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  • 2011.05.14 Saturday
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プーチン露大統領、ソチ郊外でスキー満喫

プーチン、ロシア大統領も、院政が決定して、言わば、絶対君主みたいな存在になりつつあるような感じすらありますね。

その、余裕でしょうかね、スキーしてるところを、メデアに出しちゃうあたりは・・

でも、Wikiってみると、プーチンさん、問題発言が結構あるみたいですね。。

と言いつつ、下のコメントは、何とも洒落が利いてます。。


「ソ連が恋しくない者には心(心臓)がない。ソ連に戻りたい者には脳がない。」

ちゅうことは、ソ連は恋しいけど、あの時代には、戻りたくない人が、ハートがあって頭も良い

自分(プーチン)だ、、って言いたんでしょうか・・



■ウラジーミル・プーチン



ウラジーミル・プーチン
Владимир Владимирович Путин




ロシア連邦2代大統領
任期: 1999年12月31日 –



出生: 1952年10月7日
サンクトペテルブルク
政党: 無所属 (統一ロシアが事実上の与党)
配偶: リュドミラ・アレクサンドロヴナ
サイン:
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン(Владимир Владимирович Путин, 1952年10月7日 - )は、ロシアの政治家。第二代ロシア連邦大統領(在任1999年 - )。柔道家でもあり、段位は柔道五段、柔道六段(来日時、講道館柔道において贈られるも辞退)。

最終学歴は国立レニングラード大学法学部卒業。学位は法学士(国立サンクトペテルブルク大学)、経済科学準博士(1996年)。称号は、サンボと柔道のロシア連邦スポーツマスター。階級は予備役大佐。ヨーロッパ柔道連盟名誉会長。身長168cm。

目 次

1 プロフィール

2 政治姿勢・政権運営
2.1 全般
2.2 外交
2.3 安全保障

3 反プーチン派暗殺疑惑

4 逸話
4.1 暗殺未遂
4.2 発言一覧

5 年譜

6 全世界サミット

7 関連項目

8 外部リンク

9 脚注



[1] プロフィール
レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に生まれ、ソビエト連邦時代はKGBに勤務し、17歳ごろから東ドイツなどで諜報活動に従事したとされる。そのためドイツ語ができる。

ソ連崩壊後はサンクトペテルブルクの市政に携わり注目を集める。同市市長のアナトリー・サプチャークにより、1994年3月、サンクトペテルブルクの第一副市長に任命された。1996年にロシア連邦大統領府総務局次長としてモスクワに異動し、KGBの後身であるロシア連邦保安庁(FSB)の長官を務めた。

エフゲニー・プリマコフのボリス・エリツィン追い落としクーデターを未然に防いだ功績によりエリツィンの信頼を得、1999年に首相に任命されると第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕をふるって国民の支持を集め、同年健康理由で引退を宣言したエリツィン大統領によって大統領代行に指名、2000年の大統領選挙でも圧倒的な人気を集めて過半数の得票を受け当選、正式に大統領となった。

二度目となる2004年の大統領選挙は実質上の信任選挙と言われ、70%以上の圧倒的な得票率で再選した。2008年の任期満了に伴い大統領を退いた後も首相として、事実上最高権力者としての影響力を行使するものと見られている。


[2] 政治姿勢・政権運営

[2.1] 全般
プーチンは「強いロシア」の再建を標榜しており、ロシアの伝統的政治手法として、愛国心に訴え政府に対する国民求心力を強化しようとする政治家として知られる。

エリツイン時代はエリツインとその側近および支持基盤の新興財閥オリガルヒによるメディア支配の時代であった。エゴール・ガイダル、アナトリー・チュバイス(ユダヤ系)の急進的資本主義化は、国有財産である企業を企業長の私物にしたり、急激な価格自由化がハイパーインフレを招き、年金生活者を中心に民衆が大打撃を受けたり、金融危機を招くなどロシア経済の混乱と国民の経済格差拡大を招いた。

さらにガスプロムを始めとする大企業の政権との癒着・納税回避により国家財政は危機に陥り軍の弱体化や金融危機の原因となった国債乱発を引き起こした。 しかし、政財癒着による極端な企業優先政治で格差社会現出と国力衰退を招いたにもかかわらず、支配メディアによる野党候補へのネガティブキャンペーンを行い、TVカメラの前でガスプロム社長を問責するなどの劇場政治パフォーマンスでエリツインは大統領に再選された。

しかしエリツインに首相として引立てられ与党統一ロシアに支持されたKGB出身のプーチンが大統領になると、プーチンは警察・軍出身者のシロヴィキを登用しオリガルヒと対決した。オリガルヒは所有するメディアでプーチンを攻撃したが、プーチンは脱税・汚職などの捜査でオリガルヒを逮捕して制圧。恭順を誓った企業と和解し、恭順企業にメデイアを支配させ、右派連合 (ロシア)等オリガルヒ系政党を少数派に追いやり、権力を確立した。

プーチンは企業の政治介入を排除し、恭順を誓ったオリガルヒに納税させ国家財政と崩壊寸前だったロシア軍を再建した。外交政策的には1990年代エリツイン時代に始まる東欧のNATO加入を受けた対中・対印接近策を継承し上海協力機構の強化に努めている。第二次戦略兵器削減条約の批准を土壇場で米国が拒否した事や、イラク戦争を批判して米国一極支配には抵抗する構えを見せている。

一方で愛国主義を掲げるため、ロシア各地で極右勢力の増大を招き、モスクワの市場ではアジア系商人を襲撃する事件が頻発するなど、極右勢力を増長させる原因を作ったとの批判もある。

また、プーチン政権はソビエト連邦時代の強い国家の記憶を積極的に政権運営に活用している点、貧富差を拡大させたソ連崩壊後の市場原理主義一辺倒ではなく企業の国営化を行うなどした点でエリツィンと大きな違いがある。

コムソモールをイメージした官製の青年団体ナーシを作り、軍旗を赤地に白い星の旗に変更し、かつてのソビエト連邦の国歌の歌詞を変えて新国歌に制定するなど、ソ連時代の全体主義への回帰を強めていっている。


近年は、出身母体であるロシア連邦保安庁などの官僚シロヴィキをバックボーンに、タカ派的・強権的な姿勢を強めている。プーチン政権に批判的なメディアや対立関係にある財閥などを強制解散・投獄するなど抑圧し、親プーチンの財閥を優遇している。また地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改めたり、プーチン支持を唱える青年組織ナーシを結成している。

独立運動の盛んなチェチェンに武力侵攻し、現地ロシア軍が殺戮・強姦などの人権侵害を行っているため、その強権的・独裁的な手法に、欧米など国際社会の強い批判を浴びている。また2006年1月には、ロシアよりもEU・米国との関係を重視し始めたウクライナに対して天然ガス価格を引上げ、拒否したウクライナへの流量を減らすなどの強硬手段をとってロシア・ウクライナガス紛争を引き起こし、強権ぶりを世界に知らしめた。

また、チェチェン武装勢力によるとされるモスクワでの爆破テロはプーチン政権の自作自演であり、またそれを暴露した反プーチン派の人間を暗殺している、という疑惑も取り沙汰され、スターリンの再来と批判する独立系メデイアもある。


プーチンの大統領就任後からプーチン政権の負の内情を暴露する者や勢力が度々、暗殺や謎の死を遂げ、その数は約150名にも及ぶ。プーチン政権主導の反対勢力暗殺が示唆されている。

2006年11月1日にイギリス国内においてアレクサンドル・リトビネンコ氏が暗殺された事件で、ロシア政府の暗殺の関与が濃厚となり旧ソ連時代を彷彿させる暗殺は世界中を震撼させたニュースとなった。 この件で主犯とされる旧ソ連国家保安委員会(KGB)元職員アンドレイ・ルゴボイ容疑者と実業家のドミトリー・コフトゥン容疑者の身柄引き渡しをイギリス警察は求めている。


この事からプーチン政権は独裁色が強く(もっとも歴史的に多民族国家のロシアにおける権力者は強権な支配を行うことが少なくないが)、プーチン政権に反対する勢力や内情を暴露する勢力への暗殺も厭わない冷酷非道な一面が伺え、国際社会でもチェチェン勢力への人権侵害と相まって非難されている。

自身の事績をもって国民の支持を集める点でもエリツィンとは大きく異なるが、その圧倒的な支持を背景に自身の強いリーダーシップをもって中央集権化を推進するプーチンの姿勢は権威主義的であると言われ、「ツァーリ」と呼ばれることもある。プーチン自身は「法の独裁」という言葉を用いて、自らの立場をよく説明する。


[2.2] 外交

2000年、沖縄県名護市の万国津梁館での第26回主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)にて

2007年、ドイツメクレンブルク=フォアポンメルン州ハイリゲンダムでの第33回主要国首脳会議(ハイリゲンダムサミット)にて政権当初は強いロシアを実現するため、アメリカ合衆国や欧州連合が中央アジアや東ヨーロッパの諸国と接近することを警戒する動きを強く打ち出したが、アメリカ同時多発テロ事件以来、テロとの戦いにおいては米国との協調姿勢を見せた。


しかしイラク戦争に於いては、戦争に反対してアメリカとは距離をおき、同じく戦争慎重派のフランス・ドイツとの連携を強化しつつある。特に、旧東ドイツ出身でロシア語に堪能なアンゲラ・メルケルが首相になって以降、ドイツとの蜜月状態が続いている。

また、自衛隊とロシア連邦軍の合同演習も毎年行われるようになった。ところが2005年には上海協力機構に加盟し、中国人民解放軍と合同演習を行うなど、中華人民共和国との関係強化も図っている。


日本の北方領土返還要求に対しては日ソ共同宣言を根拠に二島返還の立場をとり、日本側の親露派に足並みを揃えていた。

ところが、鈴木宗男を筆頭とした親露派の失脚による日本外交の硬直化と、ロシア国内の保守派からの巻き返しにあい、2005年の来日時前のロシア国内向けテレビ番組の中で返還する意思のないことを表明した。しかし来日時には二島返還で日本側を説得しようとした。

戦略的には投資誘致や天然資源の輸出先として日本市場を重視しているが、アメリカへの対抗上中華人民共和国との提携をより重視しており、中露国境問題も中華人民共和国に譲歩する形で解決した。

またシベリアのガスパイプライン建設でも日本ルートと中華人民共和国ルートの駆け引きが続いており大統領の裁量が注目されていたが、この問題も結局、日本向けのパイプラインの着工の目処が立たないまま、「中国支線」と呼ばれるスコボロジノ・大慶間のパイプラインが先に建設される方向で事は進んでいる。


[2.3] 安全保障

就任直後からチェチェン人の武装集団によってロシアの主要都市へテロが頻発すると、これを口実にチェチェンへの武力侵攻を強化した。ロシア軍はチェチェン各地で暴虐を働き、これが更なるテロを誘発する原因となっている。

2002年のモスクワ劇場占拠事件では、立て籠もるテロリストを鎮圧するために有毒ガスの使用を許可した。その結果テロは鎮圧されたが人質の市民も巻き添えとなり、100名を超える市民が死亡する惨事となってしまった。

アメリカを始めとする西欧諸国は最初はロシアを非難していたが、同時多発テロ以後は逆に「対テロ戦争」を支持するロシアとの関係を強化している。しかしその後もチェチェンとロシアの果てしない抗争は続き、ロシアはイラク戦争のアメリカ同様、泥沼の対テロ戦争に足を引き込まれている。

独立派に対しては武力を以って制する一方、第二次チェチェン紛争時には、イスラム原理主義の浸透に反感を抱くアフマド・カディロフ等の帰順に成功し、彼らの不正規部隊をロシア連邦軍や内務省の指揮下にあるロシア国内軍などの正規軍に編入している。2007年1月まで投降者には、刑事訴追の免除等の恩赦が約束されていた。

また、有力者には行政府の地位やロスネフチの子会社であるグロズネフチを通して利権が振舞われており、「アメとムチ」を使い分けていると言える。アンナ・ポリトコフスカヤは、これらの「裏切り者」を批判していた。


ちなみにイラク戦争後にイラクでロシア大使館を設立したが、ロシア大使館員4人が「イラク・イスラム戦士評議会」を名乗るテロリストにより誘拐・射殺された。これに怒ったプーチンはFSBに暗殺指令を命じた。


チェチェン紛争に対するプーチンの姿勢を、国民は「強いロシア」を体現する物として評価しており、プーチン政権の支持率を維持するのに欠かせない要素となっている。そのためチェチェンへの侵攻を強化しなければ政権を維持できないというプーチン政権にとっては一種のジレンマとなっている。


2007年、ロシアは、1992年以来中断してきた長距離爆撃機によるロシアの国外への常時警戒飛行を再開していたことが、2007年8月初めてプーチン大統領自身が、公式に上海協力機構の軍事演習会場チェリャビンスク(Chelyabinsk)で発言することにより明らかになった。[1] これは、2007年8月17日イギリス空軍所属のユーロファイターがロシアの長距離爆撃機を北大西洋上で捕捉したことと符合する。


[3] 反プーチン派暗殺疑惑

2006年10月、反プーチンのロシア人女性ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤが、何者かに射殺された。ロシア情報公開擁護財団によると、ロシアでは1999年から2006年までに128人のジャーナリストが死亡・もしくは行方不明となっており、プーチン政権がこれらの事件に関わっているのではないかとの疑惑が浮上している。

2006年11月には、プーチンを批判してイギリスに亡命し写真が公開されたアレクサンドル・リトビネンコが死亡している。死亡原因として、多量の放射能物質ポロニウムを食事などに混合され摂取した為とイギリス警察が発表し、トニー・ブレア首相がロシア政府に対し協議したいと要望した。FSBによる暗殺だとする説も浮上した。イギリス政府内では、ロシア政府による暗殺との見方が強い。

イギリス警察当局は、この事件で主犯とされる旧ソ連国家保安委員会(KGB)元職員アンドレイ・ルゴボイ容疑者と実業家のドミトリー・コフトゥン容疑者の身柄引き渡しをロシア政府に求めている。ロシア側はこれに対し身柄引き渡しを拒否している。2007年6月21日にはボリス・ベレゾフスキー殺人謀議容疑でロンドンでロシア人が拘束され、容疑者はロシアに強制送還された。これらの問題を背景にしてイギリス・ロシア両国の関係は悪化している。


[4] 逸話

プーチンは元KGB情報部員であり、その過去についても不明な点が多く、首相就任時には影の薄かった彼が大統領に就任した時は、その謎に包まれた経歴から帝政ロシア末期の怪僧「ラスプーチン」に引っかけられ、「ラス・プーチン」と揶揄されたことがある。また、天然ガスなどの資源外交を行うことから、同じくラスプーチンと引っ掛けて「ガスプーチン」と非難された事もある。

その経歴から、「冷酷な性格」や「粗野」という批評を受けているが、国内ではメディアを通じて非常に紳士的な姿勢をアピールしており、国民からの人気もきわめて高い。

また、11歳の頃より柔道とサンボをたしなみ、大学在学中にサンボの全ロシア大学選手権に優勝。1976年には柔道のレニングラード市大会で優勝したこともある程の実力者である。柔道について、『プーチン、自らを語る』(扶桑社刊)のなかで「柔道はたんなるスポーツではない。柔道は哲学だ」と語っている。

また、講道館に於いて、技の型を当時の首相であった小泉純一郎に演武したこともある。2000年の来日時には講道館より柔道六段の段位を贈られることになったが、「私は柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。

ロシアに帰って研鑽を積み、一日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」という言葉とともに、これを丁重に辞退した。2005年12月より欧州柔道連盟の名誉会長。得意技は「払い腰」。 2000年に行われた九州・沖縄サミットでは地元の沖縄県具志川市を訪問し、柔道の練習に飛び入り参加。掛かり稽古(お互いが交互に投げる練習形式)を行い、相手の中学生を投げた後、同じ相手に今度は投げられるというパフォーマンスを行った。

中学生は大統領相手にためらったが、プーチンに促され投げたという。  投げられる大統領の姿はインパクトが強く、その写真や映像は世界中に報道された。好感度アップの行動というよりは、柔道を愛するが故の行動といえるだろう。警備員やSPはまさか大統領が稽古とはいえ投げさせるとは考えられなかったようで、非常に驚いたという。


プーチンには二人の娘がいる。ロシア大衆紙モスコフスキー・コムソモーレツ(電子版05年8月4日)によると、二人がそろって父の母校、国立サンクトペテルブルク大学(旧レニングラード大)に合格し、姉マリーヤは生物土壌学、妹カテリーナは日本史を専攻することになると報じた。またマリーヤは05年3月ギリシャで結婚式をあげた。結婚相手は明らかにされていない。


プーチンの祖父はスターリンの秘書であった。祖父の代では姓が『ラスプーチン』だったためプーチンを名乗るようになった。



カメラの前では無表情を振舞っているが、実は取り留めないほどの冗談好きである。諜報員時代、時の上司から「お前は冷静すぎる」と言われたことがあるのだが、この逸話もプーチン自身にかかると「本当は『お前のようなおしゃべりはシュピオン(スパイ)には向かない』と言われたんです」になってしまう。


エリツィンに抜擢されたのでエリツィン派だったと思われているが、むしろ政治家としてはゴルバチョフ元ソ連大統領に敬意を表している。しかし、ゴルバチョフに師事したことはなく、サプチャークからの間接的な影響だと思われる。

サンクトペテルブルク時代に仕えた市長(当時)のサプチャークは、プーチンが学生時代に指導をうけた恩師でもあり、生涯の尊敬と忠誠を捧げている。


犬好きで、自身もラブラドールを飼っている。その愛犬は「コニー」という名前であり、徹夜でお産の世話をしたこともある。そういった経緯もあってか、日露首脳会談では当時首相の小泉純一郎から犬語翻訳機「バウリンガル」を贈られた。

競馬ファンでもある。趣味は釣り。煙草は吸わず、酒もほとんど飲まない。 ドイツ語に堪能であることはよく知られているが、大統領任期期間中に英語も本格的に勉強をスタートし、 現在では各国首脳とも英語で会話している光景が見られる。

ベネディクト16世とともに強面で知られる著名人である。インターネット上では両者の人相を揶揄した画像が掲示板などに多数アップロードされている。また、他の単なる政治家とは比べ物にならない逞しい肉体や戦闘技術の高さ、高い指導力が目を引き、一部ネット上ではカルト的な人気がある。


[4.1] 暗殺未遂

プーチン大統領に対しては、過去3度暗殺が試みられたが、何れも事前に阻止されている。

2000年2月24日 - サンクト・ペテルブルグでのアナトリー・サプチャークの葬式時。ロシア連邦警護庁(FSB)によれば、チェチェン独立派が

背後に立つ某組織が計画した。「標準より際立った保安措置」により計画は阻止された。


2000年8月18日〜19日 - ヤルタでの非公式のCISサミット時。国外より情報がもたらされ、チェチェン人4人とアラブ人数人が拘束された。


2002年1月9日〜10日 - アゼルバイジャン、バクーの公式訪問時。アゼルバイジャン国家保安省により阻止。アフガニスタンで訓練を受け、

チェチェン独立派と関係を有するイラク人、キャナン・ロスタムが逮捕され、懲役10年を言い渡された。


[4.2] 発言一覧


2007

「テロリストは便所に追い詰めて肥溜めにぶち込んでやる」

「たとえ便所に逃げ込んでも息の根を止めてやる」

「英国の連中は脳を入れ替える必要がある」

「我々が戦っている相手は残酷な連中、人間に化けた獣だ」(チェチェン武装勢力に関して)

「もしあなたがイスラム過激派になりたくて割礼が必要ならモスクワに招待する。」
(2002年11月「チェチェン住民を抹殺しようというのか」というフランス記者の質問に対して。)

「あれは沈んだ。」(ロシアの原子力潜水艦クルスクが沈み、乗員118人が死亡した事件について)

「我々の敵はテロリストでなく、ジャーナリストだ。」(ロシア軍の略奪行為などを取り上げられたことについて)

「(金正日は)国をよい方向に変化させたいと望んでいる」2005年7月

「(温暖化のおかげで)毛皮コートを買う金も節約できる」

「国歌演奏中は行儀良くするように。歌詞を知らないなら、せめてガムを噛むなと選手に伝えて欲しい。」
(2004年サッカー欧州選手権・ロシア対スペイン戦開始前の国歌斉唱で)

「かわいくてついやってしまった。」(2006年07月、クレムリン宮殿の中庭で少年のシャツをめくって腹にキスするというスキャンダルを起こす。後にこう釈明)

「10人をレイプした強い男性でうらやましい。」(2006年10月、イスラエルのカツァブ大統領に関して。記者会見後、冗談のつもりで大統領府職員に語ったところ、偶然マイクの電源が切られておらず、声を拾われてしまう。後に報道官が釈明。)

「謝罪は1回すれば十分だ」

「バルト三国はロシアの小銭」

「ソ連が恋しくない者には心(心臓)がない。ソ連に戻りたい者には脳がない」


[5] 年譜

1952年、レニングラード(サンクトペテルブルク)に生まれる。

1975年よりKGBに勤務。KGBレニングラード局第1課(人事課)に配属。

1984年、KGB赤旗大学に入校。

1985年、東ドイツに派遣。ドレスデンのソ独友好会館館長をカバーとして、ソ連人学生を監督。

1990年、故郷レニングラードに戻り、国際問題担当レニングラード大学学長補佐官。

1991年12月、サンクトペテルブルグ市対外関係委員会議長。

1992年、中佐の階級で予備役編入。サンクトペテルブルク市副市長。

1994年3月、サンクトペテルブルク市第一副市長。

1996年6月、ロシア連邦大統領府総務局次長に就任し、中央政界に転じる。

1997年3月、ロシア連邦大統領府監督総局長。

1998年5月、ロシア連邦大統領府第一副長官。7月、ロシア連邦保安庁(FSB)長官。

1999年3月、FSB長官とロシア連邦安全保障会議書記を兼任。

1999年8月9日、エリツィン大統領により第一副首相に指名される(同日、ステパーシン首相が退陣したため、そのまま首相代行)。8月16日、首相。

同年12月31日、引退を宣言したエリツィンにより大統領代行に指名。

2000年3月26日、過半数の得票を受け大統領に当選。

2004年2月末-3月初、内閣を総辞職させミハイル・フラトコフを新首相に指名。

2004年3月14日、大統領に再選。

2005年12月、ヨーロッパ柔道連盟名誉会長に就任。

2007年9月12日、内閣を総辞職させヴィクトル・ズブコフを新首相に指名。



[6] 全世界サミット

2005年パースシャーサミットにロシアの歴代大統領として参加(前列右から二番目)


[7] 関連項目

東京急行 (ロシア空軍)

[8] 外部リンク

ロシア連邦大統領府公式サイト(ロシア語)

ロシア連邦大統領府公式サイト(英語版)

e-judo柔道家一覧 プーチン・ウラジーミル

ウィキメディア・コモンズには、ウラジーミル・プーチンに関連するマルチメディアがあります。


[9] 脚注

^ Re-ordering the world order,Gurdian と Russian Decision to Resume Bomber Patrols Aimed at Reviving Clout, CNS News

^ British Jets Intercept Russian Bomber Over North Atlantic,FOX News

先代:

ボリス・エリツィン ロシア連邦大統領

2000年 - 次代:
-

先代:

セルゲイ・ステパーシン ロシア連邦首相

1999年 - 2000年 次代:

ミハイル・カシヤノフ

先代:

ニコライ・ボルジュジャ ロシア連邦安全保障会議書記

1999年 次代:

セルゲイ・イワノフ

先代:

ニコライ・コヴァレフ ロシア連邦保安庁長官

1998年 - 1999年 次代:

ニコライ・パトルシェフ




G8の首脳
スティーヴン・ハーパー
ニコラ・サルコジ
ゴードン・ブラウン
アンゲラ・メルケル
ロマーノ・プローディ
福田康夫
ウラジーミル・プーチン
ジョージ・W・ブッシュ



"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3" より作成
カテゴリ: ロシアの政治家 | 1952年生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
JUGEMテーマ:政治家





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