F1世界選手権 シリーズ15位(2ポイント) (チーム:ジョーダン) (マシン:ジョーダンEJ12ホンダ)
Rd.1 オーストラリアGP リタイア /予選22位
Rd.2 マレーシアGP 9位 /予選15位
Rd.3 ブラジルGP 9位 /予選19位
Rd.4 サンマリノGP リタイア /予選19位
Rd.5 スペインGP リタイア /予選18位
Rd.6 オーストリアGP リタイア /予選18位
Rd.7 モナコGP リタイア /予選16位
Rd.8 カナダGP 10位 /予選15位
Rd.9 ヨーロッパGP 14位 /予選16位
Rd.10 イギリスGP リタイア /予選14位
Rd.11 フランスGP リタイア /予選14位
Rd.12 ドイツGP 8位 /予選12位
Rd.13 ハンガリーGP 10位 /予選14位
Rd.14 ベルギーGP 11位 /予選16位
Rd.15 イタリアGP 12位 /予選18位
Rd.16 アメリカGP 11位 /予選15位
Rd.17 日本GP 5位入賞 /予選7位

2003年
2003年 - F1世界選手権スポット参戦 シリーズ18位(3ポイント) (チーム:B.A.R) (マシン:BAR005ホンダ)
Rd.16 日本GP 6位入賞 /予選13位

2004年
2004年 - F1世界選手権 シリーズ8位(34ポイント) (チーム:B.A.R) (マシン:BAR006ホンダ)
Rd.1 オーストラリアGP 9位 /予選7位
Rd.2 マレーシアGP 15位 /予選20位
Rd.3 バーレーンGP 5位入賞 /予選5位(1994年片山右京に並ぶ予選日本人最高位タイ)
Rd.4 サンマリノGP 16位 /予選7位
Rd.5 スペインGP 5位入賞 /予選3位(予選日本人最高位)
Rd.6 モナコGP リタイア /予選8位
Rd.7 ヨーロッパGP リタイア /予選2位(予選日本人最高位更新、日本人初のフロントロー獲得、日本人初のラップリーダーを記録)
Rd.8 カナダGP リタイア /予選17位
Rd.9 アメリカGP 3位入賞(1990年鈴木亜久里に並ぶ日本人最高位タイ) /予選3位
Rd.10 フランスGP リタイア /予選7位
Rd.11 イギリスGP 11位 /予選9位
Rd.12 ドイツGP 8位入賞 /予選9位
Rd.13 ハンガリーGP 6位入賞 /予選3位
Rd.14 ベルギーGP リタイア /予選15位
Rd.15 イタリアGP 4位入賞 /予選5位
Rd.16 中国GP 6位入賞 /予選9位(エンジン交換で10グリッド降格)
Rd.17 日本GP 4位入賞 /予選4位
Rd.18 ブラジルGP 6位入賞 /予選6位

2005年
2005年 - F1世界選手権 シリーズ23位(1ポイント)(チーム:B.A.R) (マシン:BAR007ホンダ)
Rd.1 オーストラリアGP 14位 /予選19位
Rd.2 マレーシアGP ウイルス感染に伴う発熱のため、欠場 サードドライバーのアンソニー・デビッドソンが代わりに出場
Rd.3 バーレーンGP リタイア /予選13位
Rd.4 サンマリノGP 車体の最低重量規定違反のため失格(5位入賞 /予選6位)
Rd.5 スペインGP B・A・Rの出場停止処分により欠場
Rd.6 モナコGP B・A・Rの出場停止処分により欠場
Rd.7 ヨーロッパGP 12位 /予選16位
Rd.8 カナダGP リタイア /予選6位
Rd.9 アメリカGP リタイア /予選8位
Rd.10 フランスGP 11位 /予選5位
Rd.11 イギリスGP 16位 /予選8位
Rd.12 ドイツGP 12位 /予選8位
Rd.13 ハンガリーGP 8位入賞 /予選10位
Rd.14 トルコGP 9位 /予選タイム抹消(14位)
Rd.15 イタリアGP 16位 /予選5位
Rd.16 ベルギーGP リタイア /予選11位
Rd.17 ブラジルGP 10位 /予選19位
Rd.18 日本GP 失格(13位完走もヤルノ・トゥルーリとの接触事故が危険行為とされた為) /予選5位
Rd.19 中国GP リタイア /予選17位

2006年
2006年 - F1世界選手権 シリーズ23位(0ポイント) (チーム:スーパーアグリ) (マシン:SA05ホンダ/SA06ホンダ)
Rd.1 バーレーンGP 18位 /予選20位
Rd.2 マレーシアGP 14位 /予選21位 
Rd.3 オーストラリアGP 12位 /予選21位
Rd.4 サンマリノGP リタイア /予選21位
Rd.5 ヨーロッパGP リタイア /予選21位
Rd.6 スペインGP 17位 /予選20位
Rd.7 モナコGP リタイア /予選19位
Rd.8 イギリスGP 17位 /予選20位
Rd.9 カナダGP リタイア(15位完走扱い) /予選21位
Rd.10 アメリカGP リタイア /予選18位
Rd.11 フランスGP リタイア /予選21位
Rd.12 ドイツGP リタイア /予選19位
Rd.13 ハンガリーGP 13位 /予選20位
Rd.14 トルコGP リタイヤ /予選22位
Rd.15 イタリアGP 16位 /予選21位
Rd.16 中国GP 失格(14位完走も青旗無視のためレース後に失格となった) /予選21位
Rd.17 日本GP 15位 /予選20位
Rd.18 ブラジルGP 10位 /予選19位

2007年
2007年 - F1世界選手権 シリーズ12位(4ポイント)(チーム:スーパーアグリ) (マシン:SA07ホンダ)
Rd.1 オーストラリアGP 12位 /予選10位
Rd.2 マレーシアGP 13位 /予選14位 
Rd.3 バーレーンGP リタイア /予選17位
Rd.4 スペインGP 8位入賞 /予選13位
Rd.5 モナコGP 17位 /予選21位
Rd.6 カナダGP 6位入賞 /予選11位

関連項目
ウィキメディア・コモンズに、佐藤琢磨に関連するマルチメディアがあります。モータースポーツ
日本人ドライバー一覧
F1ドライバーの一覧
アンドリュー・ギルバート−スコット(元レーサーで現在琢磨のマネージャー)

外部リンク
佐藤琢磨公式ウェブサイト
TAKU-STYLE

参考文献
佐藤琢磨 『GO FOR IT! Takuma Sato』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04076-0
佐藤琢磨 『佐藤琢磨2002F1ダイアリー:GO FOR IT! 2』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04083-3
佐藤琢磨 『佐藤琢磨2004F1ダイアリー:GO FOR IT! 3』 二玄社 2004年 ISBN 4-544-04096-5
原富治雄 『AURA Takuma Sato』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04130-9
西山平夫 『君が代が聴きたい:佐藤琢磨とホンダF1の戦いを追って』 双葉社 2004年 ISBN 4-575-29739-9
『F1CLUB特別編集 佐藤琢磨-優勝へのカウントダウン。』 双葉社 2004年 ISBN 4-575-47684-6
2007年のF1世界選手権を戦うチームと出走ドライバー
マクラーレン ルノー フェラーリ ホンダ BMWザウバー トヨタ
1 アロンソ 3 フィジケラ 5 マッサ 7 バトン 9 ハイドフェルト 11 シューマッハ
2 ハミルトン 4 コヴァライネン 6 ライコネン 8 バリチェロ 10 クビサ 12 トゥルーリ
レッドブル ウィリアムズ トロ・ロッソ スパイカー スーパーアグリ
14 クルサード 16 ロズベルグ 18 リウッツィ 20 スーティル 22 佐藤
15 ウェバー 17 ヴルツ 19 スピード 21 アルバース 23 デビッドソン

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%90%A2%E7%A3%A8" より作成
カテゴリ: 日本のF1ドライバー | 東京都出身のスポーツ選手 | 複数のスポーツで活躍した選手 | 1977年生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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