スポンサーサイト

  • 2011.05.14 Saturday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


セパハンvs浦和レッドダイヤモンズの第1戦は1-1のドローに終わる

浦和レッドダイヤモンズ、引き分けですか。でも、アウエーですから価値ある
ドローとも言えるんでしょう。

次、決めれば!!
前半、先制ゴールを決める浦和のポンテ(7日、イラン・イスファハンで)前半、先制ゴールを決める浦和のポンテ(7日、イラン・イスファハンで)


浦和敵地でドロー、ポンテ価値ある一発…ACL決勝第1戦




【イスファハン(イラン)=軍地哲雄】サッカーのアジアチャンピオンズリーグ(ACL)は7日、イスファハンでホームアンドアウエー方式の

決勝第1戦が行われ、日本勢として初のACL制覇を狙う浦和は、同じく初優勝を目指すセパハン(イラン)と1―1で引き分けた。

 序盤から押され気味の浦和だったが、44分にポンテの強烈なミドルシュートで先制。後半開始直後の46分に同点とされ、

その後はセパハンの猛攻を受けたが、何とかしのいで、価値ある引き分けを手にした。第2戦は14日に埼玉スタジアムで行われ、

浦和は勝つか無得点の引き分けなら、優勝が決まる。

(2007年11月8日1時36分 読売新聞)

アーセナル ボルトンを降し7連勝で首位キープ

アーセナル、7連勝ですか・・・

アーセナルFC




アーセナルFC
原語表記 Arsenal Football Club
愛称 The Gunners
クラブカラー 赤と白
創設年 1886年
所属リーグ イングランドプロサッカーリーグ
所属ディビジョン プレミアリーグ
ホームタウン ロンドン
ホームスタジアム エミレーツ・スタジアム
収容人数 約60,000
代表者 ピーター・ヒル=ウッド
監督 アーセン・ベンゲル
公式サイト 公式サイト

アーセナル・フットボールクラブ (Arsenal Football Club) はイングランドの首都ロンドン北部に拠点を置くプロサッカークラブである。

愛称は「ガナーズ(Gunners)」。またアーセナルのサポーターのことを「グーナー」という。プレミアリーグに所属しており、イングランドで最も成功しているクラブのひとつに挙げられる。

しかし資金がそれほど豊富なクラブではないため、ビッグネームと言われる選手を他クラブから引き抜く事はあまりなく、16〜20歳前後の若手選手を獲得し育成する手法をよく採ることでも知られる。

また過去にはリーグ優勝13回、FAカップ優勝10回と多数のタイトルを勝ち取っている。しかし国内の実績に比して国外での実績に乏しいことから内弁慶と評されることも多い。

UEFAチャンピオンズリーグには毎年のように出場しながらも、2005/06シーズンまでベスト4以上に勝ち進んだことがなかったが、2005/06シーズンに初の決勝進出を果たした。

(アーセナル は この項目 アーセナルFC へ転送されています。その他の用例についてはアーセナル (曖昧さ回避)を ご覧ください。

目次

1 歴史とエピソード
1.1 近年の話題

2 スポンサー

3 タイトル
3.1 国内タイトル
3.2 国際タイトル

4 歴代使用スタジアム

5 現所属メンバー
5.1 ローン移籍選手
5.2 2007 - 2008シーズンの移籍

6 歴代監督

7 トリビア

8 関連項目

9 外部リンク



[編集] 歴史とエピソード

1949年から2002年に用いられていたロゴ1886年、ロンドン南東部においてダイアル・スクウェア(Dial Square)として創立。1891年Woolwich Arsenal(「-ich」の前に来るwは発音しないため、ウールウィッチではなくウリッチ・アーセナル)と改名。

ウリッチには(第一次大戦中、労働者8万人が働いていた)王立兵器工場があり、Arsenal=兵器工場(工廠)、Gunners=砲撃手はここに由来する。第一次世界大戦が勃発した1914年に現在の名称となった。

同じロンドンに拠点を置くクラブとしてチェルシー・チャールトンなどが挙げられるが、特に北ロンドンに本拠を構えるクラブ同士としてトッテナムとライバル関係にあるとされる。それをよく象徴するのが、かつて同クラブから移籍してきたソル・キャンベル(ポーツマスへ移籍)に対してスパーズファンから裏切者と呼ばれたという出来事である。

両チームの対戦は「ノースロンドン・ダービー」と呼ばれ、マンチェスター(マンチェスター・ユナイテッドvsマンチェスター・シティ)、マージーサイド(リバプールvsエバートン)と並び3大ダービーの中の一つに数えられている。


アーセナルは伝統的にフィジカルを前面に押し出した守備的な戦い方で知られており、90年代前半はフェイマス4と呼ばれたトニー・アダムス、スティーブ・ボウルド、ナイジェル・ウィンターバーン、リー・ディクソン(ボウルドのかわりにマーティン・キーオンを入れる説もある。また、フェイマス4にデイヴィット・シーマンを加えてフェイマス5、キーオンまで加えてビッグ6とよばれることもある)を中心とした堅固な守備を誇った。

また他チームのサポーターや、攻撃的サッカーを好む一般のマスコミからは「退屈で守備サッカーを展開するチーム」としてややもすると嘲笑の対象となっていた。

しかし96年のアーセン・ベンゲル監督就任後はこの伝統の守備的なチームカラーから一転、海外の選手を積極的に補強し華麗なパスワークを武器にした圧倒的な攻撃力を誇るチームへと生まれ変わり、世界中のファンを魅了している。

[編集] 近年の話題

2003-2004シーズンのFAプレミアリーグ優勝トロフィーを受け取るキャプテンのパトリック・ヴィエラ
現在の本拠地エミレーツ・スタジアム

エミレーツ・スタジアムのグラウンド2003-2004シーズンにはリーグ戦38試合26勝12分の成績で、1888-1889シーズンのプレストン・ノース・エンド以来、115年ぶりとなる無敗での優勝という快挙を達成した。

2005-2006シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは連続無失点試合の記録を更新し、スタッド・ド・フランス(パリ)で行われる決勝に初めて駒を進めたが、GKイェンス・レーマンの退場もあり、ロナウジーニョらを擁するバルセロナに2-1で敗れ準優勝に終わった。

アーセナルのホームスタジアムとして有名だったハイバリーは1913年に建設されたものであり、収容人数が約38500人と少なかったので、大きなスタジアムを作る必要があった。(収容人数が増えれば、それに比例して入場料も増えるため。)そして、2006年8月に近くのアシュバートン・グローブに建設された約6万人を収容可能なエミレーツ・スタジアムに移転した。

これはUAEの航空会社、エミレーツ航空が命名権を獲得したことによるもので、その契約内容は15年で1億ポンド(約200億円)と巨額なものとなっている。なお、使用されなくなったハイバリースタジアムの跡地にはスタンドの一部を残し高級アパートが建設される。

またピッチは中庭となり、そこがサッカースタジアムであったことを感じさせる雰囲気を残す。

4年に一度開催される世界最大のイベントであるワールドカップ・ドイツ大会にはこのチームから次の16選手が選出された。(以下のリストは2006年6月時点での所属選手)レーマン、アシュリー・コール、ソル・キャンベル、フィリップ・センデロス、コロ・トゥーレ、ヨハン・ジュルー 、エマヌエル・エブエ、フレドリック・リュングベリ 、フランセスク・ファブレガス、ジウベルト・シウバ 、セオ・ウォルコット、ホセ・アントニオ・レジェス、ロビン・ファン・ペルシー 、ティエリ・アンリ、エマニュエル・アデバヨールと2006年夏に加入したトマーシュ・ロシツキー。

また、数少ないアーセナルのイングランド人選手ウォルコットは弱冠17歳で同クラブでの公式戦出場がないにも関わらず選出され、イングランド国内外でサプライズ招集として注目を浴びたが出場する事はなかった。

2006-2007はゲーム開始時、ピッチ上にイングランド人選手がまったくいない試合が多く(同年以降、レギュラー格にはほとんどイングランド人選手がいない)、同国きっての強豪チームではあるがしばしイングランド国内において外国人偏重チームと非難されることが多い。

なおこの理由について、ベンゲル監督はアーセナルが若手有望株を多く登用する方針であることを指摘した上で「だがイングランドの若手選手を獲得しようとすると、他の国の選手に比べて値段が高い。

そうなれば他の国の選手に目を向けることが多くなるのは自然なことだ」とのコメントを残している。

U-19日本代表で中京大中京高校3年生FW伊藤翔が、2006年8月末に2度目のトライアルを受け、ミニゲームで5得点という成績が認められて、ベンゲル監督から『合格』の通知を受けた。

だが労働許可証の問題=A代表で一定の実績がない選手はイングランドで基本的にプロ契約を結べない規則があり、伊藤はフランスのグルノーブル・フット38へ加入した。

近年プレミアリーグのクラブを中心に外国人投資家による買収劇が相次いでいるが、ベンゲル監督はこうした一連の動きに対して警鐘を鳴らしている。

バッキンガム宮殿におけるエリザベス女王主催のお茶会にサッカークラブとして初めて招待された。

[編集] スポンサー
2006-2007シーズン

NIKE アメリカのスポーツ用品メーカー ユニフォームサプライヤー
Emirates UAEの航空会社
ITV イギリスの民間テレビ局
O2 plc イギリスの携帯電話会社
LG 韓国の会社
EDF ENERGY
Lucozade Sport
paddypower
BT
MasterCard アメリカのクレジットカード会社
Thomas Cook

[編集] タイトル

[編集] 国内タイトル
リーグ : 13回
1930-1931、1932-1933、1933-1934、1934-1935、1937-1938、1947-1948、1952-1953、1970-1971、1988-1989、1990-1991、1997-1998、2001-2002、2003-2004
FAカップ : 10回
1929-1930、1935-1936、1949-1950、1970-1971、1978-1979、1992-1993、1997-1998、2001-2002、2002-2003, 2004-2005
フットボールリーグカップ : 2回
1986-1987、1992-1993
コミュニティーシールド : 11回
1930年、1931年、1933年、1934年、1938年、1953年、1991年、1998年、1999年、2002年、2004年

[編集] 国際タイトル
UEFAカップウィナーズカップ : 1回
1993-1994
UEFAカップ : 1回
1969-1970

[編集] 歴代使用スタジアム
1885年8月1日 - 1887年7月31日:プラムステッド・コモン
1887年8月1日 - 1888年7月31日:スポーツマン・グラウンド
1888年8月1日 - 1890年7月31日:メイナー・グラウンド
1890年8月1日 - 1893年7月31日:インビクタ・グラウンド
1893年8月1日 - 1913年7月31日:メイナー・グラウンド
1913年8月1日 - 2006年5月07日:ハイベリー
現在のホームスタジアム

2006年7月22日 - エミレーツ・スタジアム
なお、UEFAチャンピオンズリーグの開催時はUEFAの規定により『アーセナル・スタジアム』の名称になる。


[編集] 現所属メンバー
2007年9月16日現在
No. Pos. 選手名
1 GK イェンス・レーマン
2 MF アブー・ディアビ
3 DF バカリ・サニャ
4 MF セスク・ファブレガス
5 DF コロ・トゥーレ
6 DF フィリップ・センデロス
7 MF トマーシュ・ロシツキー
8 MF ラッサナ・ディアッラ
9 FW エドゥアルド・ダ・シルバ
10 DF ウィリアム・ギャラス
11 FW ロビン・ファン・ペルシ
13 MF アレクサンドル・フレブ
15 MF デニウソン
16 MF マチュー・フラミニ
17 MF アレクサンドル・ソング
19 MF ジウベルト・シウバ
No. Pos. 選手名
21 GK ウカシュ・ファビアンスキ
22 DF ガエル・クリシー
24 GK マヌエル・アルムニア
25 FW エマニュエル・アデバヨール
26 FW ニクラス・ベントナー
27 DF エマニュエル・エブエ
30 DF アルマン・トラオレ
31 DF ジャスティン・ホイト
32 FW セオ・ウォルコット
34 MF キーラン・ギブス
36 MF マーク・ランドール
37 DF ポール・ロジャース
39 MF ヘンリ・ランスベリー
40 GK ヴィト・マンノーネ
41 DF ギャヴィン・ホイト
42 MF フラン・メリダ


監督
―アーセン・ベンゲル

[編集] ローン移籍選手
No. Pos. 選手名
–– DF マシュー・コノリー (at コルチェスター・ユナイテッド)
20 DF ヨハン・ジュルー (at バーミンガム・シティ)
–– DF ケリー・ギルバート (at サウスエンド・ユナイテッド)
–– MF ペドロ・シウヴァ (at サラマンカ)
–– FW ジェイ・シンプソン (at ミルウォール)
–– FW カルロス・ベラ (at オサスナ)



[編集] 2007 - 2008シーズンの移籍
in
GK ウカシュ・ファビアンスキ fromレギア・ワルシャワ
FW エドゥアルド・ダ・シルヴァ fromディナモ・ザグレブ, £16m
DF バカリ・サニャ fromオセール, undisclosed
MF ラッサナ・ディアッラ fromチェルシー, undisclosed
out
MF ファブリス・ムアンバ toバーミンガム, £4m
GK マルト・ポーム toワトフォード
FW ジェレミー・アリアディエール toミドルスブラ, undisclosed
FW ティエリ・アンリ toバルセロナ, £16m
FW アルトゥーロ・ルポリ toフィオレンティーナ, free
MF フレドリック・ユングベリ toウェストハム, £4m
FW ホセ・アントニオ・レジェス to アトレティコ・マドリード
January
in
out

[編集] 歴代監督

ハイバリーのハーバート・チャップマン胸像
アーセン・ベンゲル氏名 国籍 期間
サム・ホリス 1894 - 1897
トーマス・ミッチェル 1897 - 1898
ジョージ・エルコート 1898 - 1899
ハリー・ブラッドショー イングランド 01.08.1899 - 01.05.1904
フィル・ケルソー スコットランド 1904 - 1908
ジョージ・モレル スコットランド 1908 - 1915
レスリー・ナイトン イングランド 1919 - 1925
ハーバート・チャップマン イングランド 1925 - 1934
ジョー・ショー イングランド 1934
ジョージ・アリソン イングランド 1934 - 1947
トム・ウィットトーカー イングランド 1947 - 1956
ジャック・クレイトン イングランド 1956 - 1958
ジョージ・スウィンディン イングランド 1958 - 1962
ビリー・ライト イングランド 1962 - 1966
バーティー・ミー イングランド 1971 - 1972
テリー・ニール 北アイルランド 1966 - 1976
ドン・ホーウィー イングランド 16.12.1983 - 22.05.1986
スティーブ・バーテンショー イングランド 25.03.1986 - 14.05.1986
ジョージ・グレアム スコットランド 14.05.1986 - 21.02.1995
スチュワート・ホーストン スコットランド 21.02.1995 - 08.06.1995
ブルース・リオッホ スコットランド 08.06.1995 - 12.08.1996
スチュワート・ホーストン スコットランド 12.08.1996 - 16.09.1996
パット・ライス 北アイルランド 16.09.1996 - 30.09.1996
アーセン・ベンゲル フランス 30.09.1996 -


[編集] トリビア
1968年5月に来日し、日本代表チームと3試合をおこなった。アーセナルの3勝。釜本邦茂が出場している。

[編集] 関連項目
アーセナルFCの選手一覧
エミレーツ・スタジアム
FAプレミアリーグ
UEFAチャンピオンズリーグ
FAカップ
ハイベリー
アーセナルTV
アーセナルLFC

[編集] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズにアーセナルFCに関連するマルチメディアがあります。公式サイト
Arsenal - Premier League.com (英語)
Arsenal - UEFA.com (日本語)
Arsenal - BBC Sport (英語)
Arsenal - Sky Sport (英語)
ホームユニフォーム
アウェイユニフォーム



アーセナルFC - 現所属メンバー
1 レーマン | 2 ディアビ | 3 サニャ | 4 セスク・ファブレガス | 5 トゥーレ | 6 センデロス | 7 ロシツキー | 8 ディアッラ | 9 ダ・シルヴァ | 10 ギャラス | 11 ファン・ペルシ | 13 フレブ | 15 デニウソン | 16 フラミニ | 17 ソング | 19 ジウベルト | 21 ファビアンスキ | 22 クリシー | 24 アルムニア | 25 アデバヨール | 26 ベントナー | 27 エブエ | 30 トラオレ | 31 J・ホイト | 32 ウォルコット | 34 ギブス | 36 ランドール | 37 ロジャース | 39 ランスベリー | 40 マンノーネ | 41 G・ホイト | 42 メリダ

監督: ベンゲル





プレミアリーグ 2007-08 テンプレ ノート 編集

アーセナル• アストン・ヴィラ• バーミンガム・シティ• ブラックバーン・ローヴァーズ• ボルトン・ワンダラーズ• チェルシー• ダービー・カウンティ• エヴァートン• フラム• リヴァプール• マンチェスター・シティ• マンチェスター・ユナイテッド• ミドルスブラ• ニューカッスル・ユナイテッド• ポーツマス• レディング• サンダーランド• トッテナム・ホットスパー• ウェストハム・ユナイテッド• ウィガン・アスレティック


UEFAチャンピオンズリーグ 2007-08 テンプレ ノート 編集

アーセナル • バルセロナ • ベンフィカ • ベシクタシュ • セルティック • チェルシー • CSKAモスクワ • ディナモ・キエフ • フェネルバフチェ • インテル • ラツィオ • リバプール • リヨン • マンチェスター・ユナイテッド • マルセイユ • ミラン • オリンピアコス • ポルト • PSV • レンジャーズ • レアル・マドリード • ローマ • ローゼンボリ • シャルケ • セビージャ • シャフタール・ドネツク • スラビア・プラハ • スポルティング • ステアウア • シュツットガルト • バレンシア • ブレーメン








ヨーロッパ・ビッグクラブ連合体[表示]
G-14

アーセナル | アヤックス | インテル | バイエル・レバークーゼン | バイエルン・ミュンヘン | パリ・サンジェルマン | バルセロナ | バレンシア | PSVアイントホーフェン | ボルシア・ドルトムント | ポルト | マルセイユ | マンチェスター・ユナイテッド | ACミラン | ユヴェントス | リヴァプール | リヨン | レアル・マドリード


カテゴリ: イングランドのサッカークラブ | ロンドンのスポーツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

女子サッカーW杯 日本 アルゼンチンを破り初勝利

なでしこジャパン、初勝利、おめでとう!!

頑張れ!!


なでしこジャパンW杯 日本 アルゼンチンを破り初勝利





【9月14日 AFP】女子サッカー07W杯・グループA、日本vsアルゼンチン。試合は日本が1-0で勝利を収めた。

 イングランド戦で膝を負傷した荒川恵理子(Eriko Arakawa)を先発から外した日本は、グループ最下位のアルゼンチンから得点を奪うことができず迎えた後半ロスタイムに近賀ゆかり(Yukari Kinga)のシュートをアルゼンチンのGKが弾いた所に位置取っていた永里優季(Yuki Nagasato)が押し込み、決勝点を奪った。

 日本は17日に開幕戦を11-0で大勝したドイツと対戦する。

(c)AFP

(写真) 後半ロスタイムに決勝点を挙げて歓喜する日本の永里。(c)AFP/DDP/Mark RALSTON

▼関連記事▼

女子W杯サッカーA組でドイツ首位、日本の予選突破困難に


 【上海=畔川吉永】サッカーの女子ワールドカップ(W杯)第4日は14日にグループリーグの試合が行われ、A組で優勝候補のドイツはイングランドと無得点で引き分ける波乱。

 A組はドイツと同日アルゼンチンに勝った日本が勝ち点4となり、得失点差でドイツが首位に立った。日本は17日にドイツとの対戦を残しているため、グループリーグ突破は難しくなった。B組は北朝鮮がナイジェリアを破った。

(2007年9月15日11時14分 読売新聞)


サッカー日本女子代表(なでしこジャパン)とは



サッカー日本女子代表は日本サッカー協会(JFA)により組織される女子サッカーのナショナルチーム。「なでしこジャパン」という愛称が定着している。

日本女子代表はオリンピックには3大会中2回、FIFA女子ワールドカップには全5回とも出場している。とくにワールドカップについては男子代表よりも先に出場している。

目 次

1 名称

2 歴史
2.1 日本女子代表と国際大会

3 監督・コーチ
3.1 監督

4 女子ワールドカップの戦績
4.1 第1回FIFA女子世界選手権(1991年)
4.2 第2回FIFA女子世界選手権(1995年)
4.3 第3回FIFA女子世界選手権(1999年)
4.4 第4回FIFA女子ワールドカップ(2003年)
4.5 第5回FIFA女子ワールドカップ(2007年)

5 オリンピックの戦績
5.1 アトランタ大会(1996年)
5.2 シドニー大会(2000年)
5.3 アテネ大会(2004年)
5.4 北京大会(2008年)

6 AFC女子アジアカップ(AFC女子選手権)の戦績

7 アジア競技大会の戦績

8 FIFAランキング

9 キャップ・得点ランキング
9.1 キャップ
9.2 得点

10 関連項目

11 外部リンク



[1] 名称

男子代表が特定の愛称を持たないのに対して、女子代表では「なでしこジャパン」という愛称が定着している。

愛称制定というアイデアは日本サッカー協会(JFA)の女性スタッフからの提案がきっかけである。それは「『日本代表』では男子のイメージが定着しているが、オーストラリア女子代表が「Matildas(マチルダス)」という愛称で親しまれており、日本でも同様に愛称をつけてみるのがいいと思う。そしてこれを契機に女子代表の認知度を高め、女子サッカーの発展につなげたい。」というものであった。

このころJFAでも「女子サッカーの発展なくして日本サッカーの発展なし」との考えによりキャプテン・ヘッドクオーターズ(CHQ)で「女子サッカーの活性化」に積極的に取り組んでいたのでこのアイデアを採用することにした。

やがてこのことがマスコミに伝わり、のちに公募により制定となった。そして2004年5月14日にJFAから愛称募集が発表されると、翌5月15日から締切日の6月20日までに約2,700通の応募があり、2回の予備選考を経て7月5日の審査委員会による最終選考で愛称を「なでしこジャパン」と決定し7月7日に発表した。

審査委員長(以下肩書きは当時)
川淵三郎(財団法人日本サッカー協会キャプテン) 
審査委員
平田竹男(財団法人日本サッカー協会ジェネラルセクレタリー) 
大仁邦彌(財団法人日本サッカー協会女子委員長)
上田栄治(日本女子代表監督)
澤 穂希(日テレ・ベレーザ)
増島みどり(スポーツジャーナリスト)
この愛称は、アテネオリンピックのアジア予選として行われた「AFC女子サッカー予選大会2004」の際に「大和撫子」ということばがよく使われていたため、それをもとに「世界に羽ばたき、世界に通用するように」との願いを込めて「ジャパン」とした。

ちなみに次点(優秀賞)には、日本サッカー協会のシンボルである八咫烏(やたがらす、やたのからす)にちなんだ「ヤタガールズ」、ユニフォームの色(ブルー)とレディー(L)を組み合わせた「エルブルー」、ブルーと夢(ドリーム)を組み合わせた「ドリームブルー」があった。

愛称制定後、最初の試合となった7月30日のキリンチャレンジカップ・カナダ戦(国立霞ヶ丘競技場)では3-0で勝利し、全国にその名を印象づけた。

命名に際し、日本サッカー協会は「なでしこジャパン」を商標登録を申請し、2005年3月11日付けで登録された。また2004年新語・流行語大賞の候補60語にもノミネートされた。


[編集] 歴史
(詳細は日本の女子サッカーを参照のこと)
1960年代から70年代に掛けて、日本ではサッカー競技を行う女性が増え始め、やがて全国各地にチームが誕生すると各地域ごとに小規模なリーグによる対戦が行われるようになった。

1980年には全日本女子サッカー選手権大会が始まり、翌1981年ごろから日本女子代表チームとして海外チームとの試合が行われるようになる。当初は各地域の選手ごとに編成された「選抜チーム」を臨時に任用された監督が指揮するというものであったが、1986年に鈴木良平が初の女子代表専任監督に就任すると、日本全国のチームを対象とする「全日本」チームが編成されるようになる。そして1989年には女子の全国リーグである「日本女子サッカーリーグ(L・リーグ)」が誕生し、1991年の第1回FIFA女子世界選手権・中国大会にも参加した。


[編集] 日本女子代表と国際大会
女子サッカーがオリンピック種目となったのは1996年のアトランタ大会からである。当時は前年に行われた第2回FIFA女子世界選手権・スウェーデン大会の上位8カ国に出場権が与えられたが、日本はグループリーグでドイツに 0-1 、ブラジルに 2-1 、スウェーデンに 0-2 の成績を収め、かろうじてベスト8入りし出場権を獲得。しかし本大会ではグループリーグでドイツに 2-3 、ブラジルに 0-2 、ノルウェーに 0-4 と3戦全敗に終わり決勝リーグ突破はできなかった。

だがJFAは、次に行われるシドニーオリンピック(2000年)に照準をあわせ、1994年から23歳以下(U-23)の選手による「シドニープラン」により女子代表の強化を図っていたため、この成績に満足したのではと思われる。

ところが現実には思惑通りに行かなかった。前回同様に五輪予選を兼ねて行われた第3回FIFA女子世界選手権・アメリカ大会で日本女子代表は、初戦にカナダと 1-1 と引き分けたものの、つづくロシアに 0-5 、ノルウェーに 0-4で敗戦。ベスト8入りを逃したため、目標としていたシドニー五輪出場を逃す。すると女子サッカーへの関心は瞬く間に低下し、L・リーグの観客動員は急速な落ち込みをみせることになる。やがてそれはL・リーグからの相次ぐチームの脱退を引き起こし、日本の女子サッカーは衰退の危機に瀕することになった。

2002年8月、マカオ男子代表の監督を務めていた上田栄治(もとベルマーレ平塚監督)を代表監督に起用。女子サッカーの再起を期するべく2004年アテネオリンピックに向けたチーム再編を図った。しかし就任当初は敗戦つづきで、とくに2003年の第4回FIFA女子ワールドカップ(「FIFA女子世界選手権」改め)・アメリカ大会のアジア地区予選を兼ねて6月にタイのバンコク行われた「第14回アジア女子選手権」では3位決定戦で格下の韓国にまさかの敗戦を喫してしまい、本戦最後の座を賭けてメキシコ(北中米カリブ海地区)との「FIFA女子ワールドカップUSA2003予選 プレーオフ」(ホーム・アンド・アウェー方式)に進出することになった。7月5日にメキシコのアステカスタジアムで行われた第1戦は、観客10万人のほとんどが地元・メキシコを応援する状況で、しかも慣れない高地ゆえに多くの選手が体調不良という状態のなかで 2-2 の引き分けとした。そして7月12日に国立霞ヶ丘競技場で行われた第2戦では当時の日本女子サッカーで最多となる12743人の観客を集め、澤穂希と丸山桂里奈のゴールにより 2-0 で勝利し出場権を獲得した。この二戦により得た「薄氷の勝利」は新聞、テレビなど各マスメディアにも大きく取り上げられ、結果として女子サッカーに注目が再び集まるきっかけとなったのである。9月に行われた本大会ではアルゼンチン戦でFW大谷未央がハットトリックを決めるなど 6-0 で勝利したものの、ドイツに 0-3 で敗戦。つづくカナダ戦は先制しながらも 1-3 でグループリーグ敗退となった。

これらに基づき、上田栄治監督はDFラインを3バックから4バックに変更するなどのチーム再編を積極的に行った。アテネ五輪では出場チーム数が10に拡大したため、アジア地区は出場枠2カ国をめぐっての地区予選「AFC女子サッカー予選大会2004」を日本で実施。3グループに分かれての一次リーグではベトナムを 7-0、タイを 6-0 で降し、つづく決勝トーナメントでは強豪国である北朝鮮を圧倒的不利の予想を覆す 3-0 で降し、韓国を降した中国とともに2度目の五輪出場を果たした。北朝鮮戦では観客31324人を集め、女子サッカーでの記録を更新。テレビ朝日系列での放送視聴率も関東エリアでは平均視聴率16.3%、最高瞬間視聴率(放送終了直前の午後9時16分)は関東地区で31.1%、関西地区で23.0%であった。これは北朝鮮とはそれまで1勝1分け7敗というデータとオリンピック出場が決定する試合であるとの情報が事前に大きく宣伝されていたことも一因ではないかと思われる。

アテネ五輪本大会では3グループに分かれての予選リーグにおいて優勝候補のひとつ、スウェーデンを 1-0 で破る活躍を見せた。つづくナイジェリア戦では0-1で敗れたものの、他グループ3位との総得点差で決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント初戦では、こちらも優勝候補のアメリカ代表と対戦し 1-2 で敗退し、ベスト8に終わったが、3試合を通して警告(イエローカード)・退場(レッドカード)が0ということにより「フェアプレー賞」を受賞した。

これら一連の活躍により日本国内での女子サッカーに対する認知度が高まり、国内のトップリーグである日本女子サッカーリーグ(略称:L・リーグ)の人気も上昇し観客が飛躍的に増加。とくに五輪後には「なでしこリーグ」という愛称も採用され、ますます注目を浴びる存在になっている。さらに「なでしこ」という名称を用いた女性向けのサッカー教室や大会、そして2005年から「なでしこスーパーカップ」も開かれ、女子サッカーのブランド名として活用されるようになった。

2004年10月、日本サッカー協会は前月に退任した上田栄治の後任に大橋浩司を新監督として任命した。11月から代表合宿を行い、12月18日のキリンチャレンジカップで台湾(チャイニーズタイペイ)と対戦。11-0という大量得点に加え、被シュート0という内容で上々のスタートを切った。なおこの試合のチラシやプログラム、応援用のブルーシートにはナデシコの花をイメージした模様がはじめて描かれた。

一方、ユニバーシアード女子日本代表は、ユニバーシアードにおいて2003年大邱大会で銀メダル、2005年イズミル大会で銅メダルを獲得した。また、イズミル大会では監督に本田美登里(岡山湯郷Belle(L・リーグ)監督)を任命。日本では各年代を通じて初の「女性代表監督」であり、銅メダル獲得により女性サッカー指導者もレベルアップしていることが証明された。

2006年にカタールの首都・ドーハで行われた第15回アジア競技大会では、阪口夢穂、永里優季という新戦力が活躍し、グループリーグで強豪の中国を破り決勝トーナメント進出。最後は決勝で同じく強豪の北朝鮮にスコアレスでPK戦まで持ち込んだものの敗れ、準優勝となった。


[編集] 監督・コーチ

[編集] 監督
鈴木良平(1986年 - 1989年)
鈴木保(1989年 - 1996年・1999年)
宮内聡(1997年 - 1999年)
池田司信(2000年 - 2001年)
上田栄治(2002年 - 2004年)
大橋浩司(2004年 - )
なお1981年6月と9月に市原聖曠が、1984年10月に折井孝男が監督を務めたが、大会ごとに選抜チームを率いての就任のため歴代監督には含まれない。


[編集] 女子ワールドカップの戦績
(詳細は「FIFA女子ワールドカップ」を参照)


[編集] 第1回FIFA女子世界選手権(1991年)
(詳細は「1991 FIFA女子ワールドカップ」を参照)

開催期間:11月16日~30日
開催地:中華人民共和国
グループリーグB組4位(4チーム) 3戦0勝0分3敗
11月17日 ×0-1 ブラジル
11月19日 ×0-8 スウェーデン
11月21日 ×0-3 アメリカ合衆国

[編集] 第2回FIFA女子世界選手権(1995年)
(詳細は「1995 FIFA女子ワールドカップ」を参照)

開催期間:6月5日~18日
開催地:スウェーデン
グループリーグA組3位(4チーム) 3戦1勝0分2敗
決勝トーナメント 準々決勝敗退(ベスト8):決勝リーグ進出によりアトランタオリンピック出場権獲得
6月5日 ×0-1 ドイツ
6月7日 ○2-1 ブラジル  (得点:野田朱美2点)
6月9日 ×0-2 スウェーデン
6月13日 ×0-4 アメリカ合衆国

[編集] 第3回FIFA女子世界選手権(1999年)
(詳細は「1999 FIFA女子ワールドカップ」を参照)

開催期間:6月19日~7月10日
開催地:アメリカ合衆国
グループリーグC組4位(4チーム)3戦0勝1分2敗:グループリーグ敗退によりシドニーオリンピック出場ならず
6月19日 △1-1カナダ  (得点:大竹奈美)
6月23日 ×0-5ロシア
6月26日 ×0-4ノルウェー

[編集] 第4回FIFA女子ワールドカップ(2003年)
(詳細は「2003 FIFA女子ワールドカップ」を参照)

開催期間:9月20日~10月12日
開催地:アメリカ合衆国
グループリーグC組3位(4チーム) 3戦1勝0分2敗
9月20日 ○6-0アルゼンチン  (得点:大谷未央3点、澤穂希2点、山本絵美)
9月24日 ×0-3ドイツ
9月27日 ×1-3カナダ  (得点:澤穂希)

[編集] 第5回FIFA女子ワールドカップ(2007年)
この節には、現在進行中のことを扱っている文章が含まれています。
(詳細は「2007 FIFA女子ワールドカップ」を参照)

開催期間:9月10日~9月30日
開催地:中華人民共和国
グループリーグA組(4チーム)
9月11日 イングランド 上海虹口体育場(Shanghai Hongkou Football Stadium)
9月14日 アルゼンチン 上海虹口体育場(Shanghai Hongkou Football Stadium)
9月17日 ドイツ    杭州黄龍体育場(Hangzhou Dragon Stadium)

[編集] オリンピックの戦績
(関連項目:サッカー競技 (夏季オリンピック))
女子サッカーがオリンピックに登場するのは1996年のアトランタ大会から。この年から男子は23歳以下(U-23)の「オリンピック代表」の大会となったが、女子はフル代表が参加する。

アトランタ大会とシドニー大会は前年に行われたFIFA女子世界選手権(FIFA女子ワールドカップ)の上位8チームが参加。アテネ大会は10チーム、北京大会は12チームに参加枠が増え、各地区で予選が行われた。


[編集] アトランタ大会(1996年)
(詳細はアトランタオリンピックにおけるサッカー競技及びアトランタオリンピック日本選手団参照)

開催期間:7月21日~8月1日
7月21日 × 2-3 ドイツ  (得点:木岡二葉、野田朱美)
7月23日 × 0-2 ブラジル
7月26日 × 0-4 ノルウェー
 予選リーグ敗退


[編集] シドニー大会(2000年)
開催期間:9月13日~28日
第3回女子世界選手権の成績により参加できず

[編集] アテネ大会(2004年)
(詳細はアテネオリンピック (2004年) におけるサッカー競技及びアテネオリンピック (2004年) 日本選手団参照)

開催期間:8月11日~26日
予選リーグ(E組)
8月11日 ○ 1-0 スウェーデン  (得点:荒川恵理子)
8月14日 × 0-1 ナイジェリア
決勝トーナメント
8月20日(準々決勝)× 1-2 アメリカ  (得点:山本絵美)

[編集] 北京大会(2008年)
この節には、現在進行中のことを扱っている文章が含まれています。
(詳細は北京オリンピックにおけるサッカー競技及び北京オリンピック日本選手団参照)

開催期間:8月8日~24日

[編集] AFC女子アジアカップ(AFC女子選手権)の戦績
(関連項目:AFC女子アジアカップ)

1975 : 参加せず
1977 : 参加せず
1979 : 参加せず
1984 : グリープリーグ敗退
1983 : 参加せず
1986 : 2位
1989 : 3位
1991 : 2位
1993 : 3位
1995 : 2位
1997 : 3位
1999 : 4位
2001 : 2位
2003 : 4位
2006 : 4位

[編集] アジア競技大会の戦績
(関連項目:アジア競技大会におけるサッカー競技)

1990 : 準優勝
1994 : 準優勝
1998 : 3位
2002 : 3位
2006 : 準優勝

[編集] FIFAランキング
2003年から公表。現在は原則として3ヶ月ごとに発表される
(参考:FIFA女子ランキング)

発表年月日 順位 変動 AFC内
ランク 変動
2003年7月16日 14位 -- 3位 --
2003年8月29日 14位 → 3位 →
2003年10月24日 14位 → 3位 →
2003年12月15日 14位 → 3位 →
2004年3月15日 14位 → 3位 →
2004年6月7日 13位 ↑ 3位 →
2004年8月30日 13位 → 3位 →
2004年12月20日 13位 → 3位 →
2005年3月25日 12位 ↑ 3位 →
2005年6月24日 11位 ↑ 3位 →
2005年9月16日 11位 → 3位 →
2005年12月21日 11位 → 3位 →
2006年3月17日 11位 → 3位 →
2006年5月19日 13位 ↓ 3位 →
2006年9月15日 13位 → 3位 →
2006年12月22日 10位 ↑ 3位 →
2007年3月16日 9位 ↑ 2位 ↑
2007年6月15日 10位 ↓ 2位 →


[編集] キャップ・得点ランキング
2007年8月4日現在:(#)は現役


[編集] キャップ
位 名前 キャップ数 期間
1 澤穂希(#) 124 1993-
2 酒井與恵(#) 104 1997-
3 磯浩美(#) 101 1997-
4 大部由美 85 1991-2004
5 高倉麻子 79 1983-1996
5 山郷のぞみ(#) 79 1997-
7 野田朱美 76 1984-1996
7 半田悦子 76 1981-1996
7 木岡二葉 76 1981-1996
10 大谷未央(#) 66 2000-


[編集] 得点
位 名前 得点数 キャップ数 期間
1 澤穂希(#) 64 124 1993-
2 長峯かおり 48 64 1983-1996
3 大谷未央(#) 32 66 2000-
4 大竹奈美 30 45 1992-2000
4 木岡二葉 30 76 1981-1996


[編集] 関連項目
日本サッカー協会
サッカー日本代表
FIFA女子ランキング
FIFA女子ワールドカップ
サッカー競技 (夏季オリンピック)
サッカー競技 (ユニバーシアード)
AFC女子アジアカップ
アジア競技大会におけるサッカー競技
FIFA U-20女子ワールドカップ
日本女子サッカーリーグ(L・リーグ/なでしこリーグ)
全日本女子サッカー選手権大会
女子サッカー
Gatas Brilhantes H.P.(交流チーム)

[編集] 外部リンク
女子サッカーサイト - 日本サッカー協会による公式ページ。

日本のサッカー テンプレ ノート 編集

国内協会 : 日本サッカー協会:(社)Jリーグ
国内リーグ : Jリーグ | JFL | 地域リーグ | 都道府県リーグ | 大学サッカー | 高校サッカー | なでしこリーグ
ナショナルチーム : 日本代表 | 五輪日本代表 | U-20日本代表 | U-17日本代表 | 女子日本代表


サッカー・ナショナルチーム(女子)
アジア:AFC
オーストラリア | シンガポール | タイ | 韓国 | チャイニーズタイペイ | 中国 | 北朝鮮
日本 | フィリピン | ベトナム | 香港

アフリカ:CAF
アルジェリア | エジプト | ガーナ | カメルーン | ナイジェリア | 南アフリカ共和国

南米:CONMEBOL
アルゼンチン | ウルグアイ | エクアドル | パラグアイ | ブラジル

北中米カリブ海:CONCACAF
アメリカ | カナダ | ジャマイカ | メキシコ

オセアニア:OFC
ニュージーランド

欧州:UEFA
アイルランド | イタリア | イングランド | オーストリア | オランダ | スウェーデン | スペイン
デンマーク | ドイツ | ノルウェー | フィンランド | フランス | ロシア



カテゴリ: 節現在進行 | サッカー日本代表 | 日本サッカー協会 | 日本の女子サッカー | 女子サッカーのナショナルチーム | スポーツの日本代表チーム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


バルセロナ 横浜F・マリノスを降しアジアツアー2連勝



【8月7日 AFP】サッカー・親善試合、横浜F・マリノス(Yokohama F Marinos)vsFCバルセロナ(FC Barcelona)。試合はFCバルセロナが1-0で横浜F・マリノスを降した。

 FCバルセロナは、後半30分にサミュエル・エトー(Samuel Eto’o)からのパスを受けたジオバンニ・ドスサントス(Giovanni Dos Santos)がゴールを決めて、アジアツアー2連勝を飾った。

 試合を終えたフランク・ライカールト(Frank Rijkaard)監督は、「長旅と時差ぼけで身体的に難しかったが、我々はそれを克服した。攻撃陣がプレッシャーをかけ勝利した。北京国安(Beijing Guoan)戦よりいいプレーをしたと思う」と語った。

 FCバルセロナは新たに加入したティエリ・アンリ(Thierry Henry)が、サミュエル・エトーやロナウジーニョ(Ronaldinho)と共に前半の45分間をプレーした。アンリに関してライカールト監督は、「アンリは長旅にもかかわらずリズムよくプレーしていた。彼のプレーには満足している」と語った。

 マン・オブ・ザ・マッチに輝いたジオバンニ・ドスサントスは、「ロナウジーニョやアンリやエトーを抑えて、なぜマン・オブ・ザ・マッチになったのか分からない。彼らは偉大な選手です、彼らのレベルに追いつくのは難しいことです。2007-08シーズンはできるだけ多くのタイトルを獲得できるようにチームの勝利に貢献し、また勝利のために最善を尽くしたい」と語った。(c)AFP

(写真)ゴールを喜ぶFCバルセロナのジオバンニ・ドスサントス。(c)AFP/KAZUHIRO NOGI


ジョバニ・ドス・サントスとは



ジョバニ・ドス・サントス
名前
愛称
カタカナ ジョバニ・ドス・サントス
ラテン文字表記 Giovani DOS SANTOS
基本情報
国籍 メキシコ
誕生日 1989年5月11日
出身地 モンテレー
身長 170cm
体重 71kg
選手情報
在籍チーム FCバルセロナB
ポジション CF、MF
背番号 -
利き足 左足


ジョバニ・ドス・サントス(Giovani DOS SANTOS, 1989年5月11日 - )はメキシコ出身のサッカー選手。ポジションはセンターフォワード。よく「ジオバンニ・ドス・サントス」などと言われるが、名前は「Giovanni」ではなく「Giovani」。

2005FIFA U-17世界選手権(当時)ペルー大会においてブラジルを破っての優勝に導いたメキシコのホープ。潜在能力はロナウジーニョ並みとも言われ、特に左足のテクニックは素晴らしいものを持っている。将来のスーパースター候補である。

1980年代から1990年代にかけてメキシコのクラブで活躍したブラジル人選手ジジーニョ(ジェラルド・ドス・サントス)の次男としてメキシコで生まれた。ちなみに弟のジョナサン・ドス・サントスもバルセロナの下部組織に所属しており、現在は一家揃ってスペインに住んでいる。

2006年の練習試合AGFオーフス戦にてトップチームに先発デビューし、ロナウジーニョを髣髴とさせる小気味良いドリブルから2人を抜き去って1ゴールを決める活躍を見せている。また、同年に行われたFIFAクラブワールドカップにも帯同するなど、期待の高さが窺われる。

2007年に行われたFIFA U-20ワールドカップ2007ではメキシコ代表のエースとして3得点を挙げる活躍をした。チームは優勝候補とされたものの、同じく優勝候補の、セルヒオ・アグエロを擁するアルゼンチンに準々決勝で競り負けた(アルゼンチンはその後順調に勝ち進み、優勝している)。

前述のFIFAクラブワールドカップやU-20ワールドカップの際に注目の選手としてメディアが取り上げたことから、日本のサッカーファンの間では既にかなりの知名度を得ている。


[1] 所属クラブ

FCバルセロナB(スペイン) 2002-


[2] 経歴

2005FIFA U-17世界選手権(当時)ペルー大会 優勝 シルバーボール賞、アシスト王受賞


[3] 外部リンク

Giovani DOS SANTOS Official Web

--------------------------------------------------------------------------------

この項目は、ウィキプロジェクト サッカー選手の「テンプレート」を使用しています。


この「ジョバニ・ドス・サントス」は、サッカー選手に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆、訂正などして下さる協力者を求めています。(P:サッカー/PJサッカー選手)

カテゴリ: サッカー選手に関するスタブ項目 | メキシコのサッカー選手 | FCバルセロナの選手 | 1989年生
(ジオバンニ・ドス・サントス から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


FCバルセロナとは



FCバルセロナ
原語表記 Fútbol Club Barcelona
愛称 Barça、Azulgrana、Blaugrana、Culers
クラブカラー 青とえんじ
創設年 1899年
所属リーグ リーガ・エスパニョーラ
所属ディビジョン プリメーラ・ディビシオン
ホームタウン バルセロナ
ホームスタジアム カンプ・ノウ
収容人数 98,787
代表者 ジョアン・ラポルタ
監督 フランク・ライカールト
公式サイト 公式サイト

FCバルセロナ(Futbol Club Barcelona)は、スペイン・バルセロナを本拠地とするサッカークラブチームである。

目 次

1 概要
2 歴史
3 ユニフォーム
4 タイトル
4.1 国内タイトル
4.2 国際タイトル
5 近年の成績
6 歴代スタジアム
7 現所属メンバー
7.1 バスケットボール
7.1.1 06/07の所属選手
8 歴代監督
9 歴代会長
10 歴代所属選手
10.1 GK
10.2 DF
10.3 MF
10.4 FW
11 歴代バロンドール受賞選手
12 歴代得点王
13 歴代サモラ賞受賞者
14 関連項目
15 外部リンク



[編集] 概要

カンプ・ノウでの試合
欧州CL 2005-06優勝パレード1899年創設。愛称は「バルサ(Barça)」、またはクラブカラーから「ブラウ・グラーナ(Blau Grana)」。数々のタイトルを獲得したヨーロッパでも屈指のビッグクラブ、名門クラブであり、政治的背景などからレアル・マドリードとは長年のライバルである。そのため同じマドリードをライバルとするアトレティコ・マドリードとは良好な関係である。

「クラブ以上の存在(Més Que Un Club)」がクラブのスローガンであり、ユニフォームの後襟にもこの言葉がプリントされている。

リーガ創立以来2部以下に落ちたことがなく、これは他にレアル・マドリードとアスレティック・ビルバオのみである。また、同じバルセロナを本拠地とするエスパニョールとの試合は、カタルーニャ・ダービーと呼ばれる。サッカーのみならず政治的・地域的に長年の対立関係にある首都マドリードのレアル・マドリードとの試合はエル・クラシコ(El Clásico)と呼ばれ、100年近く因縁の対決を続けており、スペイン国内だけでなく世界的にも注目度の高いイベントである。ホームスタジアムはカンプ・ノウ。

一般に多くのサッカークラブではユニフォームに出資(協賛)スポンサーのロゴを入れているが、FCバルセロナは一般市民などからの会費(ソシオ)で運営していることから、ユニフォームにスポンサーのロゴを入れていないのもチームの伝統となっている。2005年には北京オリンピック組織委員会からユニフォームロゴ掲出依頼のオファーを受けていたが、立ち消えとなっている。なお2006-2007シーズンからは児童福祉活動への支援という観点から、ユニセフと無報酬で5年契約を結ぶことで合意し、他クラブのそれとはかなり位置付けが違うものの、2006年9月12日から史上初めて胸にユニセフロゴを入れたユニフォームを着用している。ソシオの会員は現在世界中で14万に達している。日本でも、2004年6月より日本でのソシオ会員の募集が行われている。

「攻撃的でスペクタクルなフットボール」をクラブのアイデンティティとしており、試合に勝ったとしてもその内容が守備的でつまらないとサポーターから容赦ないブーイングが浴びせられる。このような習慣はスペインほぼ全てのクラブに存在するが、バルセロナは特にこれが顕著。結果よりも内容の価値が遥かに大きい点でこのクラブは"異常"な存在であるとも言える。

「カンテラ」と呼ばれる下部組織が非常に発達しており、数々の名選手が輩出されている。また、カンテラ出身の選手はサポーターから絶大な声援を受ける。

バスケットボール、ハンドボール、ローラーホッケーのチームもある。

エクアドルのサッカークラブ、バルセロナSCはバルセロナからの移民がエクアドルのグアヤキルで設立したもので、クラブ自体には何の繋がりも無い。ただ、エンブレムは非常に似ており、FCバルセロナも親善試合を行ったことがある。


[編集] 歴史
1899年にスイス人実業家ハンス・カンパーら11名により創立。チームカラーは、FCチューリッヒから由来する。初代会長はイギリス人のウォルター・ワイルドである。

1929年から続くリーガ・エスパニョーラの初代王者である。

レアル・マドリードとの対戦はエル・クラシコと呼ばれ、1902年の第1回スペイン国王杯から因縁の対決(3-1でバルセロナの勝利)を続けている。その背景には、プリモ・デ・リベラ将軍による独裁政権時代(1923年-1930年)とフランコ独裁政権時代(1939年-1975年)のカタルーニャ弾圧がある。当時、カタルーニャの人々は自分たちの言葉・カタルーニャ語を話す事が許されず、カンプ・ノウの中でだけそれが許された。これによりスペインサッカー界の軸は、バルセロナとアスレティック・ビルバオからフランコの支援をうけたレアル・マドリードへと移った。この時代、主力のホセ・サミティエール がレアル・マドリードに移籍したが、これは後にベルント・シュスター、ミカエル・ラウドルップ、ルイス・フィーゴと続く“裏切り”と呼ばれるバルセロナからレアル・マドリードへの最初の移籍である。また逆にルイス・エンリケは、レアル・マドリードからバルセロナに移籍した選手である。選手の引き抜きにおいてもレアル・マドリードとは因縁があり、アルフレッド・ディ・ステファノ、ヨハン・クライフらを巡って争奪戦を繰り広げた。

1988年から1996年にかけて、ヨハン・クライフ監督時代にチームは、その豪華なメンバーと強さからエル・ドリーム・チームと呼ばれ、リーガ4連覇・UEFAチャンピオンズリーグ初制覇を果たす。

その後、1990年代末から2000年代初頭にかけては成績が低下。タイトルから遠ざかる時期が続いた。2000年には、チームの主力であるルイス・フィーゴがバルセロナからレアル・マドリードに移籍した際に激しい反発を呼び、カンプ・ノウでの試合では激しいブーイングと物の投げ込みにより、一時試合が中断される騒ぎとなった。2003年、フランク・ライカールトが監督に就任し、2005年にリーグ優勝。2006年にリーグ連覇。さらには2度目のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を達成する。ただし、対アーセナルの決勝ではそれまで大会を通じて無失点と絶好調だったアーセナルGKイェンス・レーマンが完全に抜け出したエトーをPA外で手を引っ掛けて倒しレッド・カード受けたが(後に主審が「プレーをそのまま流してジュリのゴールを認めてレーマンにはイエロー・カードでもよかったかもしれない」と語った)、その後も明らかなエブエのダイブから得たFKからアーセナルの先制ゴール、オフサイドにも見えるエトーの同点ゴールを認めるなど、勝ったバルサ側、負けたアーセナル側両方から少なからず審判の判定に批判の声がある。

2006年7月21日、「ラポルタは任期切れである」との反対派陣営からの訴えをバルセロナ地裁が認めたため、この判決を受けてラポルタは26日に会長職を辞任、新たに会長選挙が行われる事となった。しかし、サッカー部門の成績やクラブ財政再建も上々で仕事ぶりに異を唱える声は少なく、結局他の立候補者がなかったため自動的に再任された。


[編集] ユニフォーム
この節は、書きかけです。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
ユニフォームの色 カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 青とえんじ 青 青
FP(2nd) オレンジ オレンジ オレンジ
GK(1st)
GK(2nd)




 
FP 1st



 
FP 2nd





 
GK 1st



 
GK 2nd


06/07シーズン開始当初はスポンサーロゴ無しのユニフォームを使用していたが、ユニセフとの契約がまとまった後は全ての公式戦でユニセフロゴが刺繍されたものを使用している。ロゴ本来の色は白であるが、そのクラブ事情ゆえにホームは黄色、アウェイは水色のロゴになった。
2005-2006シーズンのファーストユニフォームのパンツはえんじ色だった。
セカンドユニフォームの配色は毎年異なる。2005-2006シーズンはシャツがピスタチオグリーン(蛍光色)、パンツが紺色、2004-2005シーズンはシャツが青色と紺色の縦ストライプだった。
昨季の2ndユニフォームはサードユニフォームとして使用される。
バスケットボールなど、サッカー以外のチームでも青色とえんじ色の縦ストライプのユニフォームを用いている。こちらはフットボール部門とは違い、既に商業的な胸スポンサーロゴ契約が結ばれている。

[編集] タイトル

[編集] 国内タイトル
スペインリーグ : 18回
1928-1929、1944-1945、1947-1948、1948-1949、1951-1952、1952-1953、1958-1959、1959-1960、1973-1974、1984-1985、1990-1991、1991-1992、1992-1993、1993-1994、1997-1998、1998-1999、2004-2005、2005-2006
スペインカップ : 24回
1909-1910、1911-1912、1912-1913、1919-1920、1921-1922、1924-1925、1925-1926、1927-1928、1941-1942、1950-1951、1951-1952、1952-1953、1956-1957、1962-1963、1967-1968、1970-1971、1977-1978、1980-1981、1982-1983、1987-1988、1989-1990、1996-1997、1997-1998
スペインリーグカップ : 2回
1982-1983、1985-1986
スペインスーパーカップ : 7回
1984年、1992年、1993年、1995年、1997年、2005年、2006年

[編集] 国際タイトル
UEFAチャンピオンズリーグ : 2回
1991-1992、2005-2006
UEFAカップウィナーズカップ : 4回
1978-1979、1981-1982、1988-1989、1996-1997
UEFAカップ : 3回(フェアーズ・カップ優勝含む)
1955-1958、1958-1960、1965-1966
UEFAスーパーカップ : 2回
1992年、1997年
ラテン・カップ : 2回
1949年、1952年

[編集] 近年の成績
2001-2002 リーガ・エスパニョーラ 4位 コパ・デル・レイ 初戦敗退 UEFACL ベスト4
2002-2003 リーガ・エスパニョーラ 6位 コパ・デル・レイ 初戦敗退 UEFACL ベスト8
2003-2004 リーガ・エスパニョーラ 2位 コパ・デル・レイ ベスト8 UEFA杯ベスト16
2004-2005 リーガ・エスパニョーラ 優勝 コパ・デル・レイ 初戦敗退 UEFACL ベスト16
2005-2006 リーガ・エスパニョーラ 優勝 コパ・デル・レイ ベスト8 UEFACL 優勝
2006-2007 リーガ・エスパニョーラ 2位 コパ・デル・レイ ベスト4 UEFACL ベスト16 クラブW杯準優勝

[編集] 歴代スタジアム
カレル・インダストリア 1908 - 1922
レス・コルツ 1922 - 1957
カンプ・ノウ 1957 - 現在

[編集] 現所属メンバー
Pos. 背番号 国籍 選手名(日本語表記) 選手名(原語表記) 前所属チーム 備考
監督   フランク・ライカールト Franklin Edmundo Rijkaard スパルタ・ロッテルダム  
助監督   ヨハン・ニースケンス Johannes Jacobus Neeskens オーストラリア代表(コーチ)  
GK 1 ビクトール・バルデス Victor Valdes Arribas FCバルセロナB
  25 アルベルト・ジョルケラ Albert Fortia Jorquera FCバルセロナB
  28 ルーベン・マルティネス Ruben Ivan Martinez Andrade FCバルセロナB  
DF 2 ジュリアーノ・ベレッチ Juliano Haus Beletti ビジャレアル 国籍あり
  4 ラファエル・マルケス Rafael Marquez Álvarez モナコ 国籍あり
  5 カルレス・プジョル Carles Puyol Saforcada FCバルセロナB  カピタン
  11 ジャンルカ・ザンブロッタ Gianluca Zambrotta ユベントス  
  12 ガブリエル・ミリート Gabriel Alejandro Milito サラゴサ 国籍あり
  16 シウビーニョ Silvio Mendes Campos Junior セルタ 国籍あり
  21 リリアン・テュラム Lilian Ulien Thuram ユベントス  
  22 エリック・アビダル Éric Abidal リヨン  
  23 オレゲール・プレサス Oleguer Presas Renom FCバルセロナB
MF 3 ティアゴ・モッタ Thiago Motta FCバルセロナB 国籍あり
  6 シャビ・エルナンデス Xavier Hernandez Creus FCバルセロナB  第3カピタン
  8 アンドレス・イニエスタ Andres Iniesta Luján FCバルセロナB  
  15 エジミウソン Edmilson Jose Gomes de Moraes リヨン 国籍あり
  17 トゥーレ・ヤヤ Gnégnéri Yaya Touré モナコ  
  20 デコ Anderson Luis de Souza "Deco" ポルト  
FW 7 エイドゥル・グジョンセン Eidur Gudjohnsen チェルシー  
  9 サミュエル・エトー Samuel Fils Eto'o マジョルカ  
  10 ロナウジーニョ・ガウーショ Ronaldo de Asiss Moreira パリ・サンジェルマン 第2カピタン
  14 ティエリ・アンリ Thierry Daniel Henry アーセナル  
  18 サンティアゴ・エスケーロ Santiago Ezquerro Marin アスレティック・ビルバオ  
  19 リオネル・メッシ Lionel Andres Messi FCバルセロナB 国籍あり
  - ジョバニ・ドス・サントス Giovani dos Santos Ramírez FCバルセロナB  
  - ボージャン・クルキック Bojan Krkić FCバルセロナB  





<4-3-3> 2004年から現在までこのシステムを採用。



V.バルデス
# 1ザンブロッタ
# 11G.ミリト
# 12プジョル
# 5アビダル
# 22ヤヤ・トゥーレ
# 17チャビ
# 6イニエスタ
# 20メッシ
# 19エトー
# 7ロナウジーニョ
# 10
[編集] バスケットボール
正式にはウィンタートゥールFCB(Winterthur FCB)と呼ばれる。スペインリーグ1部ACBでは14度の優勝を誇る名門チームである。


[編集] 06/07の所属選手
5 SG ジャンルカ・バシール
6 SG マルク・フェルナンデス
8 PF ジョルディ・トリアス
9 C デニス・マルコナート
10 PG ヤカ・ラコヴィッチ
11 SG ファン・カルロス・ナヴァーロ
14 SF ロドリゴ・デ・ラ・フエンテ
17 C フラン・ヴァスケス
20 PF ミハリス・カキオツィス
21 PG ロコ・レニ・ユキッチ
41 C マリオ・カスン
44 SG ロジェール・グリマウ
監督 & コーチ

デュスコ・イバノビッチ
シャビ・パスクアル
ヨセップ・ベレカル

[編集] 歴代監督
氏名 国籍 期間
ジョン・バロー イングランド 1917
ジャック・グリーンウェル イングランド 1917-1924
ジェスツァ・ポスゾニー ハンガリー 1924-1925
ラルフ・カービー イングランド 1925-1926
ジャック・デムビー イングランド 1926-1927
ローマ・フォルンス スペイン 1927-1929
ジェームス・ベラミー イングランド 1929-1931
ジャック・グリーンウェル イングランド 1931-1933
ジャック・デムビー イングランド 1933-1934
フェレンツォ・プラトコ ハンガリー 1934-1935
パトリック・オコーネル アイルランド 1935-1936
ジョセップ・プラナス スペイン 1938-1941
ラモン・グスマン スペイン 1941-1942
ジョアン・ジョセップ・ノゲス スペイン 1942-1944
ホセ・サミティエール スペイン 1944-1947
エンリケ・フェルナンデス ウルグアイ 1947-1950
ラモン・ローレンス スペイン 1950
フェルナンド・ダウシク チェコ 1950-1954
サンドロ・プッポ イタリア 1954-1955
フェレンツォ・プラトコ ハンガリー 1955-1956
ドメネク・バルマナヤ スペイン 1956-1958
エレニオ・エレーラ アルゼンチン 1958-1960
エンリク・ラバッサ スペイン 1960
リュビサ・ブロチッチ クロアチア 1960-1961
エンリケ・オリサオラ スペイン 1961
ルイス・ミロ スペイン 1961-1962
ラディスラオ・クバラ ハンガリー 1962
ジョセップ・ゴンサルボ スペイン 1962-1963
セサール・ロドリゲス スペイン 1963-1964
ヴィセンツォ・サソ スペイン 1964-1965
ロケ・オルセン アルゼンチン 1965-1967
サルバドール・アルティガス スペイン 1967-1969
ジョセップ・セゲール スペイン 1969-1970
ビク・バッキンガム イングランド 1971-1975
リヌス・ミケルス オランダ 1971-1975
ハンス・ヴァイスヴァイラー 西ドイツ 1975-1976
ラウレアノ・ルイス スペイン 1976
リヌス・ミケルス オランダ 1976-1978
ルシアン・ムレール フランス 1978-1979
ホアキム・リフェ スペイン 1979-1980
エレニオ・エレーラ アルゼンチン 1980-1981
ウド・ラテック 西ドイツ 1981-1983
ジョセップ・ルイス・ロメロ スペイン 1983
セサール・ルイス・メノッティ アルゼンチン 1983-1984
テリー・ベナブルズ イングランド 1984-1987
ルイス・アラゴネス スペイン 1987-1988
ヨハン・クライフ オランダ 1988-1996
カルロス・レシャック スペイン 1996
サー・ボビー・ロブソン イングランド 1996-1997
ルイス・ファン・ハール オランダ 1997-2000
ロレンツォ・セラ・フェレール スペイン 2000-2001
カルレス・レシャック スペイン 2001-2002
ルイス・ファン・ハール オランダ 2002-2003
ラドミール・アンティッチ セルビア・モンテネグロ 2003
フランク・ライカールト オランダ 2003-


[編集] 歴代会長
氏名 国籍 期間
ウォルター・ワイルド イングランド 1899-1901
バルトミュー・テラデス 1901-1902
ポール・ハース 1902-1903
アルサー・ウィティー 1903-1905
ジョセップ・ソラー 1905-1906
ジュリ・マリアル 1906-1908
ヴィセン・レイグ 1908
ハンス・カンパー スイス 1908-1909
オット・グメリン 1909-1910
ハンス・カンパー スイス 1910-1913
フランシス・デ・モホ 1913-1914
アルバー・プレスタ 1914
ホアキン・ペリス・デ・バーガス 1914-1915
ラファエル・ロパート 1915-1916
ガスパー・ロセス 1916-1917
ハンス・カンパー スイス 1917-1919
リカルド・グラエルス 1919-1920
ガスパー・ロセス 1920-1921
ハンス・カンパー スイス 1921-1923
エリック・カルドナ 1923-1924
ハンス・カンパー スイス 1924-1925
アラディー・バラガー 1925-1929
トーマス・ロセス 1929-1930
ガスパー・ロセス 1930-1931
アントニ・オリバー 1931
ジョアン・コマ 1931-1934
エステベ・サーラ 1934-1935
ジェセップ・スニョール・ガリーガ 1935-1936
エンリケ・ピネイロ 1940-1942
ジョセフ・ヴィダル・リバス 1942
エンリケ・ピネイロ 1942-1943
ジョセフ・アントニ・デ・アルベルト 1943
ジョセフ・ヴェンドレル 1943-1946
アグスティ・モンテリ・ガロバルト 1952-1953
エンリック・マルティ 1952-1953
ミロ・サンス 1953-1961
エンリック・ラウデ 1961-1968
ナルシス・デ・カレーラス 1968-1969
アグスティ・モンタル 1969-1977
レイモン・カラスコ 1977-1978
ホセ・ルイス・ヌニェス 1978-1999
ジョアン・ガスパール 1999-2003
エンリック・レイナ スペイン 2003
ジョアン・ラポルタ スペイン 2003-


[編集] 歴代所属選手
(カンテラ出身選手は、トップチーム・デビュー年度から表記)


[編集] GK
リカルド・サモラ 1919-1923
フェレンツォ・プラトコ 1923-1930
アントニ・ラマレッツ 1947-1962
サルバドール・サルドゥニ  1960-1976
アンドニ・スビサレッタ 1986-1994
ビトール・バイーア 1996-1999
ルート・ヘスプ 1997-2000
フランセスク・アルナウ 1998-2001
ホセ・マヌエル・レイナ 2001-2002
ロベルト・ボナーノ 2001-2003
ビクトール・バルデス 2002-
リュストゥ・レチベル 2003-2004
アルベルト・ジョルケラ 2004-
ルーベン・マルティネス 2004-

[編集] DF
ミゲリ 1973-1989
ラモン・アレサンコ 1980-1993
ロナルド・クーマン 1989-1995
ナンド 1990-1992
アルベルト・フェレール 1990-1998
ミゲル・アンヘル・ナダル 1991-1999
セルジ 1993-2002
アベラルド 1994-2002
ゲオルゲ・ポペスク 1995-1997
ローラン・ブラン 1996-1997
ウィンストン・ボハルデ 1997-2001
ミハエル・ライツィハー 1997-2004
フランク・デ・ブール 1999-2003
カルレス・プジョル 1999-
フランチェスコ・ココ 2001-2002
パトリック・アンデション 2001-2004
ファン・パブロ・ソリン 2002-2003
ジョバンニ・ファン・ブロンクホルスト 2003-2007
ラファエル・マルケス 2003-
オレゲール 2003-
ジュリアーノ・ベレッチ 2004-
シウビーニョ 2004-
エジミウソン 2004-
ダミア 2004-2005
ロドリ 2004-2006
カルロス・ゴンザレス・ペーニャ
ジャンルカ・ザンブロッタ 2006-
リリアン・テュラム 2006-

[編集] MF
ホセ・サミティエール 1919-1933
ルイス・スアレス 1954-1961
ペドロ・マリア・ザバルザ 1968-1974
ヨハン・ニースケンス 1974-1979
ベルント・シュスター 1980-1988
アイトール・ベギリスタイン 1988-1995
エウセビオ 1988-1995
ホセ・マリア・バケーロ 1988-1997
ギジェルモ・アモール 1988-1998
ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア 1990-1994
ジョゼップ・グアルディオラ 1990-2001
ゲオルゲ・ハジ 1994-1996
ロベルト・プロシネチキ 1995-1996
イバン・デ・ラ・ペーニャ 1995-1998
ジオバンニ 1996-1999
エマニュエル・アムニケ 1996-2000
ルイス・エンリケ 1996-2004
シャビ 1998-
ボウデヴィン・ゼンデン 1998-2001
フィリップ・コクー 1998-2004
ガブリ 1999-2006
ロナルド・デ・ブール 1999-2000
ヤリ・リトマネン 1999-2001
エマニュエル・プティ 2000-2001
リバウド 1997-2002
マルク・オーフェルマルス 2000-2004
ジェラール・ロペス 2000-2004
ファビオ・ロッチェンバック 2001-2003
ティアゴ・モッタ 2001-
アンドレス・イニエスタ 2002-
フアン・ロマン・リケルメ 2002-2003
ガイスカ・メンディエタ 2002-2003
ホアン・ベルドゥ 2002-2006
ルイス・ガルシア 2003-2004
リカルド・カレスマ 2003-2004
エドガー・ダーヴィッツ 2004
デコ 2004-
デメトリオ・アルベルティーニ 2004-2005
マルク・ファン・ボメル 2005-2006
ランザロート・ロロ
ヤヤ・トゥーレ 2007-

[編集] FW
イラリオ 1939-1940
マリアノ・マルティン 1939-1946
セサル 1939-1954
エスタニスラオ・バソラ 1946-1958
ラディスラオ・クバラ 1951-1961
サンドール・コチシュ 1958-1965
ペドロ・ザバラ 1961-1967
ホセ・アントニオ・ザルドゥア 1961-1971
カルロス・レシャック 1965-1981
ヨハン・クライフ 1973-1978
アラン・シモンセン 1979-1982
エンリケ・カストロ・キニ 1980-1984
ディエゴ・マラドーナ 1982-1984
ゲーリー・リネカー 1986-1989
フリオ・サリナス 1988-1994
ミカエル・ラウドルップ 1989-1994
フリスト・ストイチコフ 1990-1995,1996-1998
ロマーリオ 1993-1995
ロナウド 1996-1997
クリストフ・デュガリー 1997-1998
ソニー・アンデルソン 1997-1999
パトリック・クライファート 1998-2004
ルイス・フィーゴ 1995-2000
シモン・サブロサ 1999-2001
ダニ 1999-2004
ハビエル・サビオラ 2001-2004, 2006-2007
セルヒオ・ガルシア 2003-2004
ロナウジーニョ 2003-
リオネル・メッシ 2003-
ヘンリク・ラーション 2004-2006
サミュエル・エトオ 2004-
マクシ・ロペス 2004-2006
リュドビク・ジュリ 2004-2007
クリスティアン・イダルゴ・ゴンサレス 2004-2006
サンチャゴ・エスケーロ 2005-
エイドゥル・グジョンセン 2006-
ランザロート・マヌエル・マノロ
オリオール・リエラ
フランシスコ・ペラル
ティエリ・アンリ 2007-

[編集] 歴代バロンドール受賞選手
(受賞時 FCバルセロナ所属)

ルイス・スアレス 1960
ヨハン・クライフ 1973 1974
フリスト・ストイチコフ 1994
リバウド 1999
ロナウジーニョ 2005

[編集] 歴代得点王
(受賞時 FCバルセロナ所属)

氏名 国籍 シーズン 得点 試合数 1試合平均得点
マリアノ・マルティン スペイン 1942-1943 32 26 1.23
セサル スペイン 1948-1949 28 26 1.08
レー パラグアイ 1964-1965 25 30 0.83
カルロス・レシャック スペイン 1970-1971 17 26 0.65
クランクル スペイン 1978-1979 29 34 0.85
エンリケ・カストロ・キニ スペイン 1980-1981 20 34 0.59
エンリケ・カストロ・キニ スペイン 1981-1982 26 34 0.76
ロマーリオ ブラジル 1993-1994 30 38 0.79
ロナウド ブラジル 1996-1997 34 37 0.81
サミュエル・エトー カメルーン 2005-2006 26 34 0.76


[編集] 歴代サモラ賞受賞者
(受賞時 FCバルセロナ所属)

氏名 国籍 シーズン 被得点 試合数 失点率
ジュアン・ベラスコ スペイン 1947-1948 31 26 1.19
アントニ・ラマレッツ スペイン 1951-1952 40 29 1.43
アントニ・ラマレッツ スペイン 1955-1956 24 29 0.83
アントニ・ラマレッツ スペイン 1956-1957 35 29 1.2
アントニ・ラマレッツ スペイン 1958-1959 24 27 0.89
アントニ・ラマレッツ スペイン 1959-1960 25 39 0.64
ホセ・マニュエル・ペスド スペイン 1965-1966 15 22 0.68
サルバドール・サルドゥニ スペイン 1968-1969 18 30 0.6
ミゲル・レイナ スペイン 1972-1973 21 34 0.62
サルバドール・サルドゥニ スペイン 1973-1974 19 24 0.8
サルバドール・サルドゥニ スペイン 1974-1975 23 32 0.72
ペドロ・マリア・アルトーラ スペイン 1977-1978 26 25 1.04
フランセスコ・ウルッティ スペイン 1983-1984 22 33 0.67
アンドニ・スビサレッタ スペイン 1986-1987 29 43 0.67
ビクトル・バルデス スペイン 2004-2005 25 35 0.71


[編集] 関連項目
バルセロナSC
ジミー・ジャンプ・・・実に迷惑なバルサファン
FCバルセロナB
バルサTV
RAC1
キャプテン翼

[編集] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、FCバルセロナに関連するマルチメディアがあります。FC Barcelona
FCバルセロナ公認 ソシオ入会受付オフィス(日本語)
FCバルセロナ キッズキャンプ in JAPAN 2007(日本語)
ホームユニフォーム
アウェイユニフォーム
Network Organisation Football Agency Ltd.
FC Barcelona personal website collection (FCB Fan Clubs around the world, programme, ticket, pennant and match day badges)



FCバルセロナ - 現所属メンバー
1 バルデス | 2 ベレッチ | 3 モッタ | 4 マルケス | 5 プジョル | 6 シャビ | 7 グジョンセン | 8 イニエスタ | 9 エトオ | 10 ロナウジーニョ | 11 ザンブロッタ | 12 ミリート | 14 アンリ | 15 エジミウソン | 16 シウビーニョ | 17 トゥーレ | 18 エスケーロ | 19 メッシ | 20 デコ | 21 テュラム | 22 アビダル | 23 オレゲール | 25 ジョルケラ | 28 ルーベン | 32 クロサス | 33 ジェフレン | 監督: ライカールト

リーガ・エスパニョーラ プリメーラ・ディビシオン2007-08
アルメリア | アトレティコ・マドリード | エスパニョール | オサスナ | サラゴサ | セビージャ | デポルティーボ・ラ・コルーニャ | バリャドリード | バルセロナ | バレンシア | ビジャレアル | ビルバオ | ヘタフェ | ベティス | レアル・マドリード | マヨルカ | ムルシア | ラシン・サンタンデール | レクレアティーボ | レバンテ |


UEFAチャンピオンズリーグ[表示]
2006-2007
AEKアテネ | アーセナル | インテル | オリンピアコス | ガラタサライ | コペンハーゲン | シャフタール・ドネツク | ステアウア・ブカレスト | スパルタク・モスクワ | スポルティング・リスボン | セルティック | CSKAモスクワ | チェルシー | ディナモ・キエフ | バイエルン・ミュンヘン | バルセロナ | バレンシア | ハンブルガーSV | PSVアイントホーフェン | ブレーメン | ベンフィカ | ポルト | ボルドー | マンチェスター・ユナイテッド | ACミラン | リヴァプール | リヨン | リール | レアル・マドリード | レフスキ・ソフィア | ローマ

ヨーロッパ・ビッグクラブ連合体[表示]
"G-14" ※実際は18チーム

アーセナル | アヤックス | インテル | バイエル・レバークーゼン | バイエルン・ミュンヘン | パリ・サンジェルマン | バルセロナ | バレンシア | PSVアイントホーフェン | ボルシア・ドルトムント | ポルト | マルセイユ | マンチェスター・ユナイテッド | ACミラン | ユヴェントス | リヴァプール | リヨン | レアル・マドリード


カテゴリ: FCバルセロナ | スペインのバスケットボールチーム
この項目ではサッカーチームについて記述しています。同名のハンドボールチームについてはFCバルセロナ (ハンドボール)をご覧ください。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


バルセロナ 横浜F・マリノス戦に向け練習

【8月6日 AFP】サッカー、スペイン・リーガエスパニョーラ1部のFCバルセロナ(FC Barcelona)が翌7日に控えた横浜F・マリノス(Yokohama F Marinos)との親善試合に向けてチーム練習を行った。(c)AFP
(写真)練習に臨むティエリ・アンリ(Thierry Henry)。(c)AFP/KAZUHIRO NOGI

↓バルセロナ関連情報↓

アンリの加入により再活性化するバルセロナ



【7月31日 AFP】2006-2007シーズンのスペイン・リーガエスパニョーラ1部の最終節でレアル・マドリード(Real Madrid)にリーグ3連覇を阻止されるなど無冠に終わったFCバルセロナ(FC Barcelona)は、イングランド・プレミアリーグのアーセナル(Arsenal)からフランス代表のFWティエリ・アンリ(Thierry Henry)を獲得し、アンリの加入がチームを再活性化させている。

 チームの副キャプテンを務めるシャビ・エルナンデス(Xavi Hernandez)は「アンリの到着は重要な瞬間だった。アンリの加入によって全てが洗い流されたような雰囲気で、チームもサポーターも新たなスタートを切ることができた。通りで熱気に満ちたサポーターを見かけたが、彼らを熱狂させるのはそれほど簡単なことではない。限られた選手にしかチームの停滞したムードを打開することはできない」と語り、アンリの加入がチームの士気に好影響をもたらしていることを明かしている。

 26日に行われたスコットランド・プレミアリーグのダンディー・ユナイテッド(Dundee United)との親善試合にサミュエル・エトー(Samuel Eto’o)に代わって後半から出場したアンリは、試合終了間際にPKのリバウンドをつめて決勝点を奪い、試合後には「このゴールがこれから記録する多くのゴールの始まりになるといいね」と語っている。またバルセロナは、28日にはハーツ・オブ・ミドロシアン(Hearts of Midlothian)と親善試合を行い、ロナウジーニョ(Ronaldinho)の2得点とアンリのアシストから生まれたジオバンニ・ドスサントス(Giovanni Dos Santos)のゴールで3-1で勝利を収めている。

 FCバルセロナは、合計で推定6500万ユーロ(約106億円)を費やしアンリをはじめアルゼンチン代表のDFガブリエル・ミリート(Gabriel Milito)やコートジボワール代表のMFヤヤ・トゥーレ(Yaya Toure)、フランス代表のDFエリック・アビダル(Eric Abidal)を獲得している。

 アンリの入団発表にはロナウジーニョの入団発表を上回る約3万人のサポーターがカンプ・ノウ・スタジアム(Camp Nou stadium)に駆けつけており、その期待の大きさを窺わせた。

 2006-2007シーズンのFCバルセロナは、ロナウジーニョとエトーの舌禍が取り沙汰されるなど、チーム内での軋轢が報じられていたが、フランク・ライカールト(Frank Rijkaard)監督は、29日にマルカ(Marca)紙に対し「新加入選手はチームに新たな希望をもたらし、チームの力学に変化を促している。机上では偉大なチームとなったが、我々はそれをピッチの上で証明しなければならない」と語っている。

 8月3日から11日までアジアツアーを行うFCバルセロナは、5日に中国で北京国安(Beijing Guoan)と、また7日には日本で横浜F・マリノス(Yokohama F Marinos)と、さらに10日には香港でキッチーFC(Kitchee FC)とハッピーバレーFC(Happy Valley FC)の混合チームであるミッション・ヒルズ・インビテーション11(Mission Hills Invitation XI)と親善試合を行う。(c)AFP/Sebastien Guine

2007年7月30日、本拠地カンプ・ノウ・スタジアム(Camp Nou stadium)で練習に臨むアンリ(右)とロナウジーニョ。(c)AFP/CESAR RANGEL
(写真) 2007年7月30日、本拠地カンプ・ノウ・スタジアム(Camp Nou stadium)で練習に臨むアンリ(右)とロナウジーニョ。(c)AFP/CESAR RANGEL



横浜F・マリノスとは



横浜F・マリノスの基本情報

原語表記 横浜F・マリノス
愛称 マリノス、トリコロール
クラブカラー ブルー、ホワイト、レッド(トリコロール)
創設年 1972年
所属リーグ Jリーグ
所属ディビジョン ディビジョン1
ホームタウン 神奈川県横浜市・横須賀市
ホームスタジアム 日産スタジアム、三ツ沢公園球技場
収容人数 日産ス=72,370
三ツ沢=15,046
代表者 斉藤正治
監督 早野宏史

横浜F・マリノス(よこはま エフ・マリノス、Yokohama F. Marinos)は、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。旧名称は横浜マリノス。

目 次

1 クラブの概要
2 エピソード・アラカルト
3 クラブの歴史
3.1 前身
3.2 1991年〜1998年(横浜マリノス時代)
3.3 1999年〜現在(横浜F・マリノス時代)
4 ユニフォームについて
4.1 配色について
4.2 現在のユニフォームスポンサー
4.3 過去のユニフォームスポンサー
4.4 ユニフォームサプライの遍歴
5 補足
5.1 スポンサー契約について
5.2 表記略称について
5.3 下部組織
5.4 その他
6 Jリーグ年度別成績
7 タイトル
7.1 国内タイトル
7.2 国際タイトル
7.3 個人別タイトル
8 チームカラー
9 歴代監督
10 サポーター・応援スタンスについて
10.1 「トリパラ」
10.2 hamatra
10.3 トリコロール・ランサーズ
10.4 チャントについて
10.5 トラブル
11 チーム名変遷
12 関連項目
13 外部リンク



[編集] クラブの概要
1991年、Jリーグ加盟。Jリーグ創設時からの加盟チームのひとつである。
ホームタウンは神奈川県横浜市と横須賀市(2005年より)。横須賀市は2005年以前より、下部組織の練習会場として長年利用されていた。
ホームスタジアムは日産スタジアムと三ツ沢公園球技場。近年は、メインとして日産スタジアムをJ1リーグ戦の大部分及びカップ戦等(AFCチャンピオンズリーグ含む)の一部に使用し、残るJ1リーグ戦の数試合(主に平日開催の試合)及びカップ戦等の大部分は三ツ沢球技場を利用している。また、国立霞ヶ丘競技場を使用する場合もある(2006年は使用なし)。
クラブの法人事務所は横浜市西区みなとみらいにある。後述の練習場との併設である。神奈川区新子安から移転した。
練習場は、みなとみらい21地区にあるマリノスタウンである。2007年1月、クラブハウスなどと共に、クラブの全機能を移転した。
Jリーグ発足時から横浜フリューゲルスとの合併までは横浜市鶴見区の獅子ヶ谷グラウンドを用いており、合併後はフリューゲルスの練習場であった戸塚区の戸塚トレーニングセンターに移転した。横浜国際競技場完成後は、日産フィールド小机(小机陸上競技場。横浜国際の補助トラック)でも練習を行っていた。
この移転に際し、借地料がかさみ、さらに成績の低迷に伴う観客動員減などが重なった事で、2007年シーズンにおいてはクラブは緊縮財政を敷かざるを得ない状況になっている。監督を後述の早野にした理由の1つが「安く雇える」からであり、また戦力補強においても緊縮財政の煽りを受け、以前の戦力補強は金銭面に関係なく他チームより即戦力選手を中心に獲得していたが、2007年シーズンより移籍金が発生しない30歳以上の選手や高卒・大卒・ユース出身選手を中心に獲得し、世代交代と若手育成を同時に行いながら戦っていく方針に切り替えている。また、2006年シーズンまではホームゲーム入場者全員に配っていた「ハーフタイムプレゼント抽選券」を、「マッチデイプログラム購入者に限定のみに配布」する形式に変更しているなど、クラブのサービスの細かい部分にも影響が出ている。
チーム名の「マリノス (Marinos)」は、スペイン語で船乗りを意味する。「F」はフリューゲルス (Flügels) の頭文字(詳細は後述)。
チームカラーは「青・白・赤」のトリコロール(三色)。これは元々日産自動車のコーポレートカラーであったものである。
チームキャラクターは「マリノス君」と「マリノスケ」。ともにカモメをモチーフとしたキャラクターである。
クラブの社長は斉藤正治(さいとう まさはる)。日産自動車で商品開発を担当していたが、2007年4月よりチーム顧問を務め、同年6月に社長に就任した。6月9日の就任会見では、挑戦者としてのリスタート・更なる地域密着・風通しの良いクラブの3本柱、2010年にはホームゲームの年間総入場者数100万人を目標とする、などの方針を発表した。
前社長は左伴繁雄(ひだりとも しげお 1955年10月26日- 、2001年より2007年5月末)。慶應義塾大学卒で、1979年に日産自動車に入社し、厚木研究所の人事部門など担当、事業部門にチケット販売のプロを、地元の広告スポンサーを招き、補強の原資を支え、2003・2004両年の横浜の連覇に貢献した。また、ユースやスクールを増強して生徒を就任当時のスクール生900人を、2004年12月現在3000人に増やすなど努力した。また事あるごとにオフィシャルホームページに決意文やエッセイを掲載したりもしていた。これは一部サポーターから「社長の作文」として親しまれた。
しかし近年は、左伴の行動が地域密着やサッカー文化の熟成とは関係しないただの営利目的と受け止められる事が多い事から、サポーターとの信頼関係を損ね、上述の「社長の作文」も、2005年を最後に一度も掲載されなかった。2005年は『Colored Blue 宣言』(サポーターに青いシャツを着る事を推奨したもの。ただし、本来チームカラーは「トリコロール」=青・白・赤の三色)を発表した事、2006年3月25日の浦和レッズ戦(日産スタジアム)で本来横浜F・マリノスのサポーターにのみ許された横断幕の掲出場所を運営の都合としてサポーターの了承も無く勝手に浦和レッズに提供した事、更に同年9月9日の川崎フロンターレ戦(日産スタジアム)で自民党横浜市連に2000人分のチケット購入と引き換えにスタジアム内での政治活動を容認(一時政治家名ののぼりが立てられたがサポーターの抗議により撤去された)した事等、ピッチ外でのトラブルの原因を産み出した。これらの事を含め多くのサポーターに反感を向けられていた。なお、チーム不振の責任を取る形で2007年5月末をもって左伴は辞任した。
現在の監督は早野宏史。
2006年12月28日に早野の監督就任が正式発表されたが、早野の就任に反対しているサポーターがフロントに宛てて送った抗議のメールが700通となり、更に抗議活動として年間チケットの不買運動が行われていたとの事である。また、同時に発表となった来季のスローガン「Scramble Attack(緊急攻撃)」に関してチーム自体が緊急事態であるという解釈がされている。チーム成績が振るわないこともあり、まさにチームはスローガン通りの「スクランブル」状態となっている。
伝統的に優秀なディフェンダーが多く、日本代表の守備陣を多く輩出している。また、過去数年、リーグ戦での失点数の少なさにおいても上位に入っている。J2降格争いに巻き込まれた2001年シーズンにおいても、失点数はリーグ3番目の少なさだった。

[編集] エピソード・アラカルト
新規スタジアムの柿落とし試合をアウェイチームとして迎えることが多い。1993年のJリーグ開幕戦(対ヴェルディ川崎・国立霞ヶ丘競技場)、2001年の埼玉スタジアム2002オープニングゲーム(対浦和レッズ)、同年の札幌ドームのサッカー競技場としてのオープニングゲーム(対コンサドーレ札幌)、これまた同年の神戸ウイングスタジアムのオープニングゲーム(対ヴィッセル神戸)、2005年のフクダ電子アリーナオープニングゲーム(対ジェフ千葉)などを戦っている。しかも、これらの試合では一度も負けたことがなく、「柿落とし無敗神話」とも言われる。また、横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)においては、1998年のダイナスティカップの日本-韓国戦が柿落としであったが、Jリーグの初開催となったこの年の開幕戦・横浜マリノス-横浜フリューゲルスの「横浜ダービー」では、延長戦の末佐藤一樹(のちに吸収合併によりF・マリノスに入団)のVゴールで敗れている。命名権により「日産スタジアム」となった初戦の横浜F・マリノス-ジュビロ磐田でも、ロスタイムに福西崇史(現FC東京)のヘディングでのゴールを喫し、敗れている。尚、このゴールは福西がジャンプをした時に伸ばしていた手に当たって決まったゴールではないのかとの疑惑が挙がった。また福西本人も手に当たった感触が有った。ラッキーなゴールだね(後日談)と語っている。(その試合で主審を務めていた岡田正義の記事も参照されたい)
神奈川県内の4チームで唯一J2を経験していない。

[編集] クラブの歴史

[編集] 前身
1972年、神奈川県横浜市で「日産自動車FC」を設立した。読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ1969)を参考にユース(高校生)などの下部育成組織を早くから整備。JSL1部は、79-80年に昇格。 日本初のプロ監督・加茂周のもとチームは上位を必ずキープし、1988〜89年度のJSL、JSL杯、天皇杯の当時の日本サッカー主要大会三冠を達成した。 金田喜稔や水沼貴史、木村和司、井原正巳など数々の日本代表を輩出してきた。名門である読売サッカークラブ(現在の東京ヴェルディ1969)との対決は、「黄金カード」として、Jリーグでも、人気カードとして愛されていた。しかし、2006年はヴェルディがJ2に降格、天皇杯でもヴェルディが早期敗退した為、伝統の一戦が27年ぶりに行われなかった。


[編集] 1991年〜1998年(横浜マリノス時代)
1991年に、Jリーグ加盟。1993年5月15日のJリーグの開幕試合(対・ヴェルディ戦)を2-1で制した。1995年には、リーグ初優勝を果たした。

1999年に横浜フリューゲルスを吸収合併し、現在の名称となった。「F・マリノス」の「F」は、横浜フリューゲルス(FLUGELS)の頭文字から取ったものである。なお、フリューゲルスはマリノスのチーム史では傍系(別チーム)として扱われるので、フリューゲルスの優勝回数や個人賞などの記録はマリノスに通算されない。


[編集] 1999年〜現在(横浜F・マリノス時代)
2000年に5年ぶりとなる1stステージでの優勝を果たしたが、2ndステージ優勝の鹿島アントラーズとのチャンピオンシップに敗れ、年間チャンピオンにはならなかった。 2001年シーズンは、主軸の三浦淳宏、柳想鉄の移籍もあって、1stステージでは15位という不本意な成績に陥り、以後、まさかの残留争いに巻き込まれてしまう。この戦績に日産の社長のゴーンが激怒。翌年、ステージ優勝または年間3位以内でなければチームを解散させる、と発言したという報道も一部あり、サッカー好きが行き過ぎた冗談とも取れたが、チーム存続の危機に立った。 しかし、その翌2002年、東京ヴェルディ1969から中澤佑二(レンタル)、ジュビロ磐田からは奥大介(レンタル)、清水範久、コンサドーレ札幌からは、ウィルなど各チームの主力選手を補強し、2002年シーズンの1stステージは2位と好発進した。この年はジュビロ磐田がJリーグ史上初の両ステージ制覇を達成したため、チャンピオンシップに出場せずに年間総合順位が2位となり、ステージ優勝こそならなかったもののゴーン社長の気まぐれ解散の可能性は消滅した。 そして2003年に岡田武史監督が就任、この年J2へと降格したサンフレッチェ広島から久保竜彦、そして翌年韓国のエースFW安貞桓などを補強し、2003年から翌2004年第1ステージにかけて、3ステージ連続優勝を達成。2004年第2ステージは浦和レッズが優勝したため、年間王者はサントリーチャンピオンシップで決める事に。浦和の圧倒的優位と予想されていたが、第1戦横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)での対戦は河合竜二がコーナーキックから先制ゴールを決め、1-0で勝利。第2戦埼玉スタジアムでの対戦は、三都主にFKを直接決められ0-1。延長戦では決着が着かず、PK戦で勝利し2年連続王者となった。しかし2005年は、期待されたACLでのグループステージ敗退、主力選手の怪我などがリーグでの成績にも影響したのか年間9位と不振であった。2006年は、元名古屋グランパスエイトのFW、マルケスを補強。またみなとみらいへのクラブ移転(『マリノスタウン』)など、名門も節目を迎えることになった矢先に、成績不振で、シーズン途中の8月に岡田監督が辞任、後任に水沼貴史コーチが監督に昇格した。それでもJ2降格を逃れるのが精一杯で、前年と同じ9位で終了した。シーズン途中で辞任した岡田監督の後任監督として就任した水沼貴史監督は天皇杯をもって辞任し、2007年シーズンより1995年〜1996年シーズンを指揮した早野宏史氏が11年振りにチーム監督に就任する事が12月28日に正式発表された(奇しくも、早野は水沼が現役引退した年に、(シーズン途中からの指揮ではあるが)マリノスを優勝に導いている)。


[編集] ユニフォームについて
ユニフォームの色 カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 青 白 赤
FP(2nd) 白 青 白
GK(1st) 黄 黄 黄
GK(2nd) 灰 灰 灰
GK(3rd) 黒 黒 黒




 
FP 1st



 
FP 2nd





 
GK 1st



 
GK 2nd



 
GK 3rd



[編集] 配色について
ユニフォームのデザインは基本的に上:青、下:白、靴下:赤のトリコロールである。これは日産FC時代から続いた伝統である。
副は長らく上:白、下:青、靴下:白でメインとの色違いであるデザインを採用していたが、2003年以降はこの配色を取り止めた。
2001年は黒の第3ユニフォームが誕生した。これは海外クラブに倣いチームカラーと関係無い色調のユニフォームを取り入れたものである。尚、2003年は第3ユニフォームの採用を取り止めた。
2002年は上衣が青と紺のツートンのユニフォームを採用した(上:青/紺、下:白、靴下:赤) これはYC&AC(横浜カントリー・アスレチッククラブ)で使われた紺と白の概念を取り入れたものである。
2003年は上下靴下全て紺のユニフォームで戦った。尚、副は上:白/シルバー、下:黒(チェンジショーツはシルバー)、靴下:シルバーであった。トリコロールの封印は「名門復活なるまでは」という左伴繁雄社長(当時)の大号令に基づくものであった。この年はJリーグ始まって以来のクラブ史上最高位となる完全優勝を納めた。名門復活を果たし、翌2004年には再び伝統のトリコロールのユニフォームに戻した。
2007年には、前年度まで着用していたアウェイのスパルタングレー色のユニフォームを廃止し、白のユニフォーム、青のパンツに白ソックスという伝統的な配色へ戻した。
2008年シーズンより、ナイキとユニフォームサプライ契約を結ぶことが内定した、と報知新聞で報道された。史上最長となる契約期間など、破格のオファーであるという。長年親しまれてきたトリコロールのユニフォームから一新して、新しいデザインのユニフォームとなる、とされる[要出典]。

[編集] 現在のユニフォームスポンサー
胸 日産自動車
袖 MLJ
背 全日本空輸(ANA)

[編集] 過去のユニフォームスポンサー
日本コダック(1993-98 背番号上部)
ブリティッシュ・ペトロルフ(潤滑油)(1993-95 袖)
ザナヴィ(1996-98 袖)
Fuji ten (2000-2001 袖)
Naturally Plus (2003・2ndステージ パンツ)
GE(2003-2004 袖)

[編集] ユニフォームサプライの遍歴
1992年〜1996年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はアディダス(デサント)
1997年〜2007年 リーグ戦・カップ戦ともにアディダスに統一 (厳密には1998年まではデサント社、1999年以降はアディダス・ジャパン社)
2008年〜 ナイキと8年総額30億円というJリーグ史上最高のユニフォームサプライ契約を結ぶ事で内定している。

[編集] 補足

[編集] スポンサー契約について
フリューゲルスとの合併で日産自動車と全日本空輸の共同経営を行った後、2002年2月1日付で全日空が同社からの資本を引き揚げ(ユニフォームスポンサーについては継続)日産の完全出資となったが、2005年2月1日付を持って第3者割当増資を行い、日産のほか以下の企業からの出資を受けた。
相模鉄道
崎陽軒
タカナシ乳業
神奈川新聞
テレビ神奈川(tvk)
横浜信用金庫
サカタのタネ

[編集] 表記略称について
Jリーグ公式サイトでは「横浜FM」、totoでは「横浜M」である。新聞・雑誌等でも、これらに倣い「横浜FM」もしくは「横浜M」とすることが多い。「横浜F」と略した場合、基本的には横浜フリューゲルスのことを指す場合が多く、しかも横浜FCと区別が付かないため、前者は区別が付く2文字目(「横浜FM」「横浜FC」)までを表記している。後者は、前者の表記において重複する「F」の省略か、(マリノスの場合においては)以前の表記(後述)をそのまま使っているものである。
一部の媒体、例えば日刊スポーツ、スポーツニッポン、サッカーダイジェストなどでは、単に「横浜」と表記する。これは、横浜FCがJ2リーグに昇格するまでの2年間(1999〜2000年)、横浜市をホームタウンとするJリーグのクラブがマリノスのみであったため、マリノスを「横浜」と表記していたことの名残である。
なお、2006年まで横浜FCとは別カテゴリ(マリノスはJ1、横浜FCはJ2)に所属していたので、J1のみについて扱うなど、特に紛らわしくない場合は単に「横浜」とすることも多かった(これは横浜FCについても同様である)。
横浜FCが昇格し、2007年度より同じJ1に所属することになるため、一部媒体が使用する略称を変更している。例えば、スポーツニッポンは、横浜FCと同時に名前が出る記事においては「横浜M」と表記している。
Jリーグ発足当時は「横浜M」「横浜マ」と表記するマスコミが多かった。ただし、読売新聞とフジテレビ「プロ野球ニュース」では、横浜フリューゲルスの本拠地が横浜市(ホームタウン)と九州地方(特別活動地域。長崎県、熊本県、鹿児島県)にまたがる特殊な扱いであったこと、またプロ野球ニュースでは全日空が番組スポンサーだったこともあり、やはり略称を「横浜」のみで出したことがあった(同時期読売系のスポーツ報知、日本テレビは「日産横浜(マリノス)」と表記)。

[編集] 下部組織
下部組織が非常に充実しており、横浜F・マリノスプライマリーが2006年全日本少年サッカー大会で前人未到の大会3連覇を達成。同年の大会においては横浜F・マリノスプライマリー追浜も3位入賞を果たしている。 また、横浜F・マリノスジュニアユース追浜も全国制覇を成し遂げており、ユースもプリンスリーグで優勝を成し遂げている。ユースからは能力の高い選手が多く輩出されている。

主なユース出身者は以下の通り

天野貴史、坂田大輔、栗原勇蔵、榎本哲也、田中隼磨、山瀬幸宏、飯倉大樹、ハーフナー・マイク、秋元陽太、斎藤陽介、田代真一、長谷川アーリアジャスール(以上横浜F・マリノス)、石川直宏(FC東京)、谷口博之(川崎フロンターレ)、丹羽竜平(セレッソ大阪)、鈴木健太、木村勝太(以上ヴァンフォーレ甲府)、大久保翔(ヴィッセル神戸)、鈴木達也(柏レイソル)


[編集] その他
Jリーグ発足時、同じ横浜市をホームタウンとしていたマリノスとフリューゲルスが同じ日にホームゲームを組むことがあった。しかし、Jリーグではスタジアムの芝生保護や観客入れ替えなどの観点上、1日2試合の開催を認めていなかったので、マリノスが三ツ沢(球)、フリューゲルスは九州地方(特別活動地域の長崎県・熊本県・鹿児島県の3県)または国立などで試合を行うことがあった。なお1995年以後はホームゲームの開催日が調整され、同じ日にマリノスとフリューゲルスの主催試合を重複開催することは皆無となった。

マリノスクイーンと呼ばれる広報や試合運営補助を仕事とする女性がおり、その独特な容姿から一部ファンの熱い支持を集めている。なお、マリノスクイーンは神奈川県在住・通勤・通学者から選ばれている。


[編集] Jリーグ年度別成績
年度 リーグ J1/J2 順位 成績
1993年 サントリー J1 3位 11勝7敗
1993年 ニコス J1 3位 10勝8敗
1994年 サントリー J1 9位 8勝14敗
1994年 ニコス J1 3位 14勝8敗
1995年 サントリー J1 1位 17勝9敗
1995年 ニコス J1 3位 15勝11敗
1996年 年間 J1 8位 14勝16敗
1997年 1st J1 5位 11勝5敗
1997年 2nd J1 3位 12勝4敗
1998年 1st J1 4位 11勝6敗
1998年 2nd J1 4位 11勝6敗
1999年 1st J1 7位 8勝6敗1分
1999年 2nd J1 3位 10勝3敗2分
2000年 1st J1 1位 10勝5敗0分
2000年 2nd J1 5位 8勝6敗1分
2001年 1st J1 15位 3勝10敗2分
2001年 2nd J1 10位 6勝6敗3分
2002年 1st J1 2位 11勝1敗3分
2002年 2nd J1 6位 8勝6敗1分
2003年 1st J1 1位 10勝3敗2分
2003年 2nd J1 1位 7勝3敗5分
2004年 1st J1 1位 11勝1敗3分
2004年 2nd J1 6位 6勝4敗5分
2005年 年間 J1 9位 12勝10敗12分
2006年 年間 J1 9位 13勝15敗6分
合計 - J1 - 257勝173敗46分


[編集] タイトル

[編集] 国内タイトル
Jリーグ年間:3回
1995年、2003年、2004年
1stステージ:4回 - 1995年、2000年、2003年、2004年
2ndステージ:1回 - 2003年
天皇杯:1回
1992年
リーグカップ:1回
2001年

[編集] 国際タイトル
アジアカップウィナーズカップ:1回
1993年

[編集] 個人別タイトル
Jリーグ
2000年 中村俊輔 最優秀選手(MVP)
2004年 中澤佑二 最優秀選手(MVP)
ベストイレブン
1993年 松永成立、井原正巳、ディアス
1994年 井原正巳
1995年 井原正巳、鈴木正治
1996年 井原正巳
1997年 井原正巳
1999年 中村俊輔
2000年 松田直樹、中村俊輔
2002年 松田直樹
2003年 ドゥトラ、中澤佑二、奥大介、久保竜彦
2004年 ドゥトラ、中澤佑二、奥大介
2005年 中澤佑二
得点王
1993年 ディアス
新人王
1995年 川口能活
2003年 那須大亮
ナビスコ杯
2001年 榎本達也 最優秀選手

なお日産自動車時代のタイトルについてはその項参照


[編集] チームカラー
チームカラーは青色、白色、赤色のトリコロールカラー。フランス代表のユニフォームにも似ている。

[編集] 歴代監督
1993年〜1994年:清水秀彦(日本)
1995年:ホルヘ・ソラリ(アルゼンチン)
1995年〜1996年:早野宏史(日本)
1997年〜1998年:ハビエル・アスカルゴルタ(スペイン)
1999年:アントニオ・デラクルス(スペイン)
2000年〜2001年:オズワルド・アルディレス(アルゼンチン)
2001年:下條佳明(日本)
2001年〜2002年:ラザロニ(ブラジル)
2002年:下條佳明(日本)
2003年〜2006年:岡田武史(日本)
2006年:水沼貴史(日本)
2007年〜:早野宏史

[編集] サポーター・応援スタンスについて

[編集] 「トリパラ」
応援の必須アイテムの一つとして、トリコロールの傘、通称「トリパラ」がある。元々は2004年度Jリーグチャンピオンシップ対浦和レッズ戦用に作られたものと見られている。

当初はサポーター有志により作られていたもので、その作業には多くの時間を要したという。現在では、サポーターがグッズショップ「トリコポイント」[1]と連携して生産・販売を行ったり、チームもオフィシャルグッズの一つとして販売するなど、その認知度は高くなっている。


[編集] hamatra
サポーター有志により、hamatra(ハマトラ。Yokohama Traditionalが由来)というフリーペーパーがホームゲーム時に配布されていた。サポートソングの歌詞カードをフリーペーパーとして発展させたものであり、歌詞とともにサポーター有志によるコラムなどが掲載されていた。現在は休刊しており、その名は同名を冠したマリノス・サポーター用のSNS、「ハマトラSNS」[2]を指すことが多い。

なお、hamatraをマッチデープログラムと見る者もいるが(例: サッカーJ+ Vol.1でのホームスタジアム・日産スタジアムの紹介において、「マッチデープログラムはサポーター有志が配布」と記載)、マッチデープログラムはhamatraとは別に販売されており、その捉え方は間違いである。


[編集] トリコロール・ランサーズ
2007年、公式チアリーディングチームとしてトリコロール・ランサーズが結成された。詳細はランサーズの項を参照のこと。


[編集] チャントについて
「俺達が横浜!もう誰にも止められない!」 このチャントは1点、2点と勢いが出てきたときに、更に勢いを加速させる時に使用する。このチャントが出てきたら、相手チームは試合を諦めると言われている[要出典]。ここ最近では大分戦の5-0、新潟戦の6-0が記憶に新しい。


[編集] トラブル
2007年Jリーグ第8節(4月28日)のアウェイで行われたアルビレックス新潟戦の試合終了後、スタジアム付近の交差点にて、マリノスサポーターによる発煙筒および爆竹の使用があった。浦和レッズやFC東京などと同じく、サポーターの数が多いだけに乱闘騒ぎなどのトラブルもやや見受けられがちである。


[編集] チーム名変遷
1972年~ 日産自動車サッカー部
1991年~ 横浜マリノス
1999年~ 横浜F・マリノス

[編集] 関連項目
横浜F・マリノスの選手一覧
マリノスタウン
横浜熱闘倶楽部
TBWA/JAPAN(担当広告代理店)
キックオフ!!F・マリノス(テレビ神奈川)
2003年J1・2ndステージ最終節
日本プロサッカーリーグ

[編集] 外部リンク
横浜F゠マリノス Official Web Site
横浜F・マリノス - 2007
1 榎本哲也 | 2 エウチーニョ | 3 松田直樹 | 4 那須大亮 | 6 上野良治 | 7 田中隼磨 | 8 マルケス | 9 鈴木隆行 | 10 山瀬功治 | 11 坂田大輔 | 13 小宮山尊信 | 14 狩野健太 | 15 大島秀夫 | 16 吉村光示 | 17 吉田孝行 | 18 清水範久 | 19 乾貴士 | 20 ハーフナー・マイク | 21 高桑大二朗 | 22 中澤佑二 | 23 田代真一 | 25 山本郁弥 | 26 田中裕介 | 27 斎藤陽介 | 28 天野貴史 | 29 長谷川アーリアジャスール | 30 栗原勇蔵 | 31 飯倉大樹 | 32 山瀬幸宏 | 34 石原卓 | 35 河合竜二 | 36 秋元陽太 | 37 富永康博 |
監督 早野宏史 | クラブ | 編集

Jリーグ 2007
J1
鹿島アントラーズ | 浦和レッドダイヤモンズ | 大宮アルディージャ | ジェフユナイテッド市原・千葉 | 柏レイソル | FC東京 | 川崎フロンターレ | 横浜F・マリノス | 横浜FC | ヴァンフォーレ甲府 | アルビレックス新潟 | 清水エスパルス | ジュビロ磐田 | 名古屋グランパスエイト | ガンバ大阪 | ヴィッセル神戸 | サンフレッチェ広島 | 大分トリニータ

J2
コンサドーレ札幌 | ベガルタ仙台 | モンテディオ山形 | 水戸ホーリーホック | ザスパ草津 | 東京ヴェルディ1969 | 湘南ベルマーレ | 京都サンガF.C. | セレッソ大阪 | 徳島ヴォルティス | 愛媛FC | アビスパ福岡 | サガン鳥栖

過去に存在したクラブ
横浜フリューゲルス
ナビスコ杯 | オールスターサッカー | チャンピオンシップ | 入れ替え戦 | アウォーズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



水沼貴史とは




水沼貴史の基本情報
名前
愛称 タカシ 
カタカナ ミズヌマ タカシ
ラテン文字表記 MIZUNUMA Takashi
基本情報
国籍 日本
誕生日 1960年5月28日
出身地 埼玉県さいたま市
身長 176cm
体重 54kg
選手情報
ポジション FW/MF
代表歴
出場 32
得点 7

水沼貴史(みずぬま たかし、1960年5月28日-)は、埼玉県浦和市(現在のさいたま市)出身の元サッカー選手。ポジションはFW、MF。現在は横浜F・マリノストップチームのコーチ。

長男の水沼宏太も横浜F・マリノスユース所属のサッカー選手。

目 次

1 プロフィール
2 選手時代の実績
3 経歴
3.1 現役時代
3.2 指導者時代
4 個人成績
5 代表歴
5.1 試合数
6 獲得タイトル
6.1 学生時代
6.2 日産自動車〜マリノス
6.3 個人タイトル
7 外部リンク



[編集] プロフィール
浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)から法政大学を経て、日産自動車サッカー部(現・横浜F・マリノス)へ入団。1979年に日本で開催されたFIFAワールドユース選手権の日本代表として選出され、チーム唯一の得点を記録する。テクニック溢れるドリブラーとして3トップのウィングやMFとして活躍し、金田喜稔、木村和司らと共に日産の黄金期を築いた。また日本代表チームでも活躍。1987年ソウルオリンピック予選・アウェー中国戦で、高さを誇る中国DFを翻弄した、原博実の決勝ヘディングゴールを演出したピンポイントCK、'90W杯予選・ホーム北朝鮮戦の同点ゴールは語り草となっている。Jリーグ発足前の人気低迷時代の日本サッカー界を支えた人物の1人でもある。

1995年、鹿島スタジアムでの1stステージ開幕戦での途中出場を最後に現役を退く。奇しくも、この年の横浜マリノスは早野宏史監督のもと、1stステージで初のステージ優勝を果たすと、Jリーグチャンピオンシップで宿敵ヴェルディ川崎(現:東京ヴェルディ1969)と争い、Jリーグ発足後初めて年間チャンピオンになった。引退時は、血尿が出るほど体調が悪く、到底プレイに耐えうる状態ではなかったと引退後に回想している。

1996年から2006年1月までTBS「スーパーサッカー」(実は第2回放送にゲストとして出演していたりする)のご意見番役として出演。「ニュースの森」毎週月曜日に、ワールドサッカーパラダイスのコーナーも担当した。テレビ神奈川、ニッポン放送サッカー解説者で、2006年1月までテレビ神奈川ではキックオフ!!F・マリノスのパーソナリティーも務めていた。また2002年10月〜2003年3月にはTBSラジオ「水沼貴史のスポーツボンバー!」等も担当した。2003年〜2005年は、法政大学コーチとして、出身校の学生を指導した。2004年にS級ライセンスを取得した。

2006年2月1日〜2007年1月31日の1年契約で、横浜F・マリノストップチームのコーチに就任。それに伴い、スーパーサッカー、キックオフ!!F・マリノスの両番組は降板(卒業)となった。さらに2006年8月24日には成績不振で辞任した岡田武史の後を受け、監督に就任。しかし具体的な戦略がない状態でチームの不振は続き、天皇杯終了後に辞任する事が決定した。2007年は再び横浜F・マリノストップチームのコーチに就任。

なお、マリノス出身の元選手が横浜F・マリノストップチームの監督になったのは、水沼が初めてであった。(早野現監督はマリノス前身の日産自動車サッカー部出身である)

テレビゲーム「プロサッカークラブをつくろう!」シリーズに架空日本人選手として登場する氷沼貴之(FW)は、水沼がモデルであると思われる。解説者として木村和司とともに実名出演をしている。


[編集] 選手時代の実績
本太少年団で全国少年団サッカー大会を優勝し、浦和市立本太中学校(現:さいたま市立本太中学校)では3年生の時に全国制覇、その後進学した浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)では熱血の誉れ高き名将松本暁司監督の指導のもと、1年生のときからレギュラーに定着。全国高校サッカー選手権では、歴史的な名勝負と言われた静岡学園との死闘を制して優勝。16歳にして、小中高と全てのカテゴリーで日本一を経験した。法政大学では、総理大臣杯全日本サッカートーナメントを2度制し、また、4年生の時に自らのゴールで1部復帰を果たすという重責を成し遂げた。その後、日産自動車サッカー部に入団し、チームのタイトル獲得に貢献した。90年代になると、木村和司と2枚看板を組み、日産の主軸として活躍した。なお、水沼は、Jリーグ以外の各カテゴリー(小中高大、社会人)の大会で優勝を経験した。

現役時代はボレーシュートの巧さに定評があり、切れ味鋭いフェイントを交えたドリブル、創造性溢れるパスセンス、トラップから素早いシュートなどテクニックにおいて多彩な才能を発揮。特に日産、マリノスにおいてチームメイトの木村和司とのコンビネーションは最高だった。後の日本における技巧派MFのさきがけ的存在である。また、持ち前の冷静な判断力とサッカーへの情熱は選手引退後も解説者、指導者として生かされている。


[編集] 経歴

[編集] 現役時代
1976年-1979年 浦和市立南高等学校
1979年-1983年 法政大学
1983年-1992年 日産自動車サッカー部
1993年-1995年 横浜マリノス
1995年引退

[編集] 指導者時代
2003年-2005年 法政大学サッカー部:コーチ
2006年- 現 在 横浜F・マリノス
2月1日-8月24日:コーチ
8月25日-12月末:監督
2007年-:コーチ

[編集] 個人成績
国内大会個人成績 リーグ戦 リーグカップ オープンカップ 期間通算
シーズン クラブ 背番号 カテゴリー 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 JSL杯/ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1983年 日産 JSL1部 12 3
1984年 日産 JSL1部 17 8
1985年 日産 JSL1部 22 3
1986年-1987年 日産 JSL1部 22 3
1987年-1988年 日産 JSL1部 22 7
1988年-1989年 日産 JSL1部 20 4
1989年-1990年 日産 JSL1部 16 2
1990年-1991年 日産 JSL1部 10 1
1991年-1992年 日産 JSL1部 20 2
1992年 横浜M - J -
1993年 横浜M - J 26 3
1994年 横浜M - J 15 2
1995年 横浜M - J 1 0 -
通算 日本 J 42 5
日本 JSL1部 161 33
総通算 203 38


[編集] 代表歴

[編集] 試合数
国際Aマッチ 32試合 7得点(1984-1989)



日本代表個人成績 国際Aマッチ その他 期間通算
年 出場 得点 出場 得点 出場 得点
1984年 5 1 2 1 7 2
1985年 8 3 5 1 13 4
1986年 0 0 1 0 1 0
1987年 8 2 9 3 17 5
1988年 3 0 14 3 17 3
1989年 8 1 5 1 13 2
通算 32 7 36 9 68 16


[編集] 獲得タイトル

[編集] 学生時代
全日本小学生サッカー大会優勝- 本太少年団
第6回全国中学校サッカー大会優勝(1975年) -浦和市立本太中学校(現:さいたま市立本太中学校)
第55回全国高等学校サッカー選手権優勝(1976年)- 浦和市立南高等学校(現:さいたま市立浦和南高等学校)
第4回、第6回総理大臣杯全日本大学サッカートーナメント優勝(1980年、1982年)- 法政大学

[編集] 日産自動車〜マリノス
天皇杯(1983年、1985年、1988年、1989年、1991年)
日本サッカーリーグ(1988‐99年、1989‐90年)
JSLカップ(1988年、1989年、1990年)
アジアカップウィナーズカップ(1991‐92年)

[編集] 個人タイトル
アシスト王(1986-87年、17アシスト)

[編集] 外部リンク
パスインターナショナル(所属事務所)
J1記念ゴール
前回:
初ゴール
マイヤー 500ゴール
水沼貴史
1993.12.1 次回:
1000ゴール
メディナベージョ
先代:
岡田武史 横浜F・マリノス監督
2006途中-終了 次代:
早野宏史

カテゴリ: 日本のサッカー選手 | サッカー日本代表選手 | 日産自動車サッカー部の選手 | 横浜マリノスの選手 | 日本のサッカー指導者 | 1960年生 | 埼玉県出身の人物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
JUGEMテーマ:欧州サッカー



バルセロナ 北京国安を降しアジアツアー初戦を飾る

FCバルセロナとは



FCバルセロナの基本情報

原語表記 Fútbol Club Barcelona
愛称 Barça、Azulgrana、Blaugrana、Culers
クラブカラー 青とえんじ
創設年 1899年
所属リーグ リーガ・エスパニョーラ
所属ディビジョン プリメーラ・ディビシオン
ホームタウン バルセロナ
ホームスタジアム カンプ・ノウ
収容人数 98,787
代表者 ジョアン・ラポルタ
監督 フランク・ライカールト
公式サイト 公式サイト

FCバルセロナ(Futbol Club Barcelona)は、スペイン・バルセロナを本拠地とするサッカークラブチームである。

目 次

1 概要

2 歴史

3 ユニフォーム

4 タイトル
4.1 国内タイトル
4.2 国際タイトル

5 近年の成績

6 歴代スタジアム

7 現所属メンバー
7.1 バスケットボール
7.1.1 06/07の所属選手

8 歴代監督

9 歴代会長

10 歴代所属選手
10.1 GK
10.2 DF
10.3 MF
10.4 FW

11 歴代バロンドール受賞選手

12 歴代得点王

13 歴代サモラ賞受賞者

14 関連項目

15 外部リンク



[編集] 概要

カンプ・ノウでの試合
欧州CL 2005-06優勝パレード1899年創設。愛称は「バルサ(Barça)」、またはクラブカラーから「ブラウ・グラーナ(Blau Grana)」。数々のタイトルを獲得したヨーロッパでも屈指のビッグクラブ、名門クラブであり、政治的背景などからレアル・マドリードとは長年のライバルである。そのため同じマドリードをライバルとするアトレティコ・マドリードとは良好な関係である。

「クラブ以上の存在(Més Que Un Club)」がクラブのスローガンであり、ユニフォームの後襟にもこの言葉がプリントされている。

リーガ創立以来2部以下に落ちたことがなく、これは他にレアル・マドリードとアスレティック・ビルバオのみである。また、同じバルセロナを本拠地とするエスパニョールとの試合は、カタルーニャ・ダービーと呼ばれる。サッカーのみならず政治的・地域的に長年の対立関係にある首都マドリードのレアル・マドリードとの試合はエル・クラシコ(El Clásico)と呼ばれ、100年近く因縁の対決を続けており、スペイン国内だけでなく世界的にも注目度の高いイベントである。ホームスタジアムはカンプ・ノウ。

一般に多くのサッカークラブではユニフォームに出資(協賛)スポンサーのロゴを入れているが、FCバルセロナは一般市民などからの会費(ソシオ)で運営していることから、ユニフォームにスポンサーのロゴを入れていないのもチームの伝統となっている。2005年には北京オリンピック組織委員会からユニフォームロゴ掲出依頼のオファーを受けていたが、立ち消えとなっている。なお2006-2007シーズンからは児童福祉活動への支援という観点から、ユニセフと無報酬で5年契約を結ぶことで合意し、他クラブのそれとはかなり位置付けが違うものの、2006年9月12日から史上初めて胸にユニセフロゴを入れたユニフォームを着用している。ソシオの会員は現在世界中で14万に達している。日本でも、2004年6月より日本でのソシオ会員の募集が行われている。

「攻撃的でスペクタクルなフットボール」をクラブのアイデンティティとしており、試合に勝ったとしてもその内容が守備的でつまらないとサポーターから容赦ないブーイングが浴びせられる。このような習慣はスペインほぼ全てのクラブに存在するが、バルセロナは特にこれが顕著。結果よりも内容の価値が遥かに大きい点でこのクラブは"異常"な存在であるとも言える。

「カンテラ」と呼ばれる下部組織が非常に発達しており、数々の名選手が輩出されている。また、カンテラ出身の選手はサポーターから絶大な声援を受ける。

バスケットボール、ハンドボール、ローラーホッケーのチームもある。

エクアドルのサッカークラブ、バルセロナSCはバルセロナからの移民がエクアドルのグアヤキルで設立したもので、クラブ自体には何の繋がりも無い。ただ、エンブレムは非常に似ており、FCバルセロナも親善試合を行ったことがある。


[編集] 歴史
1899年にスイス人実業家ハンス・カンパーら11名により創立。チームカラーは、FCチューリッヒから由来する。初代会長はイギリス人のウォルター・ワイルドである。

1929年から続くリーガ・エスパニョーラの初代王者である。

レアル・マドリードとの対戦はエル・クラシコと呼ばれ、1902年の第1回スペイン国王杯から因縁の対決(3-1でバルセロナの勝利)を続けている。その背景には、プリモ・デ・リベラ将軍による独裁政権時代(1923年-1930年)とフランコ独裁政権時代(1939年-1975年)のカタルーニャ弾圧がある。当時、カタルーニャの人々は自分たちの言葉・カタルーニャ語を話す事が許されず、カンプ・ノウの中でだけそれが許された。これによりスペインサッカー界の軸は、バルセロナとアスレティック・ビルバオからフランコの支援をうけたレアル・マドリードへと移った。この時代、主力のホセ・サミティエール がレアル・マドリードに移籍したが、これは後にベルント・シュスター、ミカエル・ラウドルップ、ルイス・フィーゴと続く“裏切り”と呼ばれるバルセロナからレアル・マドリードへの最初の移籍である。また逆にルイス・エンリケは、レアル・マドリードからバルセロナに移籍した選手である。選手の引き抜きにおいてもレアル・マドリードとは因縁があり、アルフレッド・ディ・ステファノ、ヨハン・クライフらを巡って争奪戦を繰り広げた。

1988年から1996年にかけて、ヨハン・クライフ監督時代にチームは、その豪華なメンバーと強さからエル・ドリーム・チームと呼ばれ、リーガ4連覇・UEFAチャンピオンズリーグ初制覇を果たす。

その後、1990年代末から2000年代初頭にかけては成績が低下。タイトルから遠ざかる時期が続いた。2000年には、チームの主力であるルイス・フィーゴがバルセロナからレアル・マドリードに移籍した際に激しい反発を呼び、カンプ・ノウでの試合では激しいブーイングと物の投げ込みにより、一時試合が中断される騒ぎとなった。2003年、フランク・ライカールトが監督に就任し、2005年にリーグ優勝。2006年にリーグ連覇。さらには2度目のUEFAチャンピオンズリーグ制覇を達成する。ただし、対アーセナルの決勝ではそれまで大会を通じて無失点と絶好調だったアーセナルGKイェンス・レーマンが完全に抜け出したエトーをPA外で手を引っ掛けて倒しレッド・カード受けたが(後に主審が「プレーをそのまま流してジュリのゴールを認めてレーマンにはイエロー・カードでもよかったかもしれない」と語った)、その後も明らかなエブエのダイブから得たFKからアーセナルの先制ゴール、オフサイドにも見えるエトーの同点ゴールを認めるなど、勝ったバルサ側、負けたアーセナル側両方から少なからず審判の判定に批判の声がある。

2006年7月21日、「ラポルタは任期切れである」との反対派陣営からの訴えをバルセロナ地裁が認めたため、この判決を受けてラポルタは26日に会長職を辞任、新たに会長選挙が行われる事となった。しかし、サッカー部門の成績やクラブ財政再建も上々で仕事ぶりに異を唱える声は少なく、結局他の立候補者がなかったため自動的に再任された。


[編集] ユニフォーム
この節は、書きかけです。加筆、訂正して下さる協力者を求めています。
ユニフォームの色 カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 青とえんじ 青 青
FP(2nd) オレンジ オレンジ オレンジ
GK(1st)
GK(2nd)




 
FP 1st



 
FP 2nd





 
GK 1st



 
GK 2nd


06/07シーズン開始当初はスポンサーロゴ無しのユニフォームを使用していたが、ユニセフとの契約がまとまった後は全ての公式戦でユニセフロゴが刺繍されたものを使用している。ロゴ本来の色は白であるが、そのクラブ事情ゆえにホームは黄色、アウェイは水色のロゴになった。
2005-2006シーズンのファーストユニフォームのパンツはえんじ色だった。
セカンドユニフォームの配色は毎年異なる。2005-2006シーズンはシャツがピスタチオグリーン(蛍光色)、パンツが紺色、2004-2005シーズンはシャツが青色と紺色の縦ストライプだった。
昨季の2ndユニフォームはサードユニフォームとして使用される。
バスケットボールなど、サッカー以外のチームでも青色とえんじ色の縦ストライプのユニフォームを用いている。こちらはフットボール部門とは違い、既に商業的な胸スポンサーロゴ契約が結ばれている。

[編集] タイトル

[編集] 国内タイトル
スペインリーグ : 18回
1928-1929、1944-1945、1947-1948、1948-1949、1951-1952、1952-1953、1958-1959、1959-1960、1973-1974、1984-1985、1990-1991、1991-1992、1992-1993、1993-1994、1997-1998、1998-1999、2004-2005、2005-2006
スペインカップ : 24回
1909-1910、1911-1912、1912-1913、1919-1920、1921-1922、1924-1925、1925-1926、1927-1928、1941-1942、1950-1951、1951-1952、1952-1953、1956-1957、1962-1963、1967-1968、1970-1971、1977-1978、1980-1981、1982-1983、1987-1988、1989-1990、1996-1997、1997-1998
スペインリーグカップ : 2回
1982-1983、1985-1986
スペインスーパーカップ : 7回
1984年、1992年、1993年、1995年、1997年、2005年、2006年

[編集] 国際タイトル
UEFAチャンピオンズリーグ : 2回
1991-1992、2005-2006
UEFAカップウィナーズカップ : 4回
1978-1979、1981-1982、1988-1989、1996-1997
UEFAカップ : 3回(フェアーズ・カップ優勝含む)
1955-1958、1958-1960、1965-1966
UEFAスーパーカップ : 2回
1992年、1997年
ラテン・カップ : 2回
1949年、1952年

[編集] 近年の成績
2001-2002 リーガ・エスパニョーラ 4位 コパ・デル・レイ 初戦敗退 UEFACL ベスト4
2002-2003 リーガ・エスパニョーラ 6位 コパ・デル・レイ 初戦敗退 UEFACL ベスト8
2003-2004 リーガ・エスパニョーラ 2位 コパ・デル・レイ ベスト8 UEFA杯ベスト16
2004-2005 リーガ・エスパニョーラ 優勝 コパ・デル・レイ 初戦敗退 UEFACL ベスト16
2005-2006 リーガ・エスパニョーラ 優勝 コパ・デル・レイ ベスト8 UEFACL 優勝
2006-2007 リーガ・エスパニョーラ 2位 コパ・デル・レイ ベスト4 UEFACL ベスト16 クラブW杯準優勝

[編集] 歴代スタジアム
カレル・インダストリア 1908 - 1922
レス・コルツ 1922 - 1957
カンプ・ノウ 1957 - 現在

[編集] 現所属メンバー
Pos. 背番号 国籍 選手名(日本語表記) 選手名(原語表記) 前所属チーム 備考
監督   フランク・ライカールト Franklin Edmundo Rijkaard スパルタ・ロッテルダム  
助監督   ヨハン・ニースケンス Johannes Jacobus Neeskens オーストラリア代表(コーチ)  
GK 1 ビクトール・バルデス Victor Valdes Arribas FCバルセロナB
  25 アルベルト・ジョルケラ Albert Fortia Jorquera FCバルセロナB
  28 ルーベン・マルティネス Ruben Ivan Martinez Andrade FCバルセロナB  
DF 2 ジュリアーノ・ベレッチ Juliano Haus Beletti ビジャレアル 国籍あり
  4 ラファエル・マルケス Rafael Marquez Álvarez モナコ 国籍あり
  5 カルレス・プジョル Carles Puyol Saforcada FCバルセロナB  カピタン
  11 ジャンルカ・ザンブロッタ Gianluca Zambrotta ユベントス  
  12 ガブリエル・ミリート Gabriel Alejandro Milito サラゴサ 国籍あり
  16 シウビーニョ Silvio Mendes Campos Junior セルタ 国籍あり
  21 リリアン・テュラム Lilian Ulien Thuram ユベントス  
  22 エリック・アビダル Éric Abidal リヨン  
  23 オレゲール・プレサス Oleguer Presas Renom FCバルセロナB
MF 3 ティアゴ・モッタ Thiago Motta FCバルセロナB 国籍あり
  6 シャビ・エルナンデス Xavier Hernandez Creus FCバルセロナB  第3カピタン
  8 アンドレス・イニエスタ Andres Iniesta Luján FCバルセロナB  
  15 エジミウソン Edmilson Jose Gomes de Moraes リヨン 国籍あり
  17 トゥーレ・ヤヤ Gnégnéri Yaya Touré モナコ  
  20 デコ Anderson Luis de Souza "Deco" ポルト  
FW 7 エイドゥル・グジョンセン Eidur Gudjohnsen チェルシー  
  9 サミュエル・エトー Samuel Fils Eto'o マジョルカ  
  10 ロナウジーニョ・ガウーショ Ronaldo de Asiss Moreira パリ・サンジェルマン 第2カピタン
  14 ティエリ・アンリ Thierry Daniel Henry アーセナル  
  18 サンティアゴ・エスケーロ Santiago Ezquerro Marin アスレティック・ビルバオ  
  19 リオネル・メッシ Lionel Andres Messi FCバルセロナB 国籍あり
  - ジョバニ・ドス・サントス Giovani dos Santos Ramírez FCバルセロナB  
  - ボージャン・クルキック Bojan Krkić FCバルセロナB  





<4-3-3> 2004年から現在までこのシステムを採用。



V.バルデス
# 1ザンブロッタ
# 11G.ミリト
# 12プジョル
# 5アビダル
# 22ヤヤ・トゥーレ
# 17チャビ
# 6イニエスタ
# 20メッシ
# 19エトー
# 7ロナウジーニョ
# 10
[編集] バスケットボール
正式にはウィンタートゥールFCB(Winterthur FCB)と呼ばれる。スペインリーグ1部ACBでは14度の優勝を誇る名門チームである。


[編集] 06/07の所属選手
5 SG ジャンルカ・バシール
6 SG マルク・フェルナンデス
8 PF ジョルディ・トリアス
9 C デニス・マルコナート
10 PG ヤカ・ラコヴィッチ
11 SG ファン・カルロス・ナヴァーロ
14 SF ロドリゴ・デ・ラ・フエンテ
17 C フラン・ヴァスケス
20 PF ミハリス・カキオツィス
21 PG ロコ・レニ・ユキッチ
41 C マリオ・カスン
44 SG ロジェール・グリマウ
監督 & コーチ

デュスコ・イバノビッチ
シャビ・パスクアル
ヨセップ・ベレカル

[編集] 歴代監督
氏名 国籍 期間
ジョン・バロー イングランド 1917
ジャック・グリーンウェル イングランド 1917-1924
ジェスツァ・ポスゾニー ハンガリー 1924-1925
ラルフ・カービー イングランド 1925-1926
ジャック・デムビー イングランド 1926-1927
ローマ・フォルンス スペイン 1927-1929
ジェームス・ベラミー イングランド 1929-1931
ジャック・グリーンウェル イングランド 1931-1933
ジャック・デムビー イングランド 1933-1934
フェレンツォ・プラトコ ハンガリー 1934-1935
パトリック・オコーネル アイルランド 1935-1936
ジョセップ・プラナス スペイン 1938-1941
ラモン・グスマン スペイン 1941-1942
ジョアン・ジョセップ・ノゲス スペイン 1942-1944
ホセ・サミティエール スペイン 1944-1947
エンリケ・フェルナンデス ウルグアイ 1947-1950
ラモン・ローレンス スペイン 1950
フェルナンド・ダウシク チェコ 1950-1954
サンドロ・プッポ イタリア 1954-1955
フェレンツォ・プラトコ ハンガリー 1955-1956
ドメネク・バルマナヤ スペイン 1956-1958
エレニオ・エレーラ アルゼンチン 1958-1960
エンリク・ラバッサ スペイン 1960
リュビサ・ブロチッチ クロアチア 1960-1961
エンリケ・オリサオラ スペイン 1961
ルイス・ミロ スペイン 1961-1962
ラディスラオ・クバラ ハンガリー 1962
ジョセップ・ゴンサルボ スペイン 1962-1963
セサール・ロドリゲス スペイン 1963-1964
ヴィセンツォ・サソ スペイン 1964-1965
ロケ・オルセン アルゼンチン 1965-1967
サルバドール・アルティガス スペイン 1967-1969
ジョセップ・セゲール スペイン 1969-1970
ビク・バッキンガム イングランド 1971-1975
リヌス・ミケルス オランダ 1971-1975
ハンス・ヴァイスヴァイラー 西ドイツ 1975-1976
ラウレアノ・ルイス スペイン 1976
リヌス・ミケルス オランダ 1976-1978
ルシアン・ムレール フランス 1978-1979
ホアキム・リフェ スペイン 1979-1980
エレニオ・エレーラ アルゼンチン 1980-1981
ウド・ラテック 西ドイツ 1981-1983
ジョセップ・ルイス・ロメロ スペイン 1983
セサール・ルイス・メノッティ アルゼンチン 1983-1984
テリー・ベナブルズ イングランド 1984-1987
ルイス・アラゴネス スペイン 1987-1988
ヨハン・クライフ オランダ 1988-1996
カルロス・レシャック スペイン 1996
サー・ボビー・ロブソン イングランド 1996-1997
ルイス・ファン・ハール オランダ 1997-2000
ロレンツォ・セラ・フェレール スペイン 2000-2001
カルレス・レシャック スペイン 2001-2002
ルイス・ファン・ハール オランダ 2002-2003
ラドミール・アンティッチ セルビア・モンテネグロ 2003
フランク・ライカールト オランダ 2003-


[編集] 歴代会長
氏名 国籍 期間
ウォルター・ワイルド イングランド 1899-1901
バルトミュー・テラデス 1901-1902
ポール・ハース 1902-1903
アルサー・ウィティー 1903-1905
ジョセップ・ソラー 1905-1906
ジュリ・マリアル 1906-1908
ヴィセン・レイグ 1908
ハンス・カンパー スイス 1908-1909
オット・グメリン 1909-1910
ハンス・カンパー スイス 1910-1913
フランシス・デ・モホ 1913-1914
アルバー・プレスタ 1914
ホアキン・ペリス・デ・バーガス 1914-1915
ラファエル・ロパート 1915-1916
ガスパー・ロセス 1916-1917
ハンス・カンパー スイス 1917-1919
リカルド・グラエルス 1919-1920
ガスパー・ロセス 1920-1921
ハンス・カンパー スイス 1921-1923
エリック・カルドナ 1923-1924
ハンス・カンパー スイス 1924-1925
アラディー・バラガー 1925-1929
トーマス・ロセス 1929-1930
ガスパー・ロセス 1930-1931
アントニ・オリバー 1931
ジョアン・コマ 1931-1934
エステベ・サーラ 1934-1935
ジェセップ・スニョール・ガリーガ 1935-1936
エンリケ・ピネイロ 1940-1942
ジョセフ・ヴィダル・リバス 1942
エンリケ・ピネイロ 1942-1943
ジョセフ・アントニ・デ・アルベルト 1943
ジョセフ・ヴェンドレル 1943-1946
アグスティ・モンテリ・ガロバルト 1952-1953
エンリック・マルティ 1952-1953
ミロ・サンス 1953-1961
エンリック・ラウデ 1961-1968
ナルシス・デ・カレーラス 1968-1969
アグスティ・モンタル 1969-1977
レイモン・カラスコ 1977-1978
ホセ・ルイス・ヌニェス 1978-1999
ジョアン・ガスパール 1999-2003
エンリック・レイナ スペイン 2003
ジョアン・ラポルタ スペイン 2003-


[編集] 歴代所属選手
(カンテラ出身選手は、トップチーム・デビュー年度から表記)


[編集] GK
リカルド・サモラ 1919-1923
フェレンツォ・プラトコ 1923-1930
アントニ・ラマレッツ 1947-1962
サルバドール・サルドゥニ  1960-1976
アンドニ・スビサレッタ 1986-1994
ビトール・バイーア 1996-1999
ルート・ヘスプ 1997-2000
フランセスク・アルナウ 1998-2001
ホセ・マヌエル・レイナ 2001-2002
ロベルト・ボナーノ 2001-2003
ビクトール・バルデス 2002-
リュストゥ・レチベル 2003-2004
アルベルト・ジョルケラ 2004-
ルーベン・マルティネス 2004-

[編集] DF
ミゲリ 1973-1989
ラモン・アレサンコ 1980-1993
ロナルド・クーマン 1989-1995
ナンド 1990-1992
アルベルト・フェレール 1990-1998
ミゲル・アンヘル・ナダル 1991-1999
セルジ 1993-2002
アベラルド 1994-2002
ゲオルゲ・ポペスク 1995-1997
ローラン・ブラン 1996-1997
ウィンストン・ボハルデ 1997-2001
ミハエル・ライツィハー 1997-2004
フランク・デ・ブール 1999-2003
カルレス・プジョル 1999-
フランチェスコ・ココ 2001-2002
パトリック・アンデション 2001-2004
ファン・パブロ・ソリン 2002-2003
ジョバンニ・ファン・ブロンクホルスト 2003-2007
ラファエル・マルケス 2003-
オレゲール 2003-
ジュリアーノ・ベレッチ 2004-
シウビーニョ 2004-
エジミウソン 2004-
ダミア 2004-2005
ロドリ 2004-2006
カルロス・ゴンザレス・ペーニャ
ジャンルカ・ザンブロッタ 2006-
リリアン・テュラム 2006-

[編集] MF
ホセ・サミティエール 1919-1933
ルイス・スアレス 1954-1961
ペドロ・マリア・ザバルザ 1968-1974
ヨハン・ニースケンス 1974-1979
ベルント・シュスター 1980-1988
アイトール・ベギリスタイン 1988-1995
エウセビオ 1988-1995
ホセ・マリア・バケーロ 1988-1997
ギジェルモ・アモール 1988-1998
ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア 1990-1994
ジョゼップ・グアルディオラ 1990-2001
ゲオルゲ・ハジ 1994-1996
ロベルト・プロシネチキ 1995-1996
イバン・デ・ラ・ペーニャ 1995-1998
ジオバンニ 1996-1999
エマニュエル・アムニケ 1996-2000
ルイス・エンリケ 1996-2004
シャビ 1998-
ボウデヴィン・ゼンデン 1998-2001
フィリップ・コクー 1998-2004
ガブリ 1999-2006
ロナルド・デ・ブール 1999-2000
ヤリ・リトマネン 1999-2001
エマニュエル・プティ 2000-2001
リバウド 1997-2002
マルク・オーフェルマルス 2000-2004
ジェラール・ロペス 2000-2004
ファビオ・ロッチェンバック 2001-2003
ティアゴ・モッタ 2001-
アンドレス・イニエスタ 2002-
フアン・ロマン・リケルメ 2002-2003
ガイスカ・メンディエタ 2002-2003
ホアン・ベルドゥ 2002-2006
ルイス・ガルシア 2003-2004
リカルド・カレスマ 2003-2004
エドガー・ダーヴィッツ 2004
デコ 2004-
デメトリオ・アルベルティーニ 2004-2005
マルク・ファン・ボメル 2005-2006
ランザロート・ロロ
ヤヤ・トゥーレ 2007-

[編集] FW
イラリオ 1939-1940
マリアノ・マルティン 1939-1946
セサル 1939-1954
エスタニスラオ・バソラ 1946-1958
ラディスラオ・クバラ 1951-1961
サンドール・コチシュ 1958-1965
ペドロ・ザバラ 1961-1967
ホセ・アントニオ・ザルドゥア 1961-1971
カルロス・レシャック 1965-1981
ヨハン・クライフ 1973-1978
アラン・シモンセン 1979-1982
エンリケ・カストロ・キニ 1980-1984
ディエゴ・マラドーナ 1982-1984
ゲーリー・リネカー 1986-1989
フリオ・サリナス 1988-1994
ミカエル・ラウドルップ 1989-1994
フリスト・ストイチコフ 1990-1995,1996-1998
ロマーリオ 1993-1995
ロナウド 1996-1997
クリストフ・デュガリー 1997-1998
ソニー・アンデルソン 1997-1999
パトリック・クライファート 1998-2004
ルイス・フィーゴ 1995-2000
シモン・サブロサ 1999-2001
ダニ 1999-2004
ハビエル・サビオラ 2001-2004, 2006-2007
セルヒオ・ガルシア 2003-2004
ロナウジーニョ 2003-
リオネル・メッシ 2003-
ヘンリク・ラーション 2004-2006
サミュエル・エトオ 2004-
マクシ・ロペス 2004-2006
リュドビク・ジュリ 2004-2007
クリスティアン・イダルゴ・ゴンサレス 2004-2006
サンチャゴ・エスケーロ 2005-
エイドゥル・グジョンセン 2006-
ランザロート・マヌエル・マノロ
オリオール・リエラ
フランシスコ・ペラル
ティエリ・アンリ 2007-

[編集] 歴代バロンドール受賞選手
(受賞時 FCバルセロナ所属)

ルイス・スアレス 1960
ヨハン・クライフ 1973 1974
フリスト・ストイチコフ 1994
リバウド 1999
ロナウジーニョ 2005

[編集] 歴代得点王
(受賞時 FCバルセロナ所属)

氏名 国籍 シーズン 得点 試合数 1試合平均得点
マリアノ・マルティン スペイン 1942-1943 32 26 1.23
セサル スペイン 1948-1949 28 26 1.08
レー パラグアイ 1964-1965 25 30 0.83
カルロス・レシャック スペイン 1970-1971 17 26 0.65
クランクル スペイン 1978-1979 29 34 0.85
エンリケ・カストロ・キニ スペイン 1980-1981 20 34 0.59
エンリケ・カストロ・キニ スペイン 1981-1982 26 34 0.76
ロマーリオ ブラジル 1993-1994 30 38 0.79
ロナウド ブラジル 1996-1997 34 37 0.81
サミュエル・エトー カメルーン 2005-2006 26 34 0.76


[編集] 歴代サモラ賞受賞者
(受賞時 FCバルセロナ所属)

氏名 国籍 シーズン 被得点 試合数 失点率
ジュアン・ベラスコ スペイン 1947-1948 31 26 1.19
アントニ・ラマレッツ スペイン 1951-1952 40 29 1.43
アントニ・ラマレッツ スペイン 1955-1956 24 29 0.83
アントニ・ラマレッツ スペイン 1956-1957 35 29 1.2
アントニ・ラマレッツ スペイン 1958-1959 24 27 0.89
アントニ・ラマレッツ スペイン 1959-1960 25 39 0.64
ホセ・マニュエル・ペスド スペイン 1965-1966 15 22 0.68
サルバドール・サルドゥニ スペイン 1968-1969 18 30 0.6
ミゲル・レイナ スペイン 1972-1973 21 34 0.62
サルバドール・サルドゥニ スペイン 1973-1974 19 24 0.8
サルバドール・サルドゥニ スペイン 1974-1975 23 32 0.72
ペドロ・マリア・アルトーラ スペイン 1977-1978 26 25 1.04
フランセスコ・ウルッティ スペイン 1983-1984 22 33 0.67
アンドニ・スビサレッタ スペイン 1986-1987 29 43 0.67
ビクトル・バルデス スペイン 2004-2005 25 35 0.71


[編集] 関連項目
バルセロナSC
ジミー・ジャンプ・・・実に迷惑なバルサファン
FCバルセロナB
バルサTV
RAC1
キャプテン翼

[編集] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、FCバルセロナに関連するマルチメディアがあります。FC Barcelona
FCバルセロナ公認 ソシオ入会受付オフィス(日本語)
FCバルセロナ キッズキャンプ in JAPAN 2007(日本語)
ホームユニフォーム
アウェイユニフォーム
Network Organisation Football Agency Ltd.
FC Barcelona personal website collection (FCB Fan Clubs around the world, programme, ticket, pennant and match day badges)



FCバルセロナ - 現所属メンバー
1 バルデス | 2 ベレッチ | 3 モッタ | 4 マルケス | 5 プジョル | 6 シャビ | 7 グジョンセン | 8 イニエスタ | 9 エトオ | 10 ロナウジーニョ | 11 ザンブロッタ | 12 ミリート | 14 アンリ | 15 エジミウソン | 16 シウビーニョ | 17 トゥーレ | 18 エスケーロ | 19 メッシ | 20 デコ | 21 テュラム | 22 アビダル | 23 オレゲール | 25 ジョルケラ | 28 ルーベン | 32 クロサス | 33 ジェフレン | 監督: ライカールト

リーガ・エスパニョーラ プリメーラ・ディビシオン2007-08
アルメリア | アトレティコ・マドリード | エスパニョール | オサスナ | サラゴサ | セビージャ | デポルティーボ・ラ・コルーニャ | バリャドリード | バルセロナ | バレンシア | ビジャレアル | ビルバオ | ヘタフェ | ベティス | レアル・マドリード | マヨルカ | ムルシア | ラシン・サンタンデール | レクレアティーボ | レバンテ |


UEFAチャンピオンズリーグ[表示]
2006-2007
AEKアテネ | アーセナル | インテル | オリンピアコス | ガラタサライ | コペンハーゲン | シャフタール・ドネツク | ステアウア・ブカレスト | スパルタク・モスクワ | スポルティング・リスボン | セルティック | CSKAモスクワ | チェルシー | ディナモ・キエフ | バイエルン・ミュンヘン | バルセロナ | バレンシア | ハンブルガーSV | PSVアイントホーフェン | ブレーメン | ベンフィカ | ポルト | ボルドー | マンチェスター・ユナイテッド | ACミラン | リヴァプール | リヨン | リール | レアル・マドリード | レフスキ・ソフィア | ローマ

ヨーロッパ・ビッグクラブ連合体[表示]
"G-14" ※実際は18チーム

アーセナル | アヤックス | インテル | バイエル・レバークーゼン | バイエルン・ミュンヘン | パリ・サンジェルマン | バルセロナ | バレンシア | PSVアイントホーフェン | ボルシア・ドルトムント | ポルト | マルセイユ | マンチェスター・ユナイテッド | ACミラン | ユヴェントス | リヴァプール | リヨン | レアル・マドリード


カテゴリ: FCバルセロナ | スペインのバスケットボールチーム
この項目ではサッカーチームについて記述しています。同名のハンドボールチームについてはFCバルセロナ (ハンドボール)をご覧ください。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

打倒、オーストラリア、サンドイッチ・ビドゥカはおいしいぞ?

オシム監督ビドゥカ封じ実演



 
オシムジャパンが宿敵を「ツープラトン殺法」で完封
する。

アジア杯3連覇を目指す日本代表は19日、準々決勝オーストラリア戦に向けて練習を行った。


イビチャ・オシム監督
(66)


は、練習前から相手の得点シーンダイジェストビデオを選手に見せ、注意を喚起。


さらに練習中も身ぶり手ぶりを交えながら、
FWビドゥカ対策をDF陣に教授した。


2人がかりの守備で前線の基点をつぶし、攻撃の形をつくらせない作戦で勝利を目指す。

 
193センチの長身に、ビドゥカ本人が乗り移ったようだった


静まり返った練習場に、
宿敵のプレーを実演するオシム監督の指示
が響いた。

「相手は高原よりでかくてうまい。DFだけで止められると思うな!ボランチと挟み込め!」。

DF中沢を背負って、身ぶり手ぶりで巨体FWの怖さを力説する。「1人で体を合わせるな。力が強いから、簡単にゴール方向を向かれるぞ!」と声をからした。

 中沢とMF中村憲らボランチがビドゥカを挟み込む。アジア最強の肉弾FWには「ツープラトン殺法」が不可欠だった。練習前にビデオを見た中村憲は「相手はビドゥカが体を張っての攻撃が多い」と分析。昨年のW杯での対戦でも、中沢ら日本DF陣を軽々と弾き飛ばしてロングボールをキープした。守備に追われ続けた日本は、終盤スタミナ切れ。3失点で逆転負けした。1対1では、W杯の失敗を繰り返しかねない。

 「指示についてはシークレット」と笑った中沢だが「オシムの教え」の重要性は認めた。登録ではビドゥカは体重97キロ。大柄なDFも「20キロ差ですね。体重で当たり勝とうと思ったら、生まれ変わって肉を食いまくるしかない」と苦笑する。だが一方で「重ければこっちより走れないはず。運動量を生かせば勝ち目はある」。全員で走ってビドゥカを挟み続ける。日本の強みを生かせば、W杯16強の強豪といえど恐れることはない。

 相手チームスタッフが視察したこともあり「作戦」を実際に練習はしなかった。だが「次の1手」は準備した。最前線でポスト役が落としたロングボールを、中盤の選手が奪う守備練習を徹底。もしもツープラトン包囲網がビドゥカに競り負けても、3人目以降の選手が攻撃は防ぐ構えだ。日本式サンドイッチが、オージービーフの「うまみ」を挟み込んで封じる。【塩畑大輔】
DF中沢佑二( 左)に豪州FWビドゥカのマークの仕方を指導するオシム監督
[2007年7月20日8時35分 日刊スポーツより]

豪州ビドゥカ ア杯で代表引退


ビドゥカ引退
ですか・・




オーストラリア代表FWビドゥカ(31)

が、

7月のアジア・カップを最後に


代表活動から引退する


見通しであることが15日、分かった。

地元紙の報道によると、イングランド・プレミアリーグのニューカッスルと契約したばかりの同選手は13日にオーストラリア協会に代表を退く意向を伝えたが、

アーノルド代表監督アジア・カップ出場を説得された。
(AP=共同)




▽記事全文▽

【6月29日 AFP】サッカー、7月7日から29日の日程で開催される第14回アジアカップ(Asian Cup)に初参戦するオーストラリア代表のキャプテンのマーク・ビドゥカ(Mark Viduka)は、シンガポールのホテルで記者会見に臨んだ。

 

7月の今大会を最後に代表から引退する見通しであるビドゥカ


は、「大会に向けて個人的にすごく楽しみだし、興奮もしているね」と語り、大会初参加に高いモチベーションを抱いていることを強調した。

 「アジアでの大会は初めてで、我々がどれくらいの位置にいるかを知るのに適した大会になるだろう」とコメントするビドゥカは、「06サッカーW杯はとても素晴らしい大会になった。しかし今はそこから進んで、アジアで自分たちの力を証明しなけらばならない」とオーストラリア代表が見せた06サッカーW杯の活躍を忘れ、次に進むべきだとチームに注意を呼びかけた。

 また、今季(07-08シーズン)からイングランド・プレミアリーグのニューカッスル(Newcastle)に加入したビドゥカは、「ニューカッスルはいい選手やストライカーが在籍するクラブだから、プレシーズンからクラブと一緒に準備を進めることはとても大きなアドバンテージになる。クラブから見れば、アジアカップに参加することは好ましくないことだ。けどそれを考えても私にとって、オーストラリアのためにプレイすることは重要すぎるんだ」と代表でプレイすることの重要性を訴えた。


 ビドゥカは、グレアム・アーノルド(Graham Arnold)監督の戦術において中心選手であり、素早いMFが彼をサポートしながらボールをキープしてもらうような重要な役目を担うことが期待されている。

 オーストラリアは、初戦でオマーンと、続いて第2戦でイラク、第3戦でタイと対戦する。(c)AFP


イラク オマーンと引き分けグループ首位で準々決勝へ

内戦の続くイラク、せめてサッカーで頑張って!!


イラクとは



イラク共和国(イラクきょうわこく)は中東・西アジアの国である。首都はバグダード(バグダッド)。サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。通称はイラク。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。

(アラビア語: 神は偉大なり) 国歌 : 我が祖国 公用語 アラビア語、クルド語[1]
首都 バグダード[2]
最大の都市 バグダード
大統領 ジャラル・タラバニ
首相 ヌーリ・マリキ
面積
- 総計
- 水面積率 世界第57位
437,072km²
1.1%
人口
- 総計(2004年)
- 人口密度 世界第44位
25,374,691人
58人/km²
GDP(自国通貨表示)
- 合計(2005年)
48兆9566億イラク・ディナール
GDP(MER)
- 合計(2006年) 世界第位
406億6000万ドル
GDP(PPP)
- 合計(2006年)
- 1人当り 世界第64位
879億ドル
2,900ドル
独立
- 日付 英国の委任統治から
1932年10月3日
CPAから
2004年6月28日
通貨 イラク・ディナール(IQD)
時間帯 UTC (+3)(DST: なし)
ccTLD IQ
国際電話番号 964

^ 4つのクルド地方では第一公用語
^ クルド人自治区の首府はアルビール
国歌: クルド人はEy Reqîb(守護者よ)を唄う
目 次
1 国名
2 歴史
2.1 メソポタミア
2.2 イスラム帝国
2.3 オスマン帝国
2.4 大英帝国
2.5 王政・独裁・戦争
2.6 アメリカの侵攻と新政府
3 政治
3.1 司法
3.2 外交
4 地理
4.1 動物
4.2 植物
5 地方行政区分
6 経済
6.1 農業
6.2 工業
6.3 エネルギー
6.4 交通
6.5 貿易
7 国民
7.1 民族
7.2 言語
8 宗教
9 文化
9.1 教育
9.2 食文化
9.3 イスラム美術
9.4 音楽
9.5 世界遺産
9.6 祝祭日
10 関連項目
11 外部リンク
11.1 公式
11.2 その他
12 参考文献



公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Iraq。

日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。

アラビア語のイラーク (al-‘Irāq) は、古代セム語で「川と川の間」という意味の "Uruk" に由来する。この場合の川と川とは、チグリス川とユーフラテス川のことである。

イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Irāq al-‘Arabī) と、ザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Irāq al-Ajamī) からなるが、現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで、「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。

1921年 - 1958年:イラク王国
1958年 - 現在:イラク共和国

[編集] 歴史
詳細はイラクの歴史を参照


キシュから出土した石灰岩の書き板(紀元前3500年)
[編集] メソポタミア
現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方及びエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。

紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。


メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。

しかし、ガラス容器作成では、まずメソポタミアが、ついでエジプトが先行した。イラクのテル・アル・リマー遺跡からは紀元前16世紀のガラス容器、それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し、塊状の色ガラスを並べたあと、熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になると、ウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が、ヌジ遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。


[編集] イスラム帝国
西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム(イスラム教徒)からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国(サーサーン朝)軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、ビザンティン(東ローマ)帝国との絶え間ない抗争と王位をめぐる内紛のために疲弊していた。

サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。

これ以来、イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎ、アラブによってイラク(イラーク)と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化・イスラム化していった。

8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営し、アッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。


[編集] オスマン帝国
1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝(イルハン朝、ティムール朝など)の勢力下に入った。

16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、オスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服、1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世が奪還した。

1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。



[編集] 大英帝国
19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダードとバスラ、モースルをそれぞれ州都とする3つの州として統治していた。

第一次世界大戦末になって、イギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配する協定(サイクス・ピコ協定など)を結び、現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められた。

大戦が終結した時点でもモースルは依然としてオスマン帝国の手中にあったが、イギリスはセーヴル条約によりモースルを放棄させ、1921年に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領のイラクを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。

一方で、オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたが、サバーハ家のアミール(首長)のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは、大戦以前の1899年に既にイギリスの保護国となっていたことから、新たに形作られたイラク国から切り離され、1961年に別の国として独立する。この経緯がイラクのクウェート侵攻の理由となる。


[編集] 王政・独裁・戦争
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め,1932年にはイラク王国として独立を達成した。1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成したが、同年アブデル・カリム・カセム准将率いる自由将校団のクーデターによって倒され、共和制となった。そのカセム政権も1963年にバース党将校団のクーデターで倒れる。かくしてバース党が権力を握り、1968年にアフマド・ハサン・アル=バクル、続いて1979年にサッダーム・フセインが大統領に就任した。

1984年にイラクはアメリカと国交を回復し、1988年に至るまでサッダーム・フセイン政権に総額297億ドルの兵器供給を行った。サッダーム・フセイン政権は1980年から1988年まで国境紛争でイランと戦い(イラン・イラク戦争)、この戦争のさなか1988年3月に、フセイン政権が国内に住むクルド人に対して、毒ガスを使って大量虐殺を行った。当時の米国政府レーガン政権もこれを黙認した。

1990年に石油資源を求め隣国のクウェートに侵攻、国連の決定による1991年の湾岸戦争でアメリカを中心とする多国籍軍との戦いに敗れて、周辺国からも国際社会からも孤立した。また湾岸戦争後、兵器購入や研究を困難にするための経済制裁によって市民は貧困に喘いだ(イラク武装解除問題)。


[編集] アメリカの侵攻と新政府

イラクをパトロールするアメリカ軍(2005年6月)2003年3月、国連決議に反して大量破壊兵器を保有しているとして、アメリカ主導によるイラク戦争が起こり、フセイン政権は崩壊し、フセイン大統領もアメリカ軍に拘束された。その後アメリカ・イギリスを中心とする有志連合の軍事占領下に置かれ、戦後一年余に渡って連合国暫定当局(CPA)によって統治されていたが、2004年6月28日をもって暫定政権に主権が移譲されて暫定行政当局は解散した。また、同時に有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり、治安維持などに従事することとなった。暫定政権は2005年1月30日にイラクで初めての議会選挙を実施し、3月16日に初の国民議会が召集された。この議会で準備が進められた移行政府は4月28日に発足して新憲法草案の政策に取り掛かり、10月25日に憲法草案を賛成多数で可決承認させ、12月15日に正式政府発足に向けて2度目の議会選挙を行った。しかし、政権を巡りスンニ派とシーア派とクルド人勢力と3大勢力の対立があり争いが発生し、実質は内戦状態・無政府状態であるとされ、1日あたり約60人のイラク人が犠牲になっていると言われている。

2006年4月22日にシーア派議員連合のイラク統一同盟がヌーリ・マリキを首相に選出、5月20日に米国のイラク民主化プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足した。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足であった。


[編集] 政治
サッダーム政権当時の政治は、革命指導評議会(RCC)が担っていた。行政権はもちろん、立法権も評議会に属する9人の元にあった。さらに、RCC議長は、大統領、首相、国軍最高司令官を兼ねており、極端な権力の集中が見られた。定数250人の国会にあたる一院制の国民議会が存在していたが、RCCが国会の議決を差し戻すことができた。

イラクの新憲法は、2005年10月15日の国民投票での承認により成立した。

国家元首の役割を果たすのは、共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれ、イラク国民の3大勢力である、スンナ派(スンニ派)、シーア派、クルド人から各1名ずつが国民議会によって選ばれる。評議会は、国民統合の象徴として、儀礼的職務を行う。

行政府の長である首相は、国民議会議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名(首相・副首相を除く)。

憲法は、立法府について両院制を定めるが、上院は未成立。下院である国民議会は275議席、任期4年で、第1回総選挙が2005年12月15日に行われた。政党(政党連合)別獲得議席数は以下の通りである。

統一イラク同盟: 128 - シーア派
クルディスタン同盟: 53 - クルド人
イラク合意戦線: 44 - スンナ派
イラク国民リスト: 25
国民対話イラク戦線: 11 - スンナ派
その他7党: 14
議会は、2006年3月16日に開会した。


[編集] 司法
サッダーム政権下の司法体系は大きく3つに分かれていた。下級裁判所、治安裁判所、シャリーアに基づいた判決が一部認められている家庭裁判所である。陪審制を採用していないほか、いずれも大統領に判決を覆す権利が与えられていた。

下級裁判所は刑事裁判の一審を担当する。二審は最高裁に相当する控訴裁判所である。ただし、法定刑が7年以上となる場合は、一審を介さず直接控訴裁判所が判決を下す。民事裁判は刑法以外に商法、民法に関わる裁判も扱う。

治安裁判所は刑法のうち、反体制色の強い犯罪、すなわち外国為替法、輸出入法違反、さらに禁止薬物の取引、軽度のスパイ活動を裁いた。

非常設の法廷として、国家安全保障に直接影響するとみなされた事件は別に設けられた特別裁判所の管轄となった。また、国家元首の暗殺等、体制中枢を狙った犯罪は革命裁判所が裁いた。


[編集] 外交
イラクと中東諸国との関係は多様である。

1990年に入ってイラクは、80年から88年にかけての戦争相手であったイランと国交を回復する。だが、両国の間にはまだ解決されるべき課題が残されている。その中には戦争捕虜の交換や、相手国内の武装反政府集団に対する援助をめぐる問題も含まれる。

エジプトは1979年にイスラエルとの和平協定を結ぶことになり、アラブ諸国に波紋を巻き起こすことになるが、イラクはそれに先立つエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領の和平へむけた取り組みを批判したことがきっかけで、1977年にエジプトから国交断絶を申し渡されていた。1978年にはアラブ連盟の会議はイラクの首都バグダッドで開催され、エジプトのアラブ連盟からの除名措置がとられる(エジプトの地位は1987年に回復される)。

しかしながら、エジプトはイラン・イラク戦争に際して、イラクに物的、外交的援助を行い、これがもとで両国の絆は深まることになる。1983年以来、イラクは「エジプトはアラブ諸国の中でしかるべき役割を担うべきだ」と度々主張し、1984年のイスラム諸国会議機構におけるエジプトの地位回復などを率先して行ってきた。

イラクとエジプトの関係は更に、1990年にイラクのクウェート侵攻に伴って敵対的なものになる。これはエジプトがイラクに反対し、アラブ合同軍などにも参加したためである。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。

シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題、ユーフラテス川の水域問題、石油輸送費、イスラエル問題への態度などをめぐって対立を続けた。シリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し、1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャール・アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが、外交面では依然として距離をおいた関係になっている。

ヨルダンとの関係は1980年、イラン・イラク戦争の勃発に際してヨルダンがイラクへの支持を表明したことから良好なものになっている。ヨルダンは湾岸戦争においてもイラクを支持、両国の関係を強めることになった。2000年に現在の国王が即位して以来、両国の関係はやや停滞気味にあるが、依然として良好なものにとどまっている。

イラクは中東戦争に際しては1948年、1967年、1973年に参戦するなどイスラエル問題について強硬な態度をとることが多い。イラン・イラク戦争中は、イスラエル問題についての態度を軟化させ(この時期、イラクはアメリカの支援を受けていた)、1982年のレーガン米国大統領による平和交渉にも反対せず、同年アラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章にも支持を表明している。しかし、戦後は態度を硬化させ、特に湾岸戦争以後は、イスラエルの全面的な解消を度々提唱している。湾岸戦争の際にはイラクは、クウェートからの撤退の条件としてイスラエルの解消を要求したこともあり、イスラエルの民間施設をスカッド・ミサイルによって攻撃したこともあった。


[編集] 地理
イラクの地理について、国土の範囲、地表の外形、地殻構造、陸水、気候の順に説明する。

イラクの国土はいびつな三角形をなしており、東西870km、南北920kmに及ぶ。国土の西端はシリア砂漠にあり、シリア、ヨルダンとの国境(北緯33度22分、東経38度47分)である。北端はトルコとの国境(北緯37度23分、東経42度47分)で、クルディスタン山脈に位置する。東端はペルシャ湾沿いの河口(北緯29度53分、東経48度39分)だ。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境(北緯29度3分、東経46度25分)の一部である。

イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる二本の大河、南側のユーフラテス川と北側のティグリス川だ。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠とネフド砂漠が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。砂漠側は最高高度1000mに達するシリア・アラビア台地を形成しており、緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。二本の大河周辺はメソポタミア平原が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって、人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と、上流のジジャーラ丘陵だ。なお、二本の大河はクルナの南で合流し、シャッタルアラブ川となる。直線距離にして約160km、川の長さにして190km流れ下り、ペルシャ湾に達する。ティグリス川の東は高度が上がり、イランのザグロス山脈に至る。バクダットと同緯度では400mから500m程度である。

イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなだらかでなくなっているのはザグロス山脈の峰と尾根が国境線となっているからだ。イラク最高峰のハジ・イブラヒーム山 (3600m) もザグロス山中、国境線沿いにそびえている。同山の周囲30km四方はイラクで最も高い山々が群立している。

このような地形が形成されたのは、イラクの国土がアラビアプレートとユーラシアプレートにまたがっているからだ。アラビアプレートはユーラシアプレート側に移動している。イラクとイランの国境線、さらにペルシャ湾北岸にわたって褶曲山脈であるザグロス山脈が形成されたのは、アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込んでいるためである。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり、2000mに達する峰が複数存在する。

ティグリス、ユーフラテスという2大河川が形成された理由も、ヒマラヤ山脈の南側にインダス、ガンジスという2大河川が形成されたのと同様、プレートテクトニクスで説明されている。

ティグリス・ユーフラテス合流地点から上流に向かって、かつては最大200kmにも伸びるハンマール湖が存在した。周囲の湿地と一体となり、約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯にはマーシュ・アラブ(沼沢地アラブ)と呼ばれる少数民族が暮らしており、アシと水牛を特徴とした生活を送っていた。しかしながら、20世紀後半から計画的な灌漑・排水計画が進められたため、21世紀に至ると、ハンマール湖は1/10程度まで縮小している。

イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がるミル湖だ。ネフド砂漠から連なるアルガダーフ・ワジなど複数のワジと地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長いアルウィバード・ワジは本流の長さだけでも400kmを上回り、4本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジはハウラーン・ワジであり、480kmに達する。


バクダット(標高34m)の月別最高・最低気温(赤棒)と平均降水量(青棒)イラクの気候は、ほぼ全土にわたり砂漠気候に分類される。チグリス側の北岸から北はステップ気候、さらに地中海性気候に至る。したがって、夏期に乾燥し、5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって、熱赤道が国土の南側を通過するため、7月と8月の2カ月は最高気温が50度を超える。ただし、地面の熱容量が小さく、放射冷却を妨げる条件がないため、最低気温が30度を上回ることは珍しい。

世界最高気温を1921年に記録したバスラ(58.8度)は30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バクダッドの平均気温は8.5度(1月)、34.2度(7月)だ。年降水量は僅かに140mmである。


[編集] 動物
砂漠気候を中心とする乾燥した気候、5000年を超える文明の影響により、野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物はレイヨウ、次いでガゼルである。肉食獣としては、ジャッカル、ハイエナ、キツネが見られる。小型ほ乳類では、ウサギ、コウモリ、トビネズミ、モグラ、ヤマアラシが分布する。

鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。ウズラ(水鳥でも捕食者でもない)、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、ワタリガラスが代表だ。


[編集] 植物
ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ Astragalus gummifer だ。樹皮から分布される樹脂をアラビアガムとして利用するほか、香料として利用されている。聖書の創世記にはトラガラントゴムノキと考えられる植物が登場する。北東に移動し、降水量が上昇していくにつれ、淡紅色の花を咲かせるオランダフウロ Erodium cicutarium、大輪の花が目立つハンニチバナ科の草、ヨーロッパ原産のムシトリナデシコが見られる。

ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、クコ、ハス、パピルス、ヨシが密生する。土手にはハンノキ、ポプラ、ヤナギも見られる。

ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ Quercus aegilips が有用だ。樹皮を採取し、なめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないが、イラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。イラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多い。


[編集] 地方行政区分
18の県 (محافظة、muḥāfaẓa、ムハーファザ) に分かれる。

バグダード県 (بغداد ; Baghdād) - 県都名同じ(バグダード)
サラーフッディーン県 (صلاح الدين ; Ṣalāḥ ad-Dīn) - 県都:ティクリート (تكريت ; Tikrīt)
ディヤーラー県 (ديالى ; Diyālā) - 県都:バクーバ (バゥクーバ ; بعقوبة ; Baʿqūbah)
ワーシト県 (واسط ; Wāsiṭ) - 県都:クート (الكوت ; al-Kūt)
マイサーン県 (ميسان ; Maysān) - 県都:アマーラ (العمارة ; al-ʿAmārah)
バスラ県 (البصرة ; al-Baṣrah) - 県都名同じ(バスラ)
ジーカール県 (ذي قار ; Dhī Qār) - 県都:ナーシリーヤ (الناصرية ; an-Nāṣirīyah)
ムサンナー県 (المثنى ; al-Muthannā) - 県都:サマーワ (السماوة ; as-Samāwah)
カーディーシーヤ県 (القادسية ; al-Qādisīyah) - 県都:ディーワーニーヤ (الديوانية ; ad-Dīwānīyah)
バービル県 (بابل ; Bābil) - 県都:ヒッラ (الحلة ; al-Ḥillah)
カルバラー県 (كربلاء ; Karbalā') - 県都名同じ(カルバラー)
ナジャフ県 (النجف ; an-Najaf) - 県都名同じ(ナジャフ)
アンバール県 (الأنبار ; al-Anbār) - 県都:ラマーディー (الرمادي ; ar-Ramādī)
ニーナワー県 (نينوى ; Nīnawā) - 県都:モースル (マウシル ; الموصل ; al-Mawṣil)
ダフーク県 (دهوك ; Dahūk) - 県都名同じ(ダフーク)
アルビール県 (أربيل ; Arbīl) - 県都名同じ(アルビール)
タミーム県 (タゥミーム ; التعميم ; at-Taʿmīm) - 県都:キルクーク (كركوك ; Kirkūk)
スライマーニーヤ県 (السليمانية ; as-Sulaymānīyah) - 県都名同じ(スライマーニーヤ)

[編集] 経済
イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年にキルクークで発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末から発明が続いていたガソリン・エンジンは既に実用化され、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。

1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため、名目上は石油はイラクのものではあったが、1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し、採掘権はイギリス系の企業のもとに留まった。利益はすべてイギリス系企業の収入となり、イラク政府、民間企業には配分されなかった。

第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50%がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。1972年、イラク政府はイギリス系企業の油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。

1980年に始まったイラン・イラク戦争は石油が原因ではなく、クルド人問題が発端である。しかし、戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、石油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。

1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は石油である。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。世界の石油埋蔵量の約1/2を占めるイラク、クウェート、サウジアラビアのうち、クウェートを抑え、さらに隣国サウジアラビアに軍事的な脅威を与えることに成功すれば、石油価格を上昇させ、自国の利益を最大化することができただろう。


イラクの原油産出施設イラクの原油生産量、単位:万トン (United Nations Statistical Yearbook)

1927年 - 4.5(イラクにおける石油の発見)
1930年 - 12.1
1938年 - 429.8
1940年 - 251.4
1950年 - 658.4(石油の利益の1/2がイラクに還元)
1960年 - 4746.7
1970年 - 7645.7
1972年 - 7112.5(油田と付帯施設を国有化)
1975年 - 1億1116.8
1986年 - 8265.0(イラン・イラク戦争による被害)
1990年 - 1億0064
1993年 - 3230(湾岸戦争による被害)
1997年 - 5650
2003年 - 1億9000(イラク戦争終結時)
イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油産出施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの構築や破壊された施設の復帰などにより原油の輸出は徐々に回復した。

1990年8月、イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ、1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為(湾岸戦争)で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことが、この状態に拍車をかけた。

1996年12月に国連の石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない、一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出はまだイラン・イラク戦争前よりも低い。





デーツを実らせたナツメヤシ
[編集] 農業
世界食糧計画(WFP)の統計(2003年)によると、イラクの農地は国土の13.8%を占める。天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。13.8%という数値はアジア平均を下回るものの世界平均、ヨーロッパ平均を上回る数値である。

農業従事者の割合は低く、全国民の2.2%にあたる62万人に過ぎない。農業従事者が少ないため、一人当たり16.2haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。

同2005年の統計によると、主要穀物では小麦(220万トン)、次いで大麦(130万トン)の栽培に集中している。麦類は乾燥した気候に強いからである。逆に、米の生産量は13万トンと少ない。

野菜・果実ではトマト(100万トン)、ぶどう(33万トン)が顕著だ。商品作物としてはナツメヤシ(87万トン)が際立つ。エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12.6%を占める。畜産業では、ヤギ(165万頭)、ウシ(150万頭)が主力である。

ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。少なくとも5000年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。とくにバスラとバクダードのナツメヤシが有力。バスラには800万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。バクダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。

イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 (Khalaseh)、ハラウィ種 (Halawi)、カドラウィ種 (Khadrawi)、ザヒディ種 (Zahidi) である。最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。カドラウィ種がこれに次ぐ。カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ種はバクダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。


[編集] 工業
イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1%から2%に達する(2002年時点で1.6%)。一方、建築材料として用いる日干しレンガ、レンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず、組織化されていない個人による生産に依存している。

製鉄、薬品、電機などの製造拠点も存在するが、国内需要を満たしていない。農機具、工作機械、車両などと併せ輸入に頼る。


[編集] エネルギー
イラクは世界有数の産油国であるため、2003年時点の総発電量295億kWhの98.5%は石油による火力発電でまかなっている。残りの1.5%はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。

イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀、イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツが、ティグリス・ユーフラテス川における蒸気船の運行はイギリスによって始まった。


[編集] 交通
イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200kmだ。旅客輸送量は22億人キロ、貨物輸送量は11億トンキロに及ぶ。イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。バクダットとアナトリア半島中央南部のコニアを結ぶイラク初の鉄道路線はドイツによって建設されている。

一方、自動車は普及が進んでおらず、自動車保有台数は95万台(うち65万台が乗用車)に留まる。舗装道路の総延長距離も8400kmに留まる。


[編集] 貿易
イラクの貿易構造を一言で表すと、原油と石油精製物を輸出し、工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9%、同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1%であるからだ。同年における貿易収支は輸出、輸入とも101億ドルであり、均衡がとれている。

輸出品目別では、石油(燃料)83.9%、石油(原料)8.0%、食品5.0%、石油化学製品1.0%である。食品に分類されている品目はほとんどがデーツである。輸入品目別では、機械73.1%、基礎的な工業製品16.1%、食品5.0%、化学工業製品1.0%。

貿易相手国は、輸出がアメリカ合衆国 18.6%、ロシアとCIS諸国、トルコ、ブラジル、フランス、輸入がアメリカ合衆国 13.6%、日本、ドイツ、イギリス、フランスとなっている。

イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1%と高かったにも関わらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9%と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。


[編集] 国民

バグダードに住むイラクの少女(2003年5月)
イラクの民族と宗教の分布 地方行政区分とは一致しない。オレンジ色はアラブ人(イスラム教シーア派)、北部の青色はクルド人(シーア派)、緑色はアラブ人(スンナ派)、北部の赤紫色はアッシリア人・カルデア教徒・アルメニア人(いずれもキリスト教徒)、北部の赤色はトゥルクマーン(シーア派もしくはスンナ派)、南部の紫色はマンダ教徒、斜線部は人口希薄地帯、白色部は砂漠である
イラクの水利システム 複数のダム (barrage) と灌漑水路、排水路を組合せて乾燥地、沼地のいずれも農地に変えていった
カルバラーにあるモスクイラク国民は、1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻後、それに続く2003年からのイラク戦争によって悪影響を被っている。例えば、戦前、平均寿命は1985年の63.0歳(男性)、64.8歳(女性)から、1990年の77.43歳(男性)、78.22歳(女性)へと向上した。これはフセイン政権による医療改革の影響である。1990年時点の平均寿命はほぼ連合王国(イギリス)と同水準にまで向上していた。

しかし、戦乱が続く中、2000年には57歳(男性)、60歳(女性)まで後退してしまう。乳児死亡率は、69‰(1985年)、57.8‰(1990年)、95.3‰(1995年)、102‰(2004年)と変化しており、平均寿命の変化と一致している。都市人口率の変化を追うと、70.2%(1987年)、70.3%(1988年)、69.9%(1990年)、67.2%(2003年)となっており、産業人口率の変化と併せると、都市の破壊、都市機能の低下が平均寿命や乳児死亡率の変化と同じ時期に進行したことが分かる。


[編集] 民族
国連の統計によれば、住民はアラブ人が79%、クルド人16%、アッシリア人3%、トゥルクマーン2%である。ただしクルド人については難民が多く、1ポイント程度の誤差があるとされている。右図にあるように各民族ははっきりと分かれて居住している。クルド人は国土の北部に、アッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯に、トゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人が、ステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。

イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。

マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるマホメットを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。

南部のベニ・イサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育て、マーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたが、スイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり、結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。


[編集] 言語
アラビア語、クルド語が公用語である。その他アルメニア語や現代アラム語(アッシリア語)なども少数ながら使われている。

書き言葉としてのアラビア語(フスハー)は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからだ。しかし、話し言葉としてのアラビア語(アーンミーヤ)は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのはイラク方言だ。ただし、イラク国内で共通語となっているバクダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。


[編集] 宗教
イスラム教徒が国民の95%を占め、次いでキリスト教4%、マンダ教である。歴史的にはユダヤ教徒も存在したが、現在は数百人以下だとされている。住民の分布と宗教の分布には強い関係がある。イスラム教徒の最大派はアラブ人シーア派の50%。アラブ人スンナ派の25%、クルド人スンナ派の20%が続く。キリスト教(カトリック、東方正教会、アッシリア正教会等)はアッシリア人と少数民族に限られている。

イスラム教シーア派
全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないが、イラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は預言者の後継者・最高指導者(イマーム)が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだが、アリーの次のイマームが誰なのかによって、さらに主要なイスマーイール派、ザイド派、十二イマーム派、ハワーリジュ派などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じ、イマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわち、カルバラー、ナジャフおよび隣国イランのクムとマシャドである。

イスラム教スンナ派
スンナ派ではシャーフィイー派、ハナフィー派、ハンバル派、マーリク派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。

8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ (Abu Hanifa、699年-767年)は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。

バスラのアブー・アル=ハサン・アル=アシュアリー(Abd al-Hasan al-Ash'ari、873年-935年)は、合理主義を標榜したムータジラ学派に属していたが、後に離れる。ムータジラ派がよくしていたカラーム(弁証)をもちいて論争し、影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。

アル=ガザーリー(Al-Ghazali、1058年-1111年)は、ペルシア人であったがバクダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。「イスラム史上最も偉大な思想家の一人」と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラム哲学自体に批判を下していく。

イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれのハサン・アル=バスリー(al-Hasan al-Basri、642年-728年)が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムータジラ派を開く。ムータジラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義(スーフィズム)につながっていった。

イスラム教ヤジーディー派
ヤジーディー派はシーア派に分類されるが、正当派とは大きく異なり異端とされる。異端の少ないシーア派には珍しい。イラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、旧約聖書、新約聖書。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。

キリスト教
1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマ・カトリック教会。4割強が東方諸教会に属する[要出典]。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア正教会のネストリウス派に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたが、ローマ・カトリック教会の布教活動により、東方帰一教会の一つとなった。

マンダ教(サービア教)
マンダ教はコーランに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。バプテスマのヨハネに付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバクダット下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。キリスト教以前の東洋に起源をもつ信仰が加わっている。

ユダヤ教
ユダヤ教徒はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし、10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。イスラエル建国以前は10万人を超える信者を居住していたが、移民のため、1990年時点で、ユダヤ教徒は数百人しか残っていない。


[編集] 文化

[編集] 教育
イラクにおける教育制度は、伝統的なコーランを学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、義務教育が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備過程を終了する必要がある。首都バクダッドを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。


[編集] 食文化
イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、茶である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63kgの茶を消費していた。これはカタール、アイルランド、イギリスについで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやトルコなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。


[編集] イスラム美術
細密画、アラブ書道、モスク建築、カルバラーやナジャフなどのシーア派聖地の廟建築

[編集] 音楽

ウードの全体像 糸倉が後ろに曲がっていることが特徴
ウード(奥)とバチ ウードの弦は複弦であり五コース〜六コースのものが多い伝統的な楽器としてリュートに類似するウード、バイオリンに類似するレバーブ、その他チターに似たカーヌーン、葦の笛ナーイ、酒杯型の片面太鼓ダラブッカなどが知られている。 ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では三世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、アル=ファーラービーによれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は五千年前のメソポタミア南部(イラク)にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、マカームの演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においてもマグリブ地方において古形を見い出す事が出来るが、伝承では九世紀にキンディー(あるいはズィリヤーブとも云う)によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い(正確には複弦の楽器なので五コースないし六コースの十弦〜十一弦。五コースの場合、十弦で、六コースの場合、十一弦。六コース目の最高音弦は単弦となる)。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バクダット音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてアッシリア人だが、ウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。

カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で、手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する撥弦楽器であり、弦の本数は様々だが、百本に達するもの等もある。

また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのバグダードはエジプトのカイロと並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、アッバース朝時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブ等のウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーン等の精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は千夜一夜物語にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム(マカーム・アル=イラーキー)と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。 民謡には、カスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるもの、イラク独自の詩形を持つマッワール、パスタなどが知られる。 伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だが、ズルナと呼ばれるチャルメラ状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。 またクルド人は独特の音楽を持つ。 現代のイラク人は西洋のロック、ヒップホップ、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。





[編集] 世界遺産
イラクは、アメリカ合衆国、エジプトに次ぎ、1974年3月5日に世界遺産条約を受託している。1985年にバクダードの北西290kmに位置する平原の都市遺跡ハトラ(ニーナワー県)が文化遺産に、2003年にはハトラの東南東50kmにあるティグリス川に面した都市遺跡アッシュール(サラーフッディーン県)がやはり文化遺産に認定されている。


ハトラの遺跡アレクサンドロス大王の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれたセレウコス朝シリアは紀元前3世紀、ハトラを建設した。セレウコス朝が衰弱すると、パルティア帝国の通商都市、宗教の中心地として栄えた。2世紀にはローマの東方への拡大によって、パルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡し、パルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中、224年に破壊された。226年にはパルティア自体が滅び、ペルシス王国はサーサーン朝ペルシアを名乗る。

アッシュールは紀元前3000年ごろ、メソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。その後、シュメールの南方に接していたアッカド帝国の都市となり、ウル第三王朝を通じて繁栄、紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。アッシリアが成立すると、その版図となり、古アッシリア時代のシャムシ・アダド1世(前1813年-前1781年在位)は、王国の首都をアッシュールに定め、廃れていたエンリル神殿を再建している。1000年の繁栄の後、新アッシリア王国のアッシュールナツィルパル2世はニムルドを建設し、遷都したため、アッシュールの性格は宗教都市へと変化した。紀元前625年に成立し、アッシリアを侵略した新バビロニア王国によって同614年に征服・破壊される。アッシリア自体も同612年に滅びている。その後、パルティア帝国が都市を再建したが、短期間の後、サーサーン朝ペルシャによって再び破壊され、その後再建されることはなかった。

アッシュールはドイツ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンのペルガモン博物館に展示・収蔵されている。


[編集] 祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日
1月6日 イラク国軍の日
2月8日 第14回ラマダーン革命記念日
7月14日 建国記念日
7月17日 平和革命記念日
ヒジュラ暦第1月1日 イスラム元日
ヒジュラ暦第3月12日 マウリド・アン=ナビー ムハンマドの生誕祭
ヒジュラ暦第10月1日 イード・アル=フィトル 断食月明けの祭
ヒジュラ暦第12月10日 イード・アル=アドハー 犠牲祭

フセイン政権下の祝祭日を示した。

[編集] 関連項目
イラク関係記事の一覧
イラク人一覧
イラクの歴史
バアス党
イラン・イラク戦争
湾岸戦争
イラク武装解除問題
イラク戦争:イラク戦争の年表
クルディスタン
革命指導評議会
イラク暫定政権
アメリカ帝国主義
ガートルード・ベル
歴史上の推定都市人口
イッザト・イブラーヒーム

[編集] 外部リンク
ウィキメディア・コモンズに、イラクに関連するマルチメディアがあります。
[編集] 公式
イラク暫定政府公式サイト: アラビア語、英語

[編集] その他
イラクのイメージ
日本外務省 イラクの情報
在日アメリカ合衆国大使館 イラク関連

[編集] 参考文献
池澤夏樹ほか『イラクの小さな橋を渡って』光文社、 2003年 (ISBN 4334973779)
大塚和夫ほか(編)『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年 (ISBN 4000802011)
佐藤次高(編)『新版世界各国史8 西アジア史I アラブ』山川出版社、2002年 (ISBN 4634413809)
日本イスラム協会ほか(監修)『新イスラム事典』平凡社、2002年 (ISBN 4582126332)
酒井啓子、『イラクとアメリカ』、岩波書店、2002 (ISBN 4004307961)
岩佐俊吉、『図説熱帯の果樹』、養賢堂、2001年、ISBN 4842500786
Robert B. Clarke, PEOPLES OF THE EARTH, Vol.17 Arab world, Tom Stacey Ltd., 1973
Worldmark Encyclopedia of the Nations, Vol.4, Thomson Gale, 2006 (ISBN 1414410891)
Demographic Yearbook, United Nations, 1990.
Statistical Yearbook, United Nations, 1988, 1989, 1993, 1997, 2002.
The Oud 英エクセター大学のDavid ParfittのWebページ

--------------------------------------------------------------------------------
世界の国々 > アジア
東アジア: 大韓民国 | 朝鮮民主主義人民共和国 | 中華民国* | 中華人民共和国 | 日本 | モンゴル国
東南アジア: インドネシア | カンボジア | シンガポール | タイ | 東ティモール | フィリピン | ブルネイ | ベトナム | マレーシア | ミャンマー | ラオス
南アジア: インド | スリランカ | ネパール | パキスタン | バングラデシュ | ブータン | モルディブ
中央アジア: ウズベキスタン | カザフスタン | キルギス | タジキスタン | トルクメニスタン
西アジア: アゼルバイジャン | アフガニスタン | アラブ首長国連邦 | アルメニア | イエメン | イスラエル | イラク | イラン | オマーン | カタール | 北キプロス* | キプロス | クウェート | グルジア | サウジアラビア | シリア | トルコ | バーレーン | パレスチナ* | ヨルダン | レバノン

* は国際連合非加盟。
イスラム諸国会議機構加盟国 アゼルバイジャン | アフガニスタン | アラブ首長国連邦 | アルジェリア | アルバニア | イエメン | イラク | イラン | インドネシア | ウガンダ | ウズベキスタン | エジプト | オマーン | ガイアナ | カザフスタン | カタール | ガボン | カメルーン | ガンビア | ギニア | ギニアビサウ | キルギス | クウェート | コートジボワール | コモロ | サウジアラビア | シエラレオネ | ジブチ | シリア | スーダン | スリナム | セネガル | ソマリア | タジキスタン | チャド | チュニジア | トーゴ | トルクメニスタン | トルコ | ナイジェリア | ニジェール | パキスタン | パレスチナ | バーレーン | バングラデシュ | ブルキナファソ | ブルネイ | ベナン | マリ | マレーシア | モザンビーク | モーリタニア | モルディブ | モロッコ | ヨルダン | リビア | レバノン "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF" より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事 | イラク | イスラム教国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アルゼンチン メキシコに快勝し決勝進出

アルゼンチン、強し。。

コパ・アメリカ2007



コパ・アメリカ2007は、2007年に開催される、第42回目のコパ・アメリカである。大会はベネズエラで6月26日から7月15日まで開催される。

目 次

1 出場国

2  グループリーグ
2.1 グループA
2.2 グループB
2.3 グループC

3 決勝トーナメント
3.1 準々決勝
3.2 準決勝
3.3 3位決定戦
3.4 決勝

4 最終結果

5 外部リンク



[1] 出場国

アルゼンチン

ウルグアイ

エクアドル

コロンビア

チリ

パラグアイ

ブラジル

ベネズエラ

ペルー

ボリビア

アメリカ合衆国 (招待国)

メキシコ (招待国)


[2]  グループリーグ

[2.1] グループA

国名 勝点 試合 勝 分 負 得点 失点
ベネズエラ 5 3 1 2 0 4 2
ペルー 4 3 1 1 1 5 4
ウルグアイ 4 3 1 1 1 1 3
ボリビア 2 3 0 2 1 4 5

2007年6月26日
ウルグアイ 0 - 3 ペルー
ベネズエラ 2 - 2 ボリビア

2007年6月30日
ボリビア 0 - 1 ウルグアイ
ベネズエラ 2 - 0 ペルー


2007年7月3日
ペルー 2 - 2 ボリビア
ベネズエラ 0 - 0 ウルグアイ

[2.2] グループB

国名 勝点 試合 勝 分 負 得点 失点
メキシコ 7 3 2 1 0 4 1
ブラジル 6 3 2 0 1 4 2
チリ 4 3 1 1 1 3 5
エクアドル 0 3 0 0 3 3 6


2007年6月27日
エクアドル 2 - 3 チリ
ブラジル 0 - 2 メキシコ

2007年7月1日
メキシコ 2 -1 エクアドル
ブラジル 3 - 0 チリ

2007年7月4日
メキシコ 0 - 0 チリ
ブラジル 1 - 0 エクアドル

[2.3] グループC
国名 勝点 試合 勝 分 負 得点 失点
アルゼンチン 9 3 3 0 0 9 3
パラグアイ 6 3 2 0 1 8 2
コロンビア 3 3 1 0 2 3 9
アメリカ合衆国 0 3 0 0 3 2 8

2007年6月28日
パラグアイ 5 - 0 コロンビア
アルゼンチン 4 - 1 アメリカ合衆国

2007年7月2日
アメリカ合衆国 1 - 3 パラグアイ
アルゼンチン 4 - 2 コロンビア

2007年7月5日
アメリカ合衆国 0 - 1 コロンビア
アルゼンチン 1 - 0 パラグアイ

[3] 決勝トーナメント

[3.1] 準々決勝

2007年7月7日
ベネズエラ 1 - 4 ウルグアイ
チリ 1 - 6 ブラジル

2007年7月8日
メキシコ 6 - 0 パラグアイ
アルゼンチン 4 - 0 ペルー

 

[3.2] 準決勝

2007年7月10日
ウルグアイ 2 - 2 (PK4-5) ブラジル

2007年7月11日
メキシコ 0 - 3 アルゼンチン

[3.3] 3位決定戦

[3.4] 決勝

[3.5] 最終結果


[4] 外部リンク
iCalendar
Copa America 2007 online TV
カテゴリ: スポーツ現在進行 | サッカーに関するスタブ | 2007年のサッカー | コパ・アメリカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


           
↓優良メル友なら、ココ↓
              
優良出会いサイトならココ!
◆あなたの好みの子に出会える!!
Link1
◆「ASP.NET + SQL Server」搭載!Windowsレンタルサーバ
Link2
あなたの、おなかポッコリがスッキリ!
おなかと姿勢をスッキリ見せる。姿勢ウォーカー
links
selected entries
             
categories
archives
recent comment
recent trackback
recommend
 
sponsored links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM