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  • 2011.05.14 Saturday
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今の中国に、真の信仰の自由と説かれても・・・

ローマ法王真の宗教の自由」について中国を非難



中国は、やはり、まだ「統制国家」であり、真の宗教の自由・・・と言っても
なかなかどうして、難しいんだろうな。。

でも、もう何千年もの、布教の歴史があるんだから、あせらず、行くに限るのでは
ないでしょうか・・・

と言いつつ、サムライは、ほぼ無宗教状態ですが・・・


【7月1日 AFP】中国政府公認の宗教団体「カトリック愛国会」がローマ法王庁の承認無く司教を任命したことに関する問題で、ローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)は6月30日、バチカンが司教を叙階する権利を尊重るよう中国側に求め、同団体による任命を「容認できない」とした。

 約1000万人いるとされる、ローマ法王庁を強く信奉する中国のカトリック教徒にあてた声明の中でローマ法王は、中国に対し「真の宗教の自由」を尊重するよう求め、中国カトリック愛国会は「(バチカンの)教義と相いれない」と非難した。さらに、司教はローマ法王庁にのみ忠誠をつくす人物から選ばれ、中国政府公認のカトリック愛国会の司教は認めないとの見解を示した。

 中国側はこの主張を真っ向からはねのけ、中国との関係を悪化させたくなければバチカンは自制すべきとの姿勢をみせた。中国外務省の秦剛(Qin Gang)報道官は、「バチカンが現実と向き合い、新たな障害を作り出さないよう望む」という声明を出した。(c)AFP/Martine Nouaille

(写真)2007年6月30日、バチカンのパウロ4世(Paul VI)ホールで演説するローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)。(c)AFP/ALBERTO PIZZOLI






ベネディクト16世 (ローマ教皇)とは




ベネディクト16世ベネディクト16世(ラテン語:Benedictus XVI 1927年4月16日 - )はドイツ出身の第265代ローマ教皇(在位:2005年4月19日 - )。本名はヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー (Joseph Alois Ratzinger)。ラテン語の主格表記でベネディクトゥス16世と表記されることもある。

目 次

1 人物

2 生涯
2.1 幼少期から
2.2 司教・枢機卿時代
2.3 教皇就任

3 教皇として
3.1 教皇名の意味
3.2 教皇庁人事
3.3 列福・列聖
3.4 思想的立場

4 著書

5 脚注

6 外部リンク



[1] 人物

ベネディクト16世は教皇選出時78歳であったが、これは1730年のクレメンス12世以来の最高齢での選出である。またドイツ人教皇は11世紀のウィクトル2世以来950年ぶりであり、ベネディクトの教皇名を名乗る教皇は、第一次世界大戦時に教皇位にあったベネディクト15世以来80年ぶり。

ベネディクト16世はミュンヘン教区の司教に就任する以前、神学者としてすでに有名な存在であった。パウロ6世時代の1977年に枢機卿にあげられ、ヨハネ・パウロ2世によって1981年に教皇庁の教理省長官に任命された。1993年に司教枢機卿になり、1998年に枢機卿団の次席枢機卿、2002年11月30日に首席枢機卿に任命された。歴代の首席枢機卿はオスティアの名義司教であることが通例であるため、同時にオスティアの司教位も受けた。

ベネディクト16世は教皇就任以前からヨハネ・パウロ2世の側近中の側近として大きな影響力を持っていた。ヨハネ・パウロ2世の晩年には実質的に教皇庁をとりしきっており、首席枢機卿としてヨハネ・パウロ2世の葬儀の司式を行い、自身を選出したコンクラーヴェの運営においても中心的な役割を担った。

母語のドイツ語のみならず、イタリア語、英語、フランス語、教会ラテン語など数言語に堪能であり、1992年以来フランスの倫理学アカデミーの会員でもある。またドイツ人らしくサッカー好きでバイエルン・ミュンヘンのファンクラブ会員であることも知られている

ベネディクト16世の思想や方針は前任者ヨハネ・パウロ2世のそれと非常に近いと考えられている。たとえばカトリック教会が守ってきた結婚や家族に対する伝統的な考え方を強く支持することや、避妊や妊娠中絶、同性愛の否定や女性聖職者を認めないとする点などである。


[2] 生涯

[2.1] 幼少期から

ヨーゼフ・ラッツィンガーの生家ヨーゼフ・ラッツィンガーは1927年、父ヨーゼフと母マリアの次男としてドイツのバイエルン州マルクトル・アム・インで生まれた。父親は警察官であり、母は食堂の手伝いをして生計を立てていた。父ヨーゼフは1937年に退職したが、勃興してきたナチスに対して嫌悪感を抱いていた。兄ゲオルグは、後にヨーゼフと共に司祭職を志して司祭となった。母マリアは1991年になくなっている。親族によれば、ヨーゼフは小さい頃から司祭になることを夢見ていたという。しかしドイツが戦争一色になると14歳でヒトラーユーゲントへの加入を余儀なくされ、1943年には学友たちと共に対空防衛補助活動に動員された。1944年にいったん自宅へ戻ることができたが、戦況の悪化にともなって再び動員されて歩兵としての訓練を受けた。1945年4月、ドイツ降伏後のわずかな期間、ウルムの戦犯収容所に収容されていたが、まもなく解放された。

戦後、兄ゲオルグと共に神学校にはいったヨーゼフは1951年6月29日に司祭に叙階され、1953年に『聖アウグスティヌスの教会論における神の民と神の家』という論文で神学博士号を取得。さらに1957年には聖ボナヴェントゥラについての論文を著して大学教授資格を得てフライジング大学に迎えられた。ヨーゼフは1959年から1963年まではボン大学で教え、ついでミュンヘン大学、チュービンゲン大学で教鞭をとった。チュービンゲンでは著名な神学者ハンス・キュングと共に教えたが、当時の大学にあふれていた学生運動や学生たちのマルクス主義への傾倒には行き過ぎを感じていた。

第2バチカン公会議ではケルン大司教ヨーゼフ・フリングス枢機卿の神学顧問として活躍。公会議文書『キリスト教以外の諸宗教に関する教会の態度についての宣言』の作成において貢献した。このころのラッツィンガーは進歩的・改革的神学者とみられていた。後にラッツィンガーは教理省長官として再び他宗教・思想との関係を論じた『ドミヌス・イエスス』を世に問うことになる。


[2.2] 司教・枢機卿時代

ヨハネ・パウロ1世とラッツィンガー枢機卿1972年、ラッツィンガーはハンス・ウルス・フォン・バルタザールやアンリ・ド・リュバックらと共に神学ジャーナル『コムニオ』を発刊。『コムニオ』は今では17言語で発行されるほどカトリック神学の世界において重要なものとなっている。

1977年にミュンヘン・フライジングの大司教に任命された。このとき、彼が司教職のモットーとして選んだ言葉はヨハネの第三の手紙からとった「コーペラトレス・ウェリターティス」(真理の協働者)であった。同年、パウロ6世によって枢機卿にあげられたが、2005年のコンクラーヴェにおいて、パウロ6世の任命した枢機卿のうちで生存しているものは14名、80歳以下でコンクラーヴェに参加できたものはラッツィンガーを含めてわずか3人だった。

1981年11月、教皇ヨハネ・パウロ2世はラッツィンガーを教理省長官に任命。彼は教皇位を受けるまでその地位にあった。教理省はかつて検邪聖省といわれていたものである。1982年にミュンヘン大司教区を離れ、1993年に司教枢機卿となった。1998年に次席枢機卿、2002年には枢機卿団の長たる首席枢機卿に選ばれた。


[2.3] 教皇就任

ヨハネ・パウロ2世の健康状態が悪化し、後継教皇の話題が出るようになると、ラッツィンガーはその最有力候補とみなされるようになった。かつては引退してドイツで執筆活動に専念したいと語っていたラッツィンガーも、徐々に変化し、「神の意思ならどのような仕事でも引き受けなければならない」というようになった。教皇就任前の2005年4月初頭にはタイム誌の「世界でもっとも影響力のある100人」の一人に選ばれている。

2005年4月19日、コンクラーヴェは二日目にしてラッツィンガーを新教皇に選出。コンクラーヴェの動向を見守りながらサン・ピエトロ大聖堂前に集まっていた人々の前にメディナ・エステヴェス枢機卿があらわれ、数言語で群集に呼びかけ、ラテン語で「新教皇としてラッツィンガー枢機卿が選ばれ、ベネディクト16世という教皇名を選んだ」ということを告げた。続いてバルコニーに姿を現した新教皇はイタリア語で群集に挨拶し、最初の祝福を与えた。





[3] 教皇として

ベネディクト16世の教皇紋章
パパモビル(謁見用教皇車)に乗るベネディクト16世

[3.1] 教皇名の意味

自ら選ぶ教皇名からはその教皇の意図や目指すところがうかがえる。ベネディクト16世は2005年4月27日に行われた初の一般謁見で、ベネディクトという名を選んだ理由について語っている。それによると、まず世界大戦という困難な時期にあって教会を指導し、世界平和の希求を教会の第一の使命であると考えていたベネディクトゥス15世に対する敬意があり、次にベネディクト会の創立者ヌルシアのベネディクトゥスからとっていることを明らかにしている。ベネディクトゥスとベネディクト会は中世初期の混乱した時代において、キリスト教の知的遺産や古代文化を守り、次の時代へと継承する役割を担った。教皇は現代を混乱した時代と見、キリスト教2000年の遺産を次代に引き継ぐ責務を感じているといわれる。またベネディクトゥスがヨーロッパの守護聖人であることから、ヨーロッパのキリスト教を再びよみがえらせたいという意志の表れと見る向きもある。

ベネディクト16世の教皇紋章からは、伝統であった教皇の三重冠が消え、代わりに司教のしるしであるミトラが描かれている。教皇着任以降、一般世界に与えた印象は、温和で人の話を聞こうとする教皇というものであった。教皇はもっと人々と近づくため、パパモビル(謁見用教皇車)もオープンなものにしたいと考えているという。

教皇の着座式のミサでも従来行われてきた全枢機卿の忠誠の誓いの式が廃止され、代わりに枢機卿、聖職者、修道者、信徒家族、最近洗礼を受けた人々の12人の代表による式が行われた。全枢機卿は教皇選挙の終わりにすでに忠誠の誓いをたてている。ベネディクト16世はそういった習慣を廃止する一方で、かつて行われていた赤い教皇靴をはく習慣や列福式の司式などの習慣を復活させてもいる。


[3.2] 教皇庁人事
ベネディクト16世は教皇位につくと教皇庁の人事を発表したが、それは前教皇時代の人々を再任命という形で留任させるというものであった。その中でも最も高位の人事は国務長官のイタリア人のアンジェロ・ソダーノ枢機卿とヴァティカン市国の知事であるアメリカ人のエドモンド・スツカ枢機卿の二人である。その後、2006年6月22日、定年によるソダーノ枢機卿の引退願いを受諾、同年9月15日に当時ジェノヴァ大司教のタルチジオ・ベルトーネ枢機卿が新たに教皇庁国務省長官に任命された。

ベネディクト16世が決定した唯一の新人事は教理省長官である。これはかつて教皇自身がついていたポストであり、空位になっていたためである。任命されたのは(予想を裏切って)サンフランシスコ大司教区の大司教ウィリアム・ジョゼフ・レヴァダであった。彼は新しいカテキズムの編纂者の一人で、枢機卿団の誰よりも保守的な傾向を持つ人物であるともいわれる。彼はベネディクト16世が初めて行った枢機卿任命で、枢機卿となった。

教理省長官のポストは教皇庁の中でも影響力の大きく、前長官である教皇にとっては側近という意識が強いポストである。このポストにアメリカ人聖職者が選ばれたということは世界に少なからぬ衝撃を与えた。というのもアメリカ合衆国は世界政治において圧倒的な影響力を持つため、カトリック教会の有力ポストにアメリカ人がつくことは教会の中立性に影響を及ぼす恐れがもたれるためであった。(このためアメリカ人が教皇に選ばれることは起こりえないといわれている。)


[3.3] 列福・列聖

2005年5月13日に教皇として最初の列福調査開始を命じている。調査対象は前教皇であるヨハネ・パウロ2世である。通常は死後五年を待たないと列福調査は開始されないのだが、前教皇は生前から聖人の誉れが高かったうえ、葬儀時には群衆の間から「Santo Subito」(サント・スビト:イタリア語で「すぐに聖人に」の意)の大歓声が繰り返し上がったためであった。聖人になるためには長いプロセスをたどらねばならない。初期調査で聖徳を備えていたことが立証されると「神のしもべ」となる。つぎに「尊者」になり、ここで対象者のとりなしによる奇跡が認定されて初めて「福者」になることができる。「福者」になってはじめて記念ミサを行うことができるようになる。

5月14日、最初の列福式を執り行った。列福されたのはハワイのマザー・マリアンヌ・コープである。彼女はモロカイ島のダミアン神父の協力者であり、ハンセン病患者のために生涯をささげた。彼女の任意の記念日は1月23日とさだめられた。ダミアン神父とマザー・マリアンヌはともにHIV感染者の保護者となっている。二人が列聖されるとハワイからの初の聖人の誕生となる。

列福・列聖式を精力的に執り行ったヨハネ・パウロ2世とは異なり、ベネディクト16世は司式を列聖省長官ホセ・マルティンス枢機卿におこなわせた。これは列福式のような対外的な業務もさることながら、教会の内的な業務に力をいれたいという教皇の意思のあらわれであり、自らの年齢と健康状態への配慮と識者は見ている。2005年10月23日にはベネディクト16世による最初の列聖式が行われ、ポーランド人でリバウの司教ヨシフ・ビルツェフスキなどが聖人にあげられた。


[3.4] 思想的立場

かつては進歩的神学者として有名だったベネディクト16世ではあるが、今では保守派の元締めのように見られることが多い。たしかに彼はカトリックの伝統的な思想を擁護したいという強い意志を持ち、避妊、中絶、同性愛などに対しては現代社会の要請にこたえてカトリック教会の教えを変えることには断固反対という立場をとっている。これは前教皇ヨハネ・パウロ2世の立場とまったく同じものである。さらに「どんな思想や文化もなんでもあり」とする行きすぎた相対主義、多元主義にも警鐘を鳴らしている。

ベネディクト16世はカトリック教会は現代社会におもねるのでなく、神のメッセージを人々に伝える役割を果たすべきであるという思いを強く持っているといわれる。コンクラーヴェ開始のミサの中で彼はゆきすぎた相対主義を「個人のエゴと欲望だけに重きを置く結果になる」と警告している。もともとカトリック教会では「自らこそが正統、自らがすべて」という色合いが強かったが、第2ヴァティカン公会議において、カトリック教会がエキュメニズムや異文化理解を促進しなければならないとして劇的な方向転換を成し遂げた。しかし、教皇はこの思想が行きすぎたものになり、結果としてなんでもありという相対主義にいきつくことで、カトリック教会の存在の意味そのものが失われかねないと危惧しているといわれる。

教皇就任後に、「他宗派、異宗教との対話を継続する」と発言していることから、前教皇ヨハネ・パウロ2世の頃の姿勢を硬化させることはないという比較的楽観的な見解もあったが、東方正教会に対してローマへの復帰を説き、公式に批判するなど、就任半年を経ずして他教会から反発される発言が出るようになった。

2005年6月6日にサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂で行われたローマ教区信徒のためのミサの中で、ベネディクト16世は同性結婚や中絶への反対姿勢を再び明らかにしている。

2006年9月12日、ドイツの大学で行った講義の中で、ベネディクト16世はイスラム教の教えの一つであるジハードを批判する発言を行った。この事はアルジャジーラ等のアラブ系メディアの反発を受けた。また、パキスタン議会は、9月15日に彼に発言の撤回を求める非難決議を全会一致で採択した。 なお、発言にはイスラムを邪悪で残酷と評した14世紀の東ローマ皇帝マヌエル2世の「ムハンマドは、剣によって信仰を広めよと命じるなど、世界に悪と非人間性をもたらした」という言葉を引用している。

2007年にはトルコを訪問。初のイスラム教国の訪問となった。このときには、前年の「ジハード批判」に反発するデモが発生するなど混乱が見られた。このトルコ訪問ではエルドアン首相、セゼル大統領と会談したほか、イスタンブールのブルーモスクを訪問。その後、東方正教会のコンスタンティノポリ総主教庁を訪問、バルトロメオス総主教と会談した。

また、2007年1月24日にはフィクション作品、特にアニメーションやコンピュータゲームにおける性表現や暴力表現を「卑俗的で背徳的である」と非難する見解を表明している[1]。


[4] 著書
(日本語訳の存在する分のみ)

「信仰と未来」(田淵文男 訳、あかし書房)
「まことの兄弟とは―キリスト教的兄弟観」(吉田聖 訳、エンデルレ書店)
「キリスト教入門」(小林珍雄 訳、エンデルレ書店、ISBN:4-7544-0013-8 )
「典礼の精神」(濱田了 訳、サンパウロ、ISBN:4-8056-6121-6)
「新ローマ教皇 わが信仰の歩み」(里野泰昭 訳、春秋社、ISBN:4-393-33246-6)…半生が綴られた自伝。
「ベネディクト16世 黙想と祈りによる十字架の道行き」(女子パウロ会、ISBN4-7896-0605-8)
「教皇ベネディクト16世 回勅 神は愛」(カトリック中央協議会司教協議会秘書室研究企画 訳、カトリック中央協議会、ISBN: 4-87750-125-8 )
「信仰について―ラッツィンガー枢機卿との対話」(V. メッソーリ 著、吉向キエ 訳、ドン・ボスコ社、ISBN:4-88626-095-0)…枢機卿時代のインタビュー。
「ポスト世俗化時代の哲学と宗教」(J. ハーバーマスとの共著、三島憲一 訳、岩波書店、ISBN:4-00-024758-0)


[5] 脚注

^ CNET JAPAN・2007年1月25日付「ローマ法王、暴力的なゲームを非難」


[6] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズに、ベネディクト16世 (ローマ教皇)に関連するマルチメディアがあります。Vatican: the Holy See
Joseph Ratzinger, Papa Benedetto XVI
カトリック中央協議会 ベネディクト十六世:略歴、一般謁見・説教内容など
教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演「信仰、理性、大学――回顧と考察」(2006年9月12日・訳文)
教皇ベネディクト十六世の65回目の一般謁見演説(2006年9月20日・訳文)
バチカン放送局:教皇のことば
KTO:司式ミサ、行事などの動画
先代:
ヨハネ・パウロ2世 ローマ教皇
第265代: 2005年- 次代:
-


カテゴリ: 教皇 | カトリック | 表現規制問題に関連する人物 | 1927年生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



ローマ法王(ローマ教皇)とは




ローマ法王、ローマ教皇(きょうこう ラテン語:Papa、ギリシャ語:πάππας)はキリスト教の高位聖職者の称号で、一般的にはカトリック教会のローマ大司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。教皇の地位は教皇位(Papacy)、あるいは教皇座と呼ばれる。また教皇の権威のことを「聖座」(Sancta Sedes)、あるいは「使徒座」ということがある。

目 次

1 称号の起源

2 概説

3 古代教会における「教皇」

4 選挙・死去・退位
4.1 選挙
4.2 死去
4.3 退位

5 教皇称号の変遷

6 シンボルと徽章

7 地位と権威

8 政治的役割

9 教皇位をめぐる議論

10 その他の「教皇」

11 日本語の「教皇」と「法王」

12 そのほか

13 関連項目



[1] 称号の起源

エウセビウス『教会史』によればアレクサンドリア主教に3世紀ごろから「パパ」(教皇)の称号が用いられ、のち他の都市にも主教の称号として波及したが、ローマ主教とアレクサンドリア主教の双方にのみ用いられるようになった。これは当時の東方教会と西方教会のそれぞれ中心地であった。現在でも、東方正教会やコプト正教会ではこの習慣を守り、ローマ主教と自派のアレクサンドリア主教の双方を教皇称号の保持者とみなしている。

古儀式派、ロシア等スラブ系の東方正教会では、パパの語は、神品(聖職者)一般を意味する語としても用いられる。ただし、呼称としては用いず、呼びかけには「バチューシュカ」(お父さん、神父さんの意)と呼ぶ。この語は、カトリック教会の教皇を連想させるため、文脈によっては極めて侮蔑的な意味を含む。このため使用には注意が必要である。

一方、中世以降の西方教会、すなわちカトリック教会において、教皇はローマ司教にしか使用せず、「教皇」とたんに呼べばそれはローマ教皇を意味する。パパという敬称も同様である。この意味での教皇は、かつて法王とも別称されたが、現代では公式なカトリック教会の訳語としては教皇で統一されている。なおカトリックでは聖下はかつてローマ教皇のみの敬称であったが、第2バチカン公会議以降、上記のアレクサンドリア教皇を含む東方教会の高位聖職者にも用いている。


[2] 概説

初期のローマ司教たちはペトロの後継者、ペトロの代理者を任じていたが、時代が下って教皇の権威が増すに従って、みずからをもって「イエス・キリストの代理者」と任ずるようになっていった。「キリストの代理者」という称号が初めて歴史上にあらわれるのは495年で、ローマの司教会議において教皇ゲラシウス1世を指して用いられたものがもっとも初期の例である。これは五大首都大司教座(ローマ、アンティオキア、エルサレム、コンスタンティノープル、アレクサンドリア)の中におけるローマ司教位の優位を示すものとして用いられた。

教皇はカトリック教会全体の首長という宗教的な立場だけでなく、ローマ市内にある世界最小の独立国家バチカン市国の首長という政治的な立場もある。1870年のイタリア半島統一以前には教皇の政治的権威の及ぶ領域はさらに広く、教皇領と呼ばれていた。教皇領の成立の根拠とされた「コンスタンティヌスの寄進状」が偽書であることは15世紀以降広く知られていたが、教皇領そのものはイタリア統一まで存続した。1870年以降、教皇庁とイタリア政府が断絶状態に陥ったため、教皇の政治的位置づけはあやふやであったが1929年に結ばれたラテラノ条約によってようやくイタリア政府との和解を見た。

現在、教皇位にあるのは2005年4月19日に78歳で選出されたベネディクト16世(ヨーゼフ・ラッツィンガー)である。彼は1978年に58歳で教皇に選ばれたヨハネ・パウロ2世の後を受けて教皇に選ばれた。ベネディクト16世は1522年に選出されたハドリアヌス6世以来、ヨハネ・パウロ2世と二代続けて選出された非イタリア人教皇となった。ドイツ人ともオランダ人ともいえるハドリアヌス6世を除外すればドイツ人教皇の誕生は11世紀以来となる。


[3] 古代教会における「教皇」

初代教会の時代から一貫してローマ司教が教皇という特別な地位を保持したわけではなく、ペトロのローマ到着以降、数世紀をかけて徐々に発達していったということはカトリック教徒も含めて広く受け入れられている。古代のローマはローマ帝国の首都として初代教会の信徒たちにとっても特別な場所であった。しかしそのころのローマ司教の権威と影響力はローマの外へおよぶものではなかった。

ローマのクレメンスが96年ごろ、コリントの信徒へあてて書いた手紙にローマ司教の権威に関する言及があり、アンティオキアのイグナティオスも105年ごろにローマの信徒へあてて書いた手紙の中でローマ司教の「裁治権」にふれている。この「裁治権」について、ある者はこれこそが古代からローマ司教が特別な権威を持っていたと考えるものと、単に名誉的なもので実際的な権威はなかったというものがいる。

2世紀(189年ごろ)になって、リヨンのイグナティオスが『異端反駁』3:3:2でローマ教会の首位権について述べている。そこでは「ローマの教会が特別な起源を有し、真に使徒に由来する伝承を保っていることはすべての教会で認められていることである。」この記述は史上初めてローマ教会の特別な地位について明確に述べたものであるが、ギリシャなどの東方地域においてはローマの首位は受け入れられていなかったと考えられる。特にローマ皇帝がローマを離れてコンスタンティノープルに移ったあとでその傾向は顕著となった。381年の第1コンスタンティノープル公会議において教皇が出席を見合わせたのもその地位と権威についてローマ帝国の東西で見解が分かれていたからである。

半世紀後の440年に着座したレオ1世大教皇の時代になるとローマ教皇こそが、イエスから使徒ペトロに与えられ、ペトロから代々引き継かれた全教会に及ぶ権威を持っているという見解が公式に唱えられるようになる。451年のカルケドン公会議ではレオ1世は使節を通して「自分の声はペトロの声である」と述べた。当時ローマとコンスタンティノープルどちらかの権威が上なのか議論になっていたが、この公会議の席上、コンスタンティノープル大司教は「コンスタンティノープルは新しいローマ」であるため「名誉ある地位をローマに譲るものである」という声明を出したが、ローマ側から事の判断をうやむやにしているという意見が出て受け入れられなかった。

カトリック教会では伝統的に教皇の地位と権威が聖書に由来するものであるとしている。特に重視されるのはマタイによる福音書の16:18-19のイエスのペトロに対する言葉である。

「シモン・バル・ヨナ。お前は祝福されたものだ。このことは血と肉によってでなく天におられる父によって示されている。わたしは言う、おまえは岩(ペトロ)である。この岩の上に私の教会をたてよう。死の力もこれに勝つことはできない。わたしは天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐものは天でもつながれ、地上で解くものは天でも解かれるのである。」

この箇所から「天国の鍵」のデザインが教皇の紋章に取り入れられている。


[4] 選挙・死去・退位

[4.1] 選挙

詳細はコンクラーヴェを参照

古代から中世の初期にかけて教皇はローマ周辺に住む聖職者によって選ばれていた。1059年に選挙権が枢機卿に限定され、1179年に入ってすべての票の権利が同等とされた。教皇は一般的に枢機卿団から選出されるが、法的には教皇に選ばれるための条件としては(聖職者でなくてもよく)男子のカトリック信徒ということしかない。1378年に選ばれた教皇ウルバヌス6世は、教皇選出時に枢機卿でなかった最後の教皇である。通常、司教でない聖職者が教皇に選ばれると、教皇位に着く前に枢機卿団の前で司教叙階を受けることになっている。現行の教会法では80歳以下の枢機卿から選出されることになっているため、そのような事態は起こりえない。

1274年の第2リヨン公会議では、教皇選挙のシステムが規定された。それによれば教皇の死後、10日以内に枢機卿団が会合を開き、次の教皇が選出されるまでその場を離れないことが定められた。これは1268年の教皇クレメンス4世の死後の混乱から、3年にわたる教皇の不在(使徒座空位)が続いたことを受けて定められたものであった。16世紀半ばまでには教皇選挙のシステムは、ほぼ現代のものに近いものになった。

伝統的な教皇選出法としては「満場一致により決定する方法」、「司祭団の代表たちによって教皇を決定する方法」、そして「投票によって教皇を決定する方法」の三つがある。満場一致の方法というのは、選挙者たちが新教皇の名前を叫び、それが完全に一致した場合に、その決定を有効とする方法であるが1621年以降用いられたことはなく、ヨハネ・パウロ2世によって「代表たちによる方法」と共に正式に廃止とされた。結果的に枢機卿団による投票が教皇選挙の唯一の方法となっている。

1978年以前、教皇選挙がおわると新教皇を中心としてシスティーナ礼拝堂からサン・ピエトロ大聖堂へ壮麗な行列を行うことが慣例とされていた。そして大聖堂につくと教皇は三重冠を受け、教皇としての最初の祝福(ウルビ・エト・オルビ)を与える。続いて教皇の前で飾り立てられたトーチに火をともし、すぐにそれを消して「シク・トランジト・グローリア・ムンディ」(この世の栄華はかくもむなしく消え去る)という訓戒を与え、教皇が(かつて「近代主義に対抗する誓い」)とよばれた教皇宣誓を行うというのが伝統的な教皇着座の流れであったが、ヨハネ・パウロ1世、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世と三代の教皇の就任時には、この種の古めかしい儀式は行われなかった。

ラテン語の「セーデ・ヴァカンテ」(使徒座空位)という言葉は教皇不在(通常は教皇の死去から次の教皇の選出まで)の状態を指す言葉である。この言葉から「使徒座空位主義者」と呼ばれる人々の呼称が生まれた。この人々は現代に至る数代の教皇たちは不当にその地位についていると考え、カトリック教会から離れている。彼らから見れば現在の状態は「使徒座空位」であるということになる。彼らがこのように唱える最大の理由は第2バチカン公会議以降の改革が受け入れられないことにある。特にトリエント・ミサと呼ばれる伝統的なラテン語ミサが現代化の流れに沿って各国語で行われるようになったことが不満なのである。


[4.1] 死去

現在、教皇の不在時(使徒座空位)における対応を定めているのは1996年のヨハネ・パウロ2世による教皇文書『ウニベルシ・ドミニチ・グレギス』である。それによれば教皇不在時には首席枢機卿を中心に枢機卿団が集団指導制によってバチカン市国とカトリック教会全体を指導する。しかし教会法では教皇不在時になんらかの重大な決定や変更を枢機卿団だけで行うことは禁止されている。教皇の承認を必要とする決定は新教皇の着座まで保留される。

教皇の死の確認に関しては、首席枢機卿が教皇の本名を三度呼び、銀のハンマーで額を三度たたくという方法によるとされていたが、あまりに時代錯誤であると批判の対象になっていた。しかし、この半世紀の間、実際にこの方法が用いられたことはない。仮にこの儀式が行われることがあっても、それは医師によって死が確認されたあとでのことである。この時点で首席枢機卿が教皇の右手から「漁師の指輪」をはずす。パウロ6世の場合は、晩年になって自ら指輪をはずしていたが、通常は教皇の死去時に指輪がはずされる。指輪には教皇の印章が彫られているため、悪用を防ぐために破壊されることになっている。

教皇の遺体はすぐ埋葬されず、数日間聖堂などに安置される。20世紀の教皇たちはみなサン・ピエトロ大聖堂に安置されてきた。教皇庁は埋葬後、九日間の喪に服すことになる。これをラテン語で「ノヴェム・ディアリス」という。


[4.2] 退位

教会法332条第二項によれば、教皇が退位するために必要な条件はあくまで自発的な退位であることと、定められた手続きを守ることである。2002年6月と7月の二度にわたって教皇ヨハネ・パウロ2世が教会法にもとづいての退位を検討していたことがイタリアのメディアによって報道されたことがある。教皇の遺言でも2000年に80歳の誕生日を迎えたことを節目に真剣に退位を検討していたと報じられているが、定かではない。教皇は晩年、さまざまな病で苦しみ、職務を果たせないと考え、退位を検討していたものの、最終的に2005年4月2日の死までその職にとどまることとなった。


[4.3] 教皇称号の変遷

「教皇年鑑」によれば現在、教皇に用いられる公式な称号には以下のようなものがある。

ローマ司教

キリストの代理人

使徒のかしらの継承者

全世界のカトリック教会の統治者

イタリア半島の首座司教

ローマ首都管区の大司教

バチカン市国の首長

神のしもべのしもべ

ラテン語が公式言語である教会法の正文の中では、教皇は「ポンティフェクス・ロマヌス」(ローマ司教)という名であらわされる。「パパ」という呼び方は教皇に対する非公式な呼び方であり、公式な呼び方をすべてあげるなら「ローマ司教、キリストの代理者、使徒の継承者、全カトリック教会の統治者、イタリア半島の首座司教、ローマ首都管区の大司教、バチカン市国の首長、神のしもべのしもべ」となる。このような長大な正式名称でよばれる機会はほとんどない。



教皇の署名は通常「教皇名○○、PP、○代」という形で行われる。たとえばパウロ6世なら「Paulus PP. VI 」である。PPはパパ(Papa)の略であるとされ、ローマ時代の最高神官から引き継がれた名称である「ポンティフェクス・マクシムス」(最高司祭の意)の略称である「P.M.」あるいは「Pont.Max.」という称号が書き加えられる。回勅などの公式文書には正式に「教皇名、カトリック教会の司教(Episcopus Ecclesia Catholicae)」と署名される。

文頭にはよく「教皇名、司教にして神のしもべのしもべ(Episcopus Servus Servorum Dei)」という署名が書き込まれる。この形式は大教皇とよばれたグレゴリウス1世にまでさかのぼる古い呼び名である。そのほかの称号として「スンムス・ポンティフェクス」、「サンクティッシムス・パーテル」(至聖なる父)および「ベアティッシムス・パーテル」(もっとも祝福された父)、あるいは「サンクティッシムス・ドミヌス・ノステル」(われらがもっとも聖なる君主)などがあり、中世においては「ドミヌス・アポストリクス」(使徒的君主)もつかわれたが、現在でも少し形をかえてラテン語の荘厳な連祷の中で「ドミヌム・アポストリクム」と呼ばれている。



[5] シンボルと徽章

三重冠(Triregnum)はここ数代の教皇たちは用いていないが、古代以来ローマ教皇のシンボルとなっている。教皇は典礼儀式の中では司教のしるしであるミトラ(司教帽)をかぶっている。十字架のついた杖も13世紀以前から用いられている。またパリウム(幅二インチほどの布製の輪)がカズラの上に着用される。

金と銀の二つの鍵が交差する形で描かれる天国の鍵も教皇のシンボルとして用いられている。そのうちの銀の鍵は現世的な権威を、金の鍵は宗教的な権威を示している。漁師だったペトロにちなんで「漁師の指輪」と呼ばれる金の指輪も教皇によって用いられている。また、ウンブラクルム(unbracullum)として知られる教皇用の赤と金の線が入った傘の図柄も用いられることがある。

古代以来、長きにわたって教皇のシンボルとして用いられたものに教皇用輿(セディア・ゲスタトリア)がある。みこしのような土台に教皇の椅子が備え付けられ、12人の従者によって運ばれる。さらに二人の扇もちが付き添ってあおぐのが慣例であった。教皇用輿はあまりに前時代的であるということでヨハネ・パウロ1世も使用を嫌がったが、ヨハネ・パウロ2世によって正式に廃止された。ヨハネ・パウロ2世は移動用に教皇用オープンカー(パパ・モビル)を初めて用いた。

教皇はまた独自の紋章を持っている。それぞれ違うといっても基本的な構成はほぼ同じであり、交差して組まれた金と銀の鍵、三重冠、赤い組紐は必ず描かれている。バチカン市国の旗とされているのは黄色と白の旗であり、教皇の三重冠がそこにも描かれている。この旗がはじめて現れたのは1808年のことであり、それ以前、教皇庁は聖座の色である赤と金の旗を使っていた。


[6] 地位と権威

教皇の司教座聖堂はサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂であり、公邸はバチカン宮殿である。また避暑用の別荘として(古代の都市アルバ・ロンガの近く)カステル・ガンドルフォに別荘を持っている。歴史上では、教皇は長きにわたってラテラン宮殿を在所としており、避暑用の施設はクイリナーレ宮殿であった。クイリナーレ宮殿はその後、イタリア王の宮殿を経て、大統領公邸になっている。

教皇はカトリック教会の長としての権威(聖座として)と国際法上の権威(バチカン市国として)の両方を組み合わせた外交関係を保持している。数百年の長きにわたり、教皇の宮廷(ローマの聖座)はカトリック教会の枢要機関として機能してきた。「聖座」あるいは「使徒座」という言い方は教会用語でローマ司教(と教皇座全体)の特別な権威を示すものである。ローマ司教として国際社会とカトリック教会の中で認められてきた教皇の特別な権威・栄誉・特権はすべて使徒の頭ペトロの権威から引き継がれたものとみなされてきた。

ペトロの権威によってローマはカトリック教会の中で中心的な位置を占めることになった。ローマ教皇はあくまでローマ司教としてその権威を行使するが、ローマに住むことが必須というわけではない。ラテン語の定式「ウビ・パパ、ウビ・クリア」という言い方は教皇がカトリック教会の中心都市に住む限り、ローマ司教であり続けることができることを示している。たとえば1309年から1378年にかけて教皇座はアヴィニョンにおかれていたが、これは古代イスラエルの故事になぞらえて「教会のバビロン捕囚」とよばれた。

現在の教皇の地位を規定しているのは第1バチカン公会議(1870年)で採択された教義憲章「キリストの教会」である。同憲章の第一章は「ペトロに由来する使徒的首位性」というタイトルで、「福音書からも、主キリストが使徒ペトロに他の人々に優越する権威を与えたことは明らかである」(第1節)と述べ、さらに「もしペトロがキリストによって使徒のかしらとされ、教会の目にみえるしるしとして立てられたということを認めず、そのイエスからの直接の権威が単に名誉的なものだけで実質的な意味を持たないというものは教会から排斥される。」としている。(「〜は教会から排斥される」という表現はアナテマと呼ばれるもので古代以来、第1バチカン公会議にいたるまで用いられ、カトリック教会が教義について述べた文章に必ず添えられる定型文であった。)

第二章「聖座におけるペトロの権威の存続について」では、「主キリストがペトロに与えた権威は永続的なもので、『岩の上にたてられた』教会として存続し、『おわりの時』まで続くものである」と述べ、 「ペトロの座を引き継いだものは誰でもキリストに由来する権威を保持し、全教会に対する首位性を有する」とする。よって「この権威がキリストの意図によるものでなく、ペトロの権威は永遠のものであることを認めないもの、ローマの聖座がペトロの権威を継承していないというものは教会から排斥される」という。

第三章「ローマの聖座の有する首位権の力と性質」では、「フィレンツェ公会議においてローマの聖座、使徒座は世界の教会におよぶ首位性を持ち、ローマの聖座が使徒の長、キリストの代理であるペトロの権威を引き継ぎ、全教会の父・教師たる地位を持つ旨が宣言されている」とし、「この聖座の布告にもとづいて、ローマ教会は他の教会に対しても卓越した地位を保持する」としている。

教皇の力は同憲章の3章などに定められている。それは「信仰の最高の判定者であり、信仰の問題についての決定権を持つ。すなわち聖座としての決定的な布告は、誰も覆すことができない」というものである。これは同じ公会議で布告された教皇不可謬性の問題と密接な関連を持っている。

第2バチカン公会議以前のカトリック教会では「救いのためにはローマの聖座とのかかわりが必要である(教皇ボニファティウス8世の言葉)」と伝統的に教えており、この考え方はよく「extra Ecclesiam the popeus salus」(教会の外に救いなし)という言葉で表されてきた。パウロ6世も「教会の外にいるものは聖霊の恵みを受けられない。カトリック教会は現代に生きるキリストの体である。だからこそ、もしそこから離れてしまえば聖霊の恵みを得ることができないのである。」といっている。 しかし、この考え方はカトリック教会以外の人だけでなく、肝心のカトリック教会の中でも誤解されてきた。歴代の教皇たちは「カトリック教会の中にいる人々は救いにつながっている」といっている一方で「カトリック教会と縁のない人々が救われないというわけではない」ということをしばしば強調している。ピウス9世は回勅『クアント・コンフィカムル・モエロール』(1868年)でこう述べた、「わたしたちは、われわれの聖なる宗教とかかわりのない人であっても、神によって全ての人の心に書き込まれた自然法に従い、徳に満ちた人生を送るなら、神の力と照らしによって永遠の命に入ることができるということを知っている。」

ヨハネ・パウロ2世は『レデンプトーリス・ミッシオ』の中で「現代のみならず、過去においても、福音や教会について知る機会がなかった多くの人々がいて、たとえ彼らがまったくキリスト教と関わることがなくても、神秘的な絆によって、キリストの救いを受けてきたことは明らかです。」といっている。

教皇のものとされ、実際に行使されてきた権能は以下のとおりである。司教の任命、教区の設立と廃止、教皇庁の職員の任命、教皇庁文書の認可、典礼祭儀の変更、教会法の改定、列福と列聖、教会裁判の最高決定権、回勅の公布、(信仰と道徳に関する事柄についての)不可謬な宣言、修道会の承認と禁止。ただ、これらの権能を実際に行うのは教皇庁のメンバーたちであり、実質的に教皇が行うのは最終的な承認を与えることだけである。



[7] 政治的役割

4世紀にローマ帝国ではキリスト教徒の数が飛躍的に増加したが、司教が世俗において何らかの権力を獲得することはなかった。ローマ司教がその信徒に対する影響力によって帝国の行政システムの中で力を与えられるようになっていったのは5世紀以降のことである。教皇が政治的な存在感を初めて見せつけたのは452年にローマに侵入してきたアッティラをレオ1世が駆け引きのすえに撤退させることに成功したことによってであった。さらに754年にはフランク王国のピピン3世(小ピピン)が領土の一部を教皇ステファヌス3世に寄進したこと(ピピンの寄進)は、教皇の政治的な影響力が無視できないものになっていたことを示している。この土地が後の教皇領の基礎となった。800年には教皇レオ3世がフランク王国のカール大帝にローマ皇帝としての王冠を授けている。ここからのちに神聖ローマ皇帝として知られることになる王位の系譜が始まる。これ以降、ナポレオンが自分自身で王冠をかぶるまで、教皇が王冠を授ける権威を持ち、世俗の王位はカトリック教会によって承認されるものであるという伝統がつくられていく。先にのべた教皇領がイタリア王国の成立する1870年まで存続した。

教皇領を保持することで、教皇は領土を持つ世俗の君主の一人というだけでなく、全キリスト教徒の長という聖俗にわたる強力な権威を持つことになった。淫蕩の限りをつくしたことで悪名高いアレクサンデル6世や、軍事的才能を備えて数度の戦役を闘ったユリウス2世などが政治的な権威を行使した教皇の代表格といえよう。またグレゴリウス改革で知られるグレゴリウス7世やアレクサンデル3世などは神聖ローマ帝国の影響下において教会改革を志した宗教的な権威者として後代に知られている。中世の教皇たちは回勅によって政治的な影響力を行使したが、世界史上で特に有名な回勅としてヘンリー2世のアイルランド侵攻の根拠となった『ラウダビリテル』(1155年)、世界をスペインとポルトガルで分割するトルデシリャス条約のもととなった『インテル・チェテラス』(1493年)、エリザベス1世を破門し、家臣の臣従の義務を解いた『レグナンス・エクセルシス』(1570年)、グレゴリオ暦を定めた『グラビッシマス』(1582年)などがある。



[8] 教皇位をめぐる議論

カトリック教会の中において「教皇の権威」は教義として宣言されたものである以上、その職務の権威を否定することは認められない。第1バチカン公会議では「カトリック教会において教皇の首位権、裁治権を認めないものは分離される」というアナテマがはっきりと示された。(ただ、教皇の地位の厳密な位置づけについて議論することは認められている。)カトリック教会の外でははっきりとローマ教皇の権威については疑義が示されることがある。その種の疑義をおおまかにまとめると次のようになる。

 ローマ教皇を認めつつも、全世界の司教たちの中における首位権への疑問
 教皇制度そのものへの疑問
福者ヨハネ23世は回勅『パーチェム・イン・テリス』において、アッシリア正教会、東方典礼カトリック教会、東方正教会、聖公会などの諸教会は「使徒からの継承」という概念を共通に持っているため、ローマ司教たる教皇の持つ栄誉ある地位を多かれ少なかれ認めていると述べている。(ここでいう「栄誉ある地位」というのは決して首位権とイコールではない。)ただ、この箇所で言及されている諸教派はローマ教皇が他の司教を超えるペトロの権威を継承しているということを認めていないし、ペトロがローマに行ったということすら認めないものもある。教皇の首位権は司教座であるローマがローマ帝国の首都であったことにも由来することはカルケドン公会議の教令第28条でも明示されているため、教皇が全教会に対し教導権を発揮することを認めないのである。また、彼らにとって第1バチカン公会議は公会議として認めることができないものであり、結果的にそこで採択された教皇不可謬に関する宣言も無効である。

その他の教派のものにとっては「使徒座の継承」という考え方すら受け入れがたいものだ。このような人々から見れば、名誉的なものであれ、教会裁治権上のものであれ、聖書に書かれていない以上、ペトロの首位権というものはありえない。また教皇権が西ローマ帝国や東ローマ帝国などの世俗の権力と複雑にかかわってきたことや、統一イタリア王国成立時の教皇領接収のあと長く続いた政府との確執などが教皇権というものへの歴史的な疑問点となっている。

西欧においては教皇権のありかたに対する不満が宗教改革へいたるひとつの底流となった。カトリック教会から離れた教派においては教皇の地位についての見解はさまざまで、単に全教会に対する統治権を認めないものから、黙示録に現れる反キリストであると言う極端なものまである。ただ歴史において、教皇のような唯一の首位権や中心となるものの存在を認めない教派は内部分裂を起こして、細分化していくことになった。

ほかにボルジア家出身のアレクサンデル6世やカリストゥス3世のような堕落した教皇の例をあげて、堕落した人間がこのような権威を持っていたことに疑問符をつけるものもある。そのような批判者によれば全智全能の神が、このような堕落した人間に聖なる権威を与えるはずがなく、「堕落した教皇」というものの存在することこそ教皇位が神の意思に由来するものでないことの証左であるという。これに対する反論としては、神が堕落した人間にすら大きな地位を与えることがあることの証明として、古代イスラエルの王たちや、使徒の一人でありながらイエスを裏切ったイスカリオテのユダをあげる意見もある。またどれほど堕落した教皇であっても教皇制度そのものが消滅しなかったことを教皇権が神に守られたものであることの証明であるというものもある。



[9] その他の「教皇」

古代教会では「パパ」というのは一般的な司教に対する敬称であったが、西方教会においては徐々にローマ司教に限定される称号になっていく。今日、公式に「パパ」という称号で呼ばれるのはローマ教皇以外にはコプト教会の首長であるアレクサンドリア総主教(コプト教皇)と東方正教会のアレクサンドリア総主教(アレクサンドリア教皇)だけである。

対立教皇とはカトリック教会の公式な認定と関係なく教皇位を宣言するものである。通常対立教皇が生まれる背景にはカトリック教会内の論争や特定の教皇の正統性をめぐって紛糾する事態が存在する。(教会大分裂) かつて正統な教皇以外に教皇を名乗る人物が現れるのは宗教だけでなく政治をもまきこむ大問題であったが、現代においては中世ほどたいした問題にはならない。

カトリック教会内で大きな影響力を持つイエズス会の総長はかつて「黒い教皇」と呼ばれることがあった。これはイエズス会員が質素な黒いスータンを着ていたことと教皇はつねに白い服を着ることに由来している。

聖座の一機関である福音宣教省の長官(枢機卿)は「赤い教皇」と呼ばれることがある。この職にあるものはアジアとアフリカ全域の教会の責任者であるため、教皇に匹敵するほどの地位だという意味であり、「赤」は枢機卿の色である。



[10] 日本語の「教皇」と「法王」

日本においてローマ教皇の呼び方として「法王」と「教皇」が混用されている。日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会では1981年のヨハネ・パウロ2世来日時にそれまで混用されてきた「法王」と「教皇」の呼び方を統一しようと、世俗的な君主を思わせる「王」の字が入る「法王」でなく、「教皇」という呼び方への統一を定め、一般に呼びかけた。このとき、東京のローマ法王庁大使館においても「法王庁」から「教皇庁」への名称の変更を行おうとしたが、日本政府から「日本における各国公館の名称変更はクーデターなどによる国名変更時など特別な場合以外認められない」とされ、「ローマ法王庁大使館」の名称が残った。このため日本のカトリック教会が「法王」という呼び方を用いていない現在においても、マスメディアでは日本の外交界における名称である「ローマ法王庁」の呼称から「法王」という名称が用いられている。



[11] そのほか

教皇の公用車の一つメルセデス・ベンツGクラスを改造したものは「教皇車」(パパモビル)と呼ばれる。
教皇名は自由に選ぶことはできるが、ペトロを選んだものはいない。ペトロを教皇名とすることを禁止する申し送りがあるといううわさもある。
史上もっとも若く教皇になったもの:ヨハネ22世(18歳)
史上もっとも短い教皇在位:ウルバヌス7世(1590年9月15日〜9月27日、12日)
伝統的に教皇の検死は行われない。


[12] 関連項目

ローマ教皇の一覧
ベネディクト16世
コンクラーヴェ
公会議
教皇庁立大学
皇帝教皇主義
叙任権闘争
女教皇ヨハンナ
ウィキメディア・コモンズに、教皇に関連するマルチメディアがあります。

カテゴリ: 教皇 | カトリック | バチカン | 称号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(ローマ法王 から転送)

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  • 2011.05.14 Saturday
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