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  • 2011.05.14 Saturday
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松井秀喜 第10号決勝2ランを放つ活躍

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松井秀喜とは

松井 秀喜(まついひでき)の基本情報

国籍 日本
出身地 石川県能美市
誕生日 1974年6月12日(33歳)
身長・体重 188 cm 、
95 kg
守備位置 左翼手
打席・投球 左・右
背番号 55 ▽記事全文▽

松井秀喜 第10号決勝2ランを放つ活躍

【7月6日 AFP】07MLB、ニューヨーク・ヤンキース(New York Yankees)vsミネソタ・ツインズ(Minnesota Twins)。

今季初の4番・指名打者で先発出場したヤンキースの松井秀喜(Hideki Matsui)は、決勝打となる第10号2ランホームランを
放つなど2安打2打点の活躍でチームの勝利に大きく貢献した。試合はヤンキースが7-6で勝利を収めた。(c)AFP/Getty Images


(写真)打球の行方を見つめる松井。(c)AFP/Getty Images Chris McGrath

年俸 $13,000,000(2007年)
デビュー年 1993年5月1日(NPB)、2003年3月31日(MLB)
経歴 星稜高等学校→読売ジャイアンツ(1993-2002)→ニューヨーク・ヤンキース(2003-)

松井 秀喜(まつい ひでき、ローマ字表記:Hideki Matsui、1974年6月12日 - )は、日本人メジャーリーガー。
石川県能美郡根上町(現能美市)出身。 2007年現在はアメリカ・メジャーリーグ、ニューヨーク・ヤンキース所属。
右投げ左打ち。ポジションは外野手。

星稜高等学校卒業。読売ジャイアンツ(1993年 - 2002年)を経て現在はニューヨーク・ヤンキース(2003年 - )。代理人はアーン・テレム。

目 次

1 経歴
1.1 プロ入りまで
1.2 読売ジャイアンツ時代
1.3 ニューヨーク・ヤンキース時代
2 人物・エピソード
2.1 プロ入りまで
2.2 読売ジャイアンツ時代
2.3 ヤンキース時代
2.4 個人よりもチーム
3 タイトル・表彰・記録
4 年度別打撃成績
5 コマーシャル出演
6 映画
7 ラジオ
8 書籍など
8.1 本人の著作
8.2 関連書籍など
9 関連項目
10 関連エピソード
11 脚注
12 外部リンク



[1] 経歴


[1.1] プロ入りまで

1974年6月12日、石川県能美郡根上町(現能美市)に生まれる。父・昌雄と母・さえ子の次男として生まれる。兄の影響で小学5年生から本格的に野球を始める。
根上中学校を経て星稜高等学校に入学。1年生から4番打者を務める。

1990年(1年)夏の選手権では3打数0安打、チームは初戦敗退。この大会には後にメジャーに渡ることになる中村紀洋、イチローも出場したがともに初戦敗退した。秋は北信越大会で敗れ、選抜出場を逃す。

1991年(2年)、選手権3回戦の竜ヶ崎一戦で甲子園初本塁打をライトスタンドに放った。新チームでは監督山下智茂の推薦でキャプテンに指名される。

1992年(3年)のセンバツではラッキーゾーンが撤去され、本塁打の激減した阪神甲子園球場で2打席連続本塁打、1試合7打点、2試合連続本塁打の大会記録をマーク(連続試合本塁打は2001年に更新)する。

選手権は2回戦の対明徳義塾戦で敗退。この試合で松井が受けた5打席連続敬遠は、高野連が急遽記者会見を行うなどの社会問題にまで発展した。ちなみに、対戦相手の明徳義塾高等学校の馬淵監督は星稜の練習を見て、『高校生の中に一人だけプロの選手が混じっていた。』は試合後のコメントとして有名である。

高校通算打率は.450、本塁打は60本。高校通算60号は国体の対尽誠学園戦の第4打席で記録。これは松井の高校最終打席だった。

1992年11月に行われたドラフト会議で巨人、阪神、中日、ダイエーの4球団が1位指名。抽選の結果、交渉権を獲得した巨人に入団。契約金は1億2,000万円。年俸は720万円。


[1.2] 読売ジャイアンツ時代

1993年、開幕こそ二軍スタートだったが、同じ新人の伊藤智仁(ヤクルト)からHRを放つなど、12試合で.375、4本塁打の活躍で一軍に昇格。

5月1日のヤクルト戦(東京ドーム)に7番レフトでプロデビューを果たした。初打席は西村龍次からセカンドゴロ。2打席目には同じく西村から2塁打を放ち、初安打初打点を記録。翌日の5月2日には高津臣吾(ヤクルト)から内角の直球をライトスタンドに運びプロ入り初本塁打。

1軍にいたのはわずかな期間だったにも関わらず、セ・リーグ高卒新記録となる11本塁打を放った。プロ入り1年目の成績は57試合の出場で打率.223、11本塁打。

1994年、開幕戦で2本塁打。中日ドラゴンズとのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」でも本塁打を放つなど20本塁打を記録してチームの日本一に貢献。オールスターではセ・リーグ史上最年少で4番を打った。

1995年、22本塁打を放ち、初のベストナインを受賞。8月24日の横浜戦でレギュラーシーズンでは初の4番を打った。

1996年、自身2度目のリーグ優勝を経験すると共にMVPを受賞。夏場には7月、8月と2ヶ月連続月間MVPを獲得し、巨人の逆転優勝に大きく貢献した。

リーグ最終戦まで山崎武司(中日)と本塁打王のタイトルを争っていたが、最終戦の中日戦では敬遠されてタイトルを逃した。

22歳での38本塁打は王貞治に並ぶ年齢別最多本塁打記録である。この年は横浜の斎藤隆から7本塁打を放ったが、これは同一投手からのシーズン最多本塁打のタイ記録である。この年の斎藤隆との対戦成績は25打数7安打で、安打のすべてが本塁打であった。


1997年4月27日の広島戦で通算100本塁打を達成。ドゥエイン・ホージー(ヤクルト)との本塁打王争いに1本差で敗れ、史上初の2年連続1本差でタイトルを逃すことになる。

1998年7月28日のヤクルト戦で通算150本塁打を達成。左ヒザの具合が思わしくないままシーズンを過ごし、その影響でプロ生活最大のスランプに悩まされる。

開幕戦は4番を打ったものの、スランプの影響で清原和博に4番の座を奪われる。4月は打率.190、2本塁打に終わった。

しかし5月は月間MVPを受賞するなど本来の調子を取り戻し、その後は順調に打ち続け本塁打王、打点王、最高出塁率のタイトルを獲得。オールスターでは新記録となる4試合連続本塁打を放つ。


1999年6月5日の横浜戦から6月10日の中日戦まで5試合連続本塁打を記録する。9月21日の阪神戦では通算200本塁打を達成。

7月のオールスターで代打で出場した際にわき腹を痛め、連続フルイニング出場が歴代3位(当時)の574試合で止まる。

以後8月中旬までは連続試合出場のために1イニングだけ守備固めとして出場する。このケガの影響が響いてヤクルトのロベルト・ペタジーニと2本差で本塁打王を逃すことになるが自己最高の42本塁打を記録。日本人のシーズン40本塁打は1989年の落合博満以来10年ぶりの快挙だった。

2000年7月12日の広島戦で通算1,000本安打を達成。本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVP、日本シリーズMVP、ゴールデングラブ賞を受賞し、巨人の日本一の立役者となる。

2001年4月12日の中日戦に1,000試合目の出場で通算250本塁打を達成。5月3日の中日戦で史上5人目(当時)の1000試合連続試合出場を達成。5月5日から8月13日までセ・リーグ歴代1位の65試合連続出塁を達成する。

9月には月間MVPを受賞した。また、初めて首位打者のタイトルを獲得した。シーズン中には1試合3本塁打を記録したほか、5月23日のヤクルト戦(東京ドーム)では、単打が出ればサイクルヒット達成という状況の8回第5打席でヒットを打つが、個人記録よりもチームの勝利を選び一塁ベースを蹴って二塁に進んだ。


2002年FA権獲得が目前に迫り、球団からは7年総額56億円という破格の長期大型契約の話が持ちかけられるが、これを断りプロ野球史上最高額(当時)となる年俸6億1,000万円で契約した。7月9日に通算300本塁打を達成。

同時にフリーエージェント権を取得。オールスター前までは打球が上がらず76試合で18本塁打だったが、後半戦は64試合で32本塁打という驚異のペースで打ち続け、自己最多の50本塁打を記録する。(この50本目のホームランは巨人の2002年の最終戦のヤクルト戦・東京ドーム〈後に松井の巨人での最終打席となる〉で記録。

実はこの最終打席は一度キャッチャーへのファールフライを打ったところ捕手の米野智人がこれを落球。それで次の投球を見事本塁打を放ち、最後の最後に50の大台に乗せたたという話があった)この活躍で7、8月と2ヶ月連続で月間MVPを受賞。

また、9月7日の広島戦でプロ野球新記録となる5年連続100得点を記録した。三冠王目前だったが、首位打者争いでは福留孝介(中日)にタイトルを譲った。それでも、本塁打、出塁率ではプロ最高の成績で、本塁打王、打点王、最高出塁率、シーズンMVPを獲得する。

2002年シーズン終了後、FA権を行使し、アメリカ・メジャーリーグのニューヨーク・ヤンキースと3年2,100万ドルで契約した。

ちなみに松井在籍時の10年間巨人はリーグ優勝4回(内日本一3回)だったが松井が抜けた2003年以降優勝が1度もなく現在2年連続Bクラスという状況である。



[1.3」 ニューヨーク・ヤンキース時代

2003年

2003年、ニューヨーク・ヤンキースに入団。3月31日公式戦開幕試合トロント・ブルージェイズ戦に5番レフトで先発出場し、初回にレフト前へのタイムリーヒットを放ち、初打席・初安打・初打点を記録。4月8日の本拠地開幕戦ミネソタ・ツインズ戦ではジョー・メイズ投手から第1号満塁本塁打。

4月12日にはメジャー初のサヨナラヒットを放つ。オールスター出場後の後半開幕戦でもサヨナラ本塁打を放った。勝負強いバッティングでヤンキースの新人としては67年ぶりの100打点以上を記録した。


また、7月に行われたMLBオールスターゲームにファン投票で選出され、新人としては歴代19人目のオールスター先発出場を果たした。

日本人では1995年の野茂英雄、2001年のイチローに続く快挙となった。しかし、野茂やイチローに比べて特に際立った成績も残しておらず、また松井が渡米した2003年から何故か日本からの投票数が発表されなくなったこともあってか、選手紹介時に現地アメリカのファンからブーイングを浴びせられ、物を投げられたり、スター選手との交換用に日本から取り寄せた24本のバットを誰とも交換できず全て持ち帰るなどというほろ苦いオールスター戦になった。

この年の松井は新人として初めて、ヤンキースの選手として初めて、また21世紀になって大リーグで初めてシーズン163試合に出場した選手となった。通常は162試合だが、雨天引き分けによる再試合があったため。

地区シリーズではポストシーズン日本人初のホームランで先制点。ワールドシリーズ第2戦では、ワールドシリーズでの日本人初ホームランとなるバックスクリーンに飛び込む先制3ランを放った。


2004年
日米通算350本塁打を達成。

2004年8月7日、対トロント・ブルージェイズ戦で2打席連続本塁打を放ち、松井にとっては大リーグ移籍後初の2打席連続本塁打となった。

2004年9月30日、対ミネソタ・ツインズ戦で日本人選手初の3試合連続本塁打を放った。
シーズン優勝を決めた試合で同点本塁打を放ち30本塁打目を記録。

2003年のシーズン終了後、体重を約10kg増やし、最終的にメジャーで自己最高となる31本塁打を記録した。

ポストシーズンでは、アメリカンリーグ優勝決定シリーズでMVP候補になるほど打ちまくるが、投手陣が最後に崩れ3勝4敗で逆転負けを喫した。


2005年

2005年、メジャーでは自己最高となる打率.305、116打点(打率はリーグ7位で打点は8位)を記録。

2005年9月8日、日米通算400本塁打を達成。
シーズンオフにヤンキースと4年5,200万ドルで契約を延長。


2006年

2006年3月に開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)について、松井は日本代表の4番として期待されていたが、「自軍ヤンキースの優勝貢献に専念したい」との理由により結局不参加となる。結果、日本のマスコミやファンなどから多くの批判を浴びる事となった。

公式戦直前の3月にWBC開催という事も有り、その時期に所属選手がケガでもしたらチームに影響が出ると言う事で、主力選手をWBCに出したくないと考えたヤンキースはWBC事務局に不参加要請リストを提出したが、リスト上に松井の名前はなかった。リストに載らなかった選手は出場を希望すれば球団は認めなければいけない規則になっているため、松井も本人が望めば出場することは可能であった。当初はイチローも出場辞退すると互いに約束した為に辞退したと言う話もあったが、それは松井の勘違いであったとの指摘もFLASH (写真週刊誌)誌上でなされている。
WBCについてヤンキース広報の広岡勲氏が、2005年12月10日付のニューヨーク・タイムズ紙で、「秀喜はWBCには出たくない。ただ彼は日本でとても人気のある選手なので、王監督や日本のメディア、さらに(1次リーグをMLBから業務委託されている)読売からプレッシャーをかけられている。もし彼が今“自分はWBCに出場しない”と言えば、裏切り者扱いされるだろう」との松井の複雑な胸中を代弁している。[3]
現地時間2006年5月11日、レッドソックス戦の1回表の守備機会の際、マーク・ロレッタ(現:ヒューストン・アストロズ)の放った浅めのフライを滑り込んでキャッチしようとした際手首を故障、そのまま途中交代。これにより巨人時代の1993年8月22日から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。即日の検査の結果、左手首(橈骨)骨折と診断。翌日の早朝にマンハッタンのコロンビア・プレスビタリアン病院で手術が行われ無事に成功した。懸命なリハビリの末に2006年9月12日(現地時間)、怪我から124日ぶりに対タンパベイ・デビルレイズ戦(ヤンキー・スタジアム)に8番・指名打者で先発出場。4打数4安打、1打点の活躍で鮮やかな復活を遂げた。しかし、ヤンキースは2年連続でポストシーズン一回戦で敗退した。


2007年

開幕から4試合目の現地時間2007年4月7日、オリオールズ戦の2回の第1打席目に捕ゴロで1塁へ走った際、左太股に一瞬つったような違和感を訴える。その後2イニングはストレッチなどで様子を見ながら守備に着いていたが、太股の張りが消えないため、4回の第2打席目の直前で首脳陣は代打を告げ、そのまま松井はベンチ裏に退いた。翌日4月8日のオリオールズ戦は欠場、同日よりDL(故障者リスト)入りとなった。MRI(磁気共鳴画像装置)診断の結果、左太股の軽い肉離れが判明。その後故障は順調に回復、DL入りの期限が切れる4月23日に出場選手登録され、同日のデビルレイズ戦へ16日ぶりにスタメン復帰となった。

2007年5月6日(日本時間7日)、本拠地での対シアトル・マリナーズ戦で日米通算2000本安打を達成した。これに併せ、名球会入りも果たした。



[2] 人物・エピソード

高校時代、日本選抜に選ばれアメリカで試合を行っている間は、ロサンジェルス在住の日本人:加藤氏の自宅に
ホームステイしていた。そこでの交流は現在でも続いており時々スポーツニュースでも放送されている。
ちなみに松井は加藤氏のことをアメリカのお父さんと呼んでいる。

巨人時代は日本を代表する長距離打者。メジャーリーグ移籍以降は本塁打にはこだわらない姿勢を見せている。
ニックネームは「ゴジラ」。ニューヨーク・ヤンキースの公式サイトにあるファンフォーラムでは「ゴジラ」の他に、
「mats」、または好機に強いことから「Clutchzilla」と呼ばれている。

また、日本のファンからはLOBの多さから、「ろぶ☆すたー」と揶揄されることも。
背番号は「55」。これは巨人時代に年間最多本塁打55本を打った同球団OBであるところの王貞治の記録にあやかって
付けられたもので、ヤンキースでも引き続き55番である。

ちなみに、松井がヤンキースに移籍した後の巨人ではこの番号は空番となっており、現在までのところ在籍選手・新加入の
選手の誰にも付けさせていない。

安定したフィジカルコンディション(きめ細かい体調管理)、監督からの信頼、強い精神力が求められる連続試合出場は、
2006年の故障で記録が途切れるまで、日本で1,250試合、大リーグで518試合、日米通算1,768試合(ただし日米通算は日本の
プロ野球、アメリカのメジャーリーグ、どちらの公式的な記録にもならず、実力を計る上での参考記録にとどまるのみである)
を数える。


元来は父親譲りの熱狂的な阪神ファンで、掛布雅之と真弓明信の大ファンであった(よって、阪神ファンからの印象も
元巨人の選手にも関わらず悪くない)。ドラフト会議で巨人が交渉権を得た時に、周りにいた友人達は松井が阪神ファンと
知っていた事から歓声も拍手も出来ずに静まり返ってしまった。

後に阪神へ移籍した広澤克実が掛布氏の背番号であった31番をつけた時には、「その番号は僕が付けたい番号」と縦じまの31番
に対する憧れをみせていた。また、実家の押し入れには阪神関連の書物やグッズを全て入れガムテープで「封印」された
段ボール箱が人知れず保管されているという噂もある。

高校時代は強豪校であったため傲慢な部員が多い中、本人は謙虚であり大量のサイン色紙を学校で渡されても断ることなく
翌日書いて持ってきたといわれる。本業の野球以外にもCM撮影やTV出演など激務にも拘らず、練習後にファンにサインを
ねだられても断るような事はしないらしく、その誠実さから小学校の道徳教育の副読本にも取り上げられている
(詳細は後述の項「ヤンキース時代」を参照)。

広岡勲広報やスポーツ紙の記者などマスコミとの関係は非常に親密で、ヤンキース移籍後も毎試合後に会見を行い、
記者たちの質問にも真摯に答える。延長などで時間が遅くなってしまった場合、取材を優先してユニフォームのまま
会見を受けることもある。

シーズン終了後に、番記者や通訳らをメンバーに加えて行われる「草野球」(その際、松井は投手を務める)は、
すでに毎年の恒例行事となっている。2005年12月に行われた記者との草野球で、松井は先発投手を務め、
7回1失点10奪三振と好投した。

しかしその際右ひじを痛め、「草野球とはいえ勝つと最高に気分がいいね。でも右ひじが痛い。こりゃWBC辞退だな」
と冗談交じりに発言している。また、記者と食事、キャッチボールを行うことも多く、度々記事になっている。


その人柄ゆえ周囲からの評判はよく、2006年の骨折ではチームメイトだけでなく他チームの選手からもその欠場を惜しむ声が
聞かれた(後述「ヤンキース時代」参照)。

ジャイアンツ時代から有名女優、タレントなどとの密会がすっぱ抜かれることも多く、女性関係の話題には事欠かない。
その一方で、チームでは練習・試合以外での人付き合いが良い方ではなく、ジャイアンツ時代には週刊少年マガジンの
ジャイアンツ特集で当時同僚の元木大介から「彼は試合が終わった後、家でゴジラの着ぐるみでも着ているのかな?」
と言われるほど。

近時は酒井美紀、戸田菜穂らとの交際が話題となった。とくに2005年の戸田との交際報道では父・松井昌雄が結婚の可能性を
示唆するなど真剣な交際が報じられたが、結局翌年破局に終わった。

東京スポーツ(東スポ)の愛読者であることで有名。またアダルトビデオ鑑賞が趣味であることを公言しており、数百本以上
のアダルトビデオをコレクションしているという。東スポお薦めのアダルトビデオ(松井曰く「バイアグラAV」)を
松井に贈呈する様子が東スポの一面を飾ったこともある。

ちなみにお気に入りのAV女優は有賀美穂、浅倉舞。アダルトビデオ好き以外にも下ネタ好きの一面もあり、それらを
度々口にしては、新聞では書けない様な事を言って担当記者を爆笑の渦に巻いている(巨人時代は広報から注意を受けた
こともある)。このような飾らない一面に好感を持つ男性ファンは多い。

巨人時代から花粉症に悩まされており、そのせいか近年キャンプからシーズン開幕直後にかけては調子を崩すことが多い。
書籍「不動心」のタイトルについて松井は、2006年の怪我の療養中に長嶋茂雄氏に会った際、2つあった候補の中から
「不動心」を選んでもらったという。そのときに長嶋氏は特に何も語らず「これ」と一言述べただけで直ぐに決められたという。

松井は松坂大輔との野球に対する姿勢の違いについて、「僕は個人の優劣なんか関係なく、プレイヤーとしてチームに貢献し、
そのチームが勝てばそれでいい」とテレビインタビューで語った。



[2.1] プロ入りまで

第85代・第86代内閣総理大臣・森喜朗は松井の実家の隣の集落出身で、両者とも根上町立浜小学校の卒業生であり、
松井の後援会名誉会長を務めている。

小学生時代にわんぱく相撲大会で優勝。また町の少年柔道教室に在籍しており、子供の頃は野球をやるか柔道をやるか悩んだ
という。しかし、根上中学校に柔道部が無かったため、野球に専念するようになった。

松井が左打者になったのは、あまりにも打ちすぎるので、兄たちにハンデとして左で打つように言われたからという説が
一般的である(他にも当時松井が好きであった掛布雅之の影響で左で打つようになったという話もある)。

根上中学時代は通算打率は6割を超え、3試合連続本塁打も放ったことがある。3年生になると飛距離は130メートルにも達し、
軟球を割ることもしばしばあった。おかげで代わりのボール代だけでも半年間で10万円を超えることになった。

高校は当初は地元の石川県立小松明峰高等学校に進学し、星稜を倒したいと思っていたが、高校の監督山下智茂からの熱烈な
勧誘や野球部の監督やコーチに薦められて星稜に進学することに決めた。星稜では1年生の時から4番を打っていたが、
5番を打っていたのは3年生の村松有人(現オリックス・バファローズ)だった。

ライナー性の弾道で甲子園球場のバックスクリーンに運ぶ並外れたパワーや、打撃練習であまりにも柵越えを連発するため
練習場のライトフェンス後方に特別のネットが取り付けられるなど、桁外れの話題性から「10年に1人の怪物」と言われていた。

星稜では毎年キャプテンは部員による投票により選んでいたが、山下監督が松井の統率力や影響力を高く評価しており、
特例としてキャプテンに任命したという。

松井の交渉権を引き当てたのは13シーズンぶりに巨人監督に復帰したばかりの長嶋茂雄で、「確定」のくじを引いた際、
親指を立て満面の笑顔を見せた。当時の松井は阪神入りを熱望していたが、ドラフト会議直後に長嶋監督から直接電話を受け、
長嶋監督の言葉に感銘を受け、すんなり巨人入りを決めた。

松井のドラフト指名の際、当初巨人フロントは松井ではなく伊藤智仁(三菱自動車京都)を指名する予定だったが、長嶋が松井の獲得を熱望したため松井指名に切り替えている。
松井の祖母は「瑠璃教」と呼ばれる新興宗教の初代教祖であり、松井の実家の近くに瑠璃教会がある。父・昌雄氏が現在2代目教祖である。
中学校を卒業し、星稜高校の入学式前から野球部の練習に参加していた。その際、他校との練習試合で監督より「4番・サード」を告げられ、しかもヒットを放った。



[2.2] 読売ジャイアンツ時代

プロ初のキャンプでは150メートル級の場外弾を連発し、ファンの度肝を抜く。川上哲治、青田昇等の野球評論家は
「王貞治より上」と絶賛した。

プロ入り初ホームランの球は、高津の内角球だった。ヤクルトの野村克也監督が松井が内角球に強いという話を確かめるために
高津に投げさせたという。

ただし、この試合はヤクルトが勝ち、高津はこの試合でプロ入り初セーブをあげ、(現時点での)史上最多セーブの第一歩を
踏み出した。

高卒ルーキーで二桁本塁打を放ちながら新人王を逃した。これは松井が初めてである。なお、この年の新人王は未規定回数
ながら防御率0.91という驚異的な数字を叩き出した伊藤智仁。

1995年頃、フジテレビ系の子供番組ポンキッキーズの企画で、(室内練習場にて)野球少年と対決した。
結果は、1人目はファーストゴロ、2人目はライトスタンド上段への本塁打だった。

ジャイアンツ時代の契約更新は、毎年12月24日に行った事でクリスマスイブ更新と呼ばれ、球団との交渉時間よりも
インタビューの方が長いほどで、きれいに一発更改。またジャイアンツ時代から天災やテロでの被害者・被害地への義援金を
1度に数千万出資している。ベトナムの孤児として暮らす10人ほどの子供たちに対しても、経済的里親として支援金を送っている。



[2.3] ヤンキース時代

ヤンキースでの背番号55入団時に背番号「55」を、この番号を付ける予定だったベンチコーチドン・ジマーから譲られた。
大リーグでデビュー以来518試合連続出場は、日本人選手歴代1位の記録である。

仲の良いチームメイトはデレク・ジーター。ジョー・トーリ監督には、契約更改時に「世界中の金を集めてでもヤンキースは
松井と契約すべきだ」との賛辞を送られている。

チームメイトからの信頼も厚く、松井が三振に倒れたことにジョニー・デイモンが猛抗議をし、退場を宣告されたことがある。
また、2006年に故障でチームを離脱した際には首脳陣・チームメイトが口を揃えて「彼の代わりは存在しない」
「松井ほどナイスガイはいない」と発言した。

さらにこのときは他のチームの選手からも松井を心配する声が上がった。

復帰後初の試合、(ヤンキー・スタジアム)で送られた観客総立ちのスタンディングオベーションは凄まじく、
多くのファンから広く支持されていることをさらに印象付けた。

2005年度の小学校(2006年度の中学校)の道徳副読本に登場、甲子園で5連続敬遠四球を受けたときの対応など、
「誠実さ」が取り上げられた。

2006年の大晦日にオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の演奏による松井応援歌『栄光(ひかり)の道』
(宮川彬良作曲、詩は一般公募による)が初演される。これはOEKの音楽監督・岩城宏之(6月13日死去)の企画によるもので、
岩城は同年5月に松井へエールを送っており、これが岩城が生前に出した最後の手紙だった。

「例え僕がシーズン70本、本塁打を打ってもチームがプレイオフに出れなければ意味はない」
「僕が10打席10三振でもチームが勝てばいい」と話すなど、チームの勝利を最優先する姿勢を明言している。
一方、「来年は(ホームラン)キングあるよ」(04年12月) 「今年はとことんホームランにこだわっていく」
(Sportiva07年4月号)など、求められればホームランを意識した発言もする。


2005年には、「本塁打より、むしろ連続試合出場に僕はこだわっていきたい」と話していたこともある。

2004年12月26日に発生したインドネシア・スマトラ島沖地震の際には、義援金として5,000万円を2007年3月25日に発生した
能登半島地震の際には、1,000万円を寄付した。

2007年5月6日(日本時間7日)に日米通算2,000本安打を達成した際、当初は外野手のエラーと記録されたが、
後にツーベースに訂正された(あまり触れられていないが、その直後この判定に両チーム乱闘が起こっていた)。
試合後のインタビューにて、記念のボールについて問われると「エラーだと思ったから、どっかにいっちゃった」と発言し、
周囲を笑わせた(実は「ひょっとして」と考えた球団トレーナーが保管しており、試合後に本人に渡されていた)。

尚、日米通算2,000本安打はイチローに次いで2人目。



[2.4] 個人よりもチーム

松井は常に自分の成績よりもチームの成績にこだわっている。ヤンキース1年目のキャンプ中に監督のトーリが
「エンドランのサインを出してもいいか?」と訊ねたところ、松井は「何でもします」と答えた。このやり取り以降、
トーリはこの姿勢を高く評価しており、松井に絶大な信頼を置いている。

また日本では50本を記録するほどのホームラン打者だったがメジャー移籍以降、ホームランが少ないことに対しても
トーリは「チームのためにヒット量産に移行した」と発言している。



[3] タイトル・表彰・記録

[日本プロ野球]

MVP 3回(1996年、2000年、2002年)
首位打者 1回(2001年)
本塁打王 3回(1998年、2000年、2002年)
打点王 3回(1998年、2000年、2002年)
最高出塁率 3回(1998年、2000年、2002年)
ベストナイン 8回(1995年〜2002年)
ゴールデングラブ賞 3回(2000年〜2002年)
月間MVP 7回(1994年4月、1996年7月・8月、1998年5月、2001年9月、2002年7月・8月)
日本シリーズMVP 1回(2000年)
正力松太郎賞 1回(2000年)
7年連続シーズン30本塁打以上(1996年〜2002年) ※歴代4位タイ。
5年連続シーズン100得点以上(1998年〜2002年) ※日本記録。
5試合連続本塁打(1999年6月5日〜6月10日) ※日本記録は王貞治、ランディ・バースの7試合。
シーズン65試合連続出塁(2001年5月5日〜8月3日) ※セ・リーグ記録。
日本通算長打率.582(1993年〜2002年) ※歴代2位。
日本通算1250試合連続出場(1993年8月22日〜2002年10月11日) ※日本では衣笠祥雄の2215試合連続出場に次いで、歴代2位。
オールスター出場 9回(1994年〜2002年)
オールスターMVP 3回(1995年第2戦、1998年第2戦、1999年第1戦)


[メジャーリーグ]

週間MVP 3回(2003年6月、2004年5月、2005年6月)
月間新人MVP 1回(2003年6月)
オールスター出場 2回(2003年、2004年)


[日米通算記録]

日米通算1768試合連続出場(1993年8月22日〜2006年5月11日)
日米通算2000本安打達成(2007年5月6日、日本時間7日)


[4.] 年度別打撃成績

年度 チーム 試合 打数 得点 安打 二塁
打 三塁
打 本塁
打 打点 四球 死球 三振 盗塁 打率 出塁
率 長打
率 年俸
1993年 YG 57 184 27 41 9 0 11 27 17 2 50 1 .223 .296 .451 720
1994年 YG 130 503 70 148 23 4 20 66 57 4 101 6 .294 .367 .475 2,100
1995年 YG 131 501 76 142 31 1 22 80 62 2 93 9 .283 .362 .481 6,200
1996年 YG 130 487 97 153 34 1 38 99 71 4 98 7 .314 .400 .622 8,000
1997年 YG 135 484 93 144 18 0 37 103 100 6 84 9 .298 .419 .564 16,000
1998年 YG 135 487 103 142 24 3 34 100 104 8 101 3 .292 .421 .562 22,000
1999年 YG 135 471 100 143 24 2 42 95 93 2 99 0 .304 .416 .631 28,000
2000年 YG 135 474 116 150 32 1 42 108 106 2 108 5 .316 .438 .654 35,000
2001年 YG 140 481 107 160 23 3 36 104 120 3 96 3 .333 .463 .617 50,000
2002年 YG 140 500 112 167 27 1 50 107 114 6 104 3 .334 .461 .692 61,000
NPB通算 10年 1,268 4,572 901 1,390 245 16 332 889 844 39 934 46 .304 .413 .582 239,020
2003年 NYY 163 623 82 179 42 1 16 106 63 3 86 2 .287 .353 .435 $600(72,000)
2004年 NYY 162 584 109 174 34 2 31 108 88 3 103 3 .298 .390 .522 $700(84,000)
2005年 NYY 162 629 108 192 45 3 23 116 63 3 78 2 .305 .367 .496 $800(96,000)
2006年 NYY 51 172 32 52 9 0 8 29 27 0 23 1 .302 .393 .494 $1,300(156,000)
MLB通算 4年 538 2,008 331 597 130 6 78 359 241 9 290 8 .297 .372 .485 $3,400(408,000)
日米通算 14年 1,806 6,580 1,232 1,987 375 22 410 1,248 1,085 48 1,224 54 .302 .401 .553 647,020

1$=120円で換算。金額は万単位。



[5] コマーシャル出演

ミズノ
キッコーマン
オロナミンCロイヤルポリス
ミサワホーム - 兄・利喜氏がミサワに勤務していることから出演。
明治安田生命
エアーサロンパスEX
NTTDoCoMo北陸
コマツ - 地元の石川県発祥及び父・昌雄氏が以前勤めていたという縁からCMキャラクターに。ヤンキースタジアムで放ったメジャー第1号ホームランがコマツの看板近くに球が飛んだため、広告効果が倍増した。
カゴメ
東芝
日本航空 - 一時期、国内線機材のボーイング747-400とエアバスA300にスペシャルマーキング「松井ジェット」として写真が使われた。
ほか


[6] 映画

『ゴジラ×メカゴジラ』(2002年) - 本人役で出演。
俺はジャイアン チナタア



[7] ラジオ

松井秀喜 ワールドチャンピオンへの道


[8] 書籍など

[8.1] 本人の著作

『不動心』新潮新書、2007年2月(売り上げは30万部を超えている)


[8.2] 関連書籍など

The Hideki Matsui Story―Reaching for Your Dream 松井秀喜バイオグラフィ』(2006年6月刊)
ヒデキマツイ(2005年12月21日刊)
松井秀喜―日本を飛び出しメジャー・リーグで大活躍する野球選手(2005年7月刊)
松井秀喜メジャー物語―ゴジラ・松井は世界の頂点を目指す!(2005年4月刊)
松井秀喜 大リーグの真実(2005年4月刊)
松井秀喜―メジャーにかがやく55番(2004年4月刊)
ライジング・サンズ 2(DVD、2003年12月17日)
心が変われば 山下智茂・松井秀喜を創った男(2003年9月30日刊)
松井秀喜 完全版 ~夢と感動をありがとう(DVD、2002年12月11日)
GLORIOUS 松井秀喜~10years of homerun memories~(CD、2002年12月4日)
松井秀喜2000 ~最強の4番打者~(VHS、2000年11月5日)
ホームラン神話(VHS、1996年11月21日)
翔け世界の頂点へ〜松井秀喜応援歌〜(父2)(CD、2006年9月27日)
など他多数



[9] 関連項目

石川県出身の有名人一覧
読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
読売ジャイアンツの選手一覧
星稜高等学校
山下智茂
長嶋茂雄
王貞治
遠山奬志
ジョー・トーリ
布袋寅泰(打席に立つときのテーマ曲)
マツイ日記は知っている!
ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん
AV OPEN〜あなたが決める!セルアダルトビデオ日本一決定戦〜
焼肉記者
メジャーリーグベースボール 2K7


[10] 関連エピソード

中央競馬に「ヨバンマツイ」なる競走馬が居る。同馬は2004年に美浦トレーニングセンター・阿部新生調教師の厩舎から
デビューしたが2006年8月6日のレース(新潟競馬場)まで9戦未勝利だったが、10月1日に中京競馬場で行われたレースで
初勝利を挙げた。しかもこの時の馬番は4番だった。

インターネット上には、松井を表す顔文字として「にしこり」がある。「に」が顔の輪郭と右目・右頬、「し」は鼻、
「こ」は左目と左頬、「り」は左耳を表す。松井本人もこの顔文字を見て「面白い」と発言した[2]。もとは「にっこり」
だったが、改良されて「にしこり」になったとされている。


[11] 脚注

^ http://www.tokyo-sports.co.jp/1men/mastui/av.htm
^ 松井の見る夢…目標ないが少しでもいいプレーヤーに


[12] 外部リンク

松井秀喜オフィシャルホームページ(期間限定特設サイト)
松井秀喜・ベースボールミュージアム - 石川県にある松井秀喜の資料館。
松井秀喜のホームランカード - 日本テレビ。巨人入団の1993年からホームランを打つたびに希望者(現在は会員制)に実費プレゼント。
ニューヨーク・ヤンキース - 2007[表示]
2 デレク・ジーター | 11 ダグ・ミントケイビッチ | 13 アレックス・ロドリゲス | 14 マット・デソルボ | 18 ジョニー・デイモン | 19 ケビン・トンプソン | 20 ホルヘ・ポサダ | 22 ロジャー・クレメンス | 24 ロビンソン・カノ | 25 ジェイソン・ジアンビ | 26 ウィル・ニエベス | 27 ダレル・ラスナー | 28 メルキー・カブレラ | 31 ジョシュ・フェルプス | 33 ブライアン・ブルニー | 34 ショーン・ヘン | 35 マイク・ムッシーナ | 36 マイク・マイヤーズ | 40 王建民 | 41 ミゲール・カイロ | 42 マリアノ・リベラ | 43 スコット・プロクター | 45 カール・パバーノ | 46 アンディ・ペティット | 48 カイル・ファーンズワース | 52 ルイス・ビスカイーノ | 53 ボビー・アブレイユ | 55 松井秀喜 | 58 ジェフ・カーステンズ | 65 フィリップ・ヒューズ

6 監督 ジョー・トーリ | 23 ベンチ・コーチ ドン・マッティングリー | 一塁コーチ トニー・ペーニャ | 三塁コーチ ラリー・ボーワ | 打撃コーチ ケビン・ロング | 49 投手コーチ ロン・ギドリー | ブルペン・コーチ ジョー・ケリガン

読売ジャイアンツ
1992年ドラフト指名選手
1位:松井秀喜 / 2位:門奈哲寛 / 3位:西山一宇 / 4位:木村竜治 / 5位:村田善則
先代:
広沢克実 読売ジャイアンツ4番打者
第62代 次代:
シェーン・マック


カテゴリ: 日本の野球選手 | 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 | ニューヨーク・ヤンキースの選手 | 名球会 | 1974年生 | 石川県出身のスポーツ選手

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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